儒教の始祖 孔子(画像)
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孔子が事実として 『法律?私は認めていない』 と言ったかはわからない。これは私が勝手に超訳しているだけだ。だが、内容を見ればわかる通り、孔子は法律に依存するような国家を 良しとしていなかった。法律がなくとも、皆の規範意識が高ければ健全な社会は生まれるからだ。一人一人が他に依存せず、主体的である。孔子が理想としていたのはそういう社会だ。そう。だから冒頭に挙げた言葉を言ったかもしれないし、 言ってないかもしれない。
さて、『言った言わない』の水掛け論をするよりも、今日考える真理と孔子の言葉はこうだ。
『政治にどうして殺人が必要でしょうか。まったく不要なものです。』
なるほど。孔子が冒頭に挙げたようなことを言い、最も孔子の教えに近いと言われる『論語』にもそう記述しているのであれば、おそらくそう考えていたのだろう。 そして、別に孔子が考えていた、ということを取っ払って考えても、この言葉は的を射ている。人の命の上に成り立つ正義を、本当に正義だと心底から確信できる人間はいるだろうか。
確かにその方が世のため人の為になるケースはある。だが、孔子が言うのはもっと根本的な話だ。そういう対象者にも、家族がいる。生きてきた環境がある。そして、我々人類は、未来の子孫に歴史を残す責任がある。
その中で、どんな理由であっても殺人を肯定するような判断をしてしまっては、人間は、人間ではなくなり、何か別の存在に成り下がってしまう気配がある。
確かに孔子が言う、
『善人が代々首相になって100年もすれば、死刑をなくすことさえできるだろう。』 (子路第十三-十一)
ということの理想は高い。例えば今の日本人が、自国の首相にそれを求めている人がどれだけいるだろうか。いや、実際には求めている。だが、『無理だ』ということを知っている。なぜなら我々は、『代々の首相』を見てきているからだ。
しかしそれでも、孔子の掲げる理想は『真理』である。それはたとえ何万年経とうと、人間が生きている限り掲げるべく、真理なのだ。孔子の意見は傾聴に値する。今日もそう内省することが出来た。
孔子対えて曰く、子、政をなすに、いずくんぞ殺を用いん。子、善を欲すれば民善ならん。