儒教の始祖 孔子(画像)
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だが実際に、例えば『家政婦』などの仕事はどうだろうか。ある種『召使い』のような立ち位置で仕事を請け負い、対価を得る。ベルトコンベアの前に一日中いる作業スタッフはどうだろうか。ある種『機械』のようにルーチンな仕事を淡々とこなす毎日を過ごす。
戦国時代の軍師と歩兵との関係性では、軍師が本部から指示を出し、歩兵はその戦略の『駒』となり、戦場へ挑む。売れない芸人を全国津々浦々に配備させ、全国隅々から少なからずの売り上げを上げるのも『駒』のように見える。大都会には大きな売り上げのシェアを占めるトップ芸人がいるからだ。
縦軸が『売り上げ』、横軸が『エリア』であり、小さな売り上げでもかき集めれば大きな売り上げになる。これによる経営戦略にも捉えられる。だが、取り分が少ない売れない芸人はトップとの差が天と地ほどの差だ。同じ働く量、あるいはそれ以上の量日中動き回っていても報酬が少ないなら、まるで『奴隷』のようにも見える。だから孔子が言う様に、確かに『人間は人間』だということがわかっていても、自然と対象がその『人間』から逸れてしまうことがある。
これは『人間側』が気を付けなければならないのか、あるいは『逸れた側』が留意しなければならないのか。おそらく、そのどちらも必要だ。お互いが自分、相手のことを『人間』だと思う。人間には個性があって、環境の差異や、能力の違いがある。だからそれぞれのその特性を活かして目の前のことをやるしかないのだ。
それを短絡的に見て、管理する人間は、見下してはならないし、される人間は、卑下する必要は一ミリもない。今、『上』にいる人間も、かつては『下』に居た。だが往々にして彼らの共通点は、当時の自分を卑下していないのだ。
(これは明日の為の確かな一歩だ)
そう言い聞かせて這い上がってきた人間が実に多い。そう考えると、例え『奴隷扱い』されたって関係ない。それを起爆剤にし、エネルギー源にし、逆にピンチをチャンスに変える。それが『人間』の矜持だ。
参照:周公、魯公に謂いて曰く、(中略)備わるを一人に求むることなかれ。
(微子第十八-十)
周公、魯公に謂いて曰く、(中略)備わるを一人に求むることなかれ。