儒教の始祖 孔子(画像)
Contents|目次
内省
『情状酌量』というのは、事情をくみ取って、同情的に考える判断基準。『情状酌量の余地』というのは、同情できるような理由があるかどうか、ということである。例えば同じ『殺人』という罪でも、『正当防衛』という概念がある。相手に身を任せていたら、こちらが殺されてしまっていた、という状況では、相手に反撃し、そして相手が偶然死んでしまってもそれは『正当な防衛』によるものだと判断される。
ただもちろん、『そこまでやる必要はなかっただろう』ということをすれば、今度は『過剰防衛』という概念に該当してしまう。そういう風に、『事情』や『状況』によって罪の重さが違う。それだけ考えても、人間にはもともと罪などない。いや、もっと厳密に言うと『本当は全員心底の部分に罪が存在』していて、まるでヘルペスウイルスのように、ある瞬間に急に発症してしまう。
ヘルペスウイルス
主にストレスを負ったときに唇に発症してしまうウイルスで、放っておくと痒みや激しい痛みを伴う。これは薬で治療できるが、一度発症すると表面上では消えても、体内に一生残って消えることは無い為、またいつでも再発してしまう。
ある『環境』によって罪の感情を増幅させられ、それが表面化する人間の『罪』は、 まるでウイルスのように見える。だがそう考えると、本来憎むべきなのは人間というよりも、そのウイルス(罪)だ。そうだとしたらそこに照射すればいい。人間にレーザーを当てて焼き殺すような真似をしたら戦争になる。そうではなく、『罪』だけを憎むべきなのだ。
参照文献
顔淵第十二-二十一
その悪を攻めて、人の悪を攻むることなきは、とくをおさむるにあらずや。