儒教の始祖 孔子(画像)
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『切磋琢磨』出来ている人間は、どれぐらいいるだろうか。原石というものは、まだ決して宝石とは言えない状態の石である。しかし、削って磨き、形を整えれば、美しい色と輝きを放つ。それが、宝石の原石だ。わかりやすくダイヤの原石ということにして考えると、人間、誰しも必ずダイヤのように光り輝く、何らかの価値を備え持っている。
意味を知っている人からすれば当たり前のようなことを書いたが、『意味を知っている人』は、あまりにも少ないのではないだろうか。多いのであれば、なぜ私の半生で、見かける人がこんなにも少なかったのだろう。一つは私があまりにも理想が高いからであり、一つは意味を知らない人ばかりだからであり、一つは私が最初から一流が集う場所に参加しないで人間を決めつけているからである。
『意味を知らない人』というのはもちろん、『自分にはダイヤのような価値はない』と決めつけている人も、その対象である。それは『周りと比較しているから』そう思うのだ。『周りがいなかったら』卑下しないのだ。
エマーソンは、『独立独歩』というエッセイでこう述べている。
『だれでも教育を受けている過程で嫉妬は無知であり、模倣は自殺行為にほかならないという確信に達する時期がある。』
人間全員が、ダイヤの原石なのだ。それを理解している人間同士なら、切磋琢磨が出来る。そうじゃないなら、それは切磋琢磨にはならない。どちらか一方だけの原石が磨かれることや、どちらかの原石の可能性を切り崩すことは、切磋琢磨ではないのだ。
自分がダイヤの原石だということを理解していて、互いにそれを理解しているダイヤの原石のパートナーや仲間がいて、ダイヤになるまで互いに磨き上げることが出来ている人間は、つまり『切磋琢磨』出来ている人間は、どれぐらいいるだろうか。ちなみに私のいう『切磋琢磨』とは、妬み、嫉み、足の引っ張り合い、強欲、隠蔽、捏造、見栄、虚栄といった、あまりにも醜い人間の私利私欲が一片も介入しない、崇高な人間関係の上に成り立つ概念である。
詩に云う。切するがごとく、磋するがごとく、琢するがごとく、磨するがごとくしとは、それこれを謂うか。