儒教の始祖 孔子(画像)
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もっとも、『違和感』が働かないような鈍感であれば、 役に立たない言葉となって消えるだろう。だが、磨きに磨き、 ひたすらに『万里の道』を歩いてきた人間にとって、 『違和感』とは、往々にして正しい。 つまりそれは、夏目漱石曰く、『万里の天』である。
『席』というのはもちろん、食事の際の『上座、下座』もそうだし、役職の座や、役人の天下り先もそうだ。彼らはおぜん立てられ、ちやほやされ、第三者が見れば『馬鹿な悪代官と越後屋』にしか見えないのに、本人たちは自分たちを『賢い』と思っている。人を支配していて、牛耳っていて、金を持っている。それこそが、彼らの目を『盲目』にしている理由なのである。
私のこの短い半生でも、この『席』の話はたくさんあった。無意味に媚を売り、無駄なヨイショをする後輩や年下。サラリーマンの給料の数倍の報酬をちらつかせ、自分の支配下に置こうとする拝金者。
などというお粗末な『コントラストの原理』を使い、さも(10億なら出るのか)という駆け引きをねじ込み、私を吸収、あるいは支配下に置こうとした悪友。
という心理が丸見えになっている結婚適齢期の女性。どれも、一見すると『贅沢な悩み』に見えるかもしれないし、 実際にそう言う人間もいたが、私は、そう言う人間にこそ違和感を覚えて生きてきたのだ。無論私は、『公明正大』な人間には程遠い。だが、『厚顔無恥』な恥知らずを良しとしたことは一度もない。これからも自分の『違和感』に従い、そしてまだまだその『違和感』を磨いていくつもりだ。
席正しからざれば、坐せず。