儒教の始祖 孔子(画像)
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内省
新渡戸稲造の『武士道』にはこうある。
『礼』とは、人とともに喜び、人とともに泣けるか。『礼』の教訓にはこうある。 『自己の悲しみ、苦しみを外面に表して他人の愉快や平穏をかき乱すことがないように求めていた。』
よくサムライが、ストイックに自分の悩みを他人に打ち明けず、何でも無いように装うことがあるが、あれが『礼』の魂である。
論語には、
『リーダーや政治家は、博く知識を集め、それを礼(=思いやり)のふるいにかけて実践しなければならない。』(雍也第六-二十七、顔淵第十二-十五)
と書いてあり、これは『博文約礼』のことを指し示している。博文約礼とは、(広く学問を修めて道理を知り、それを礼によってまとめ、実行すること)という意味。初代首相を務めた伊藤博文は、孔子の教えを心に刻もうと、本名の『俊介』を改め、名を改めたのである。
孔子は、
という様な内容の教えを、常に主張していたが、『礼』の本質を理解していれば、当然『表面』などに依存することはない。
私は、『葬儀場で、死者以外のことを考える人間が居るなら、そんな葬儀などやめた方が良い』と考えている。本来、何の宗教も持たず、あるいは何の神かも知らず、表面的にだけ儀式を挙げ、神に手を合わせる、こういう発想は、主体的ではない。人生を主体的に生きようとしない姿勢は、命への『礼』知らずだと考えている。
参照文献
顔淵第十二-一
子曰く、礼にあらざれば視ることなかれ、礼にあらざれば聴くことなかれ、礼にあらざれば言うことなかれ、礼にあらざれば動くことなかれ。