儒教の始祖 孔子(画像)
Contents|目次
私はこのことをよく知っている。誰にでもできる。『環境』次第だ。ポテンシャル(腕力、体力、知力)等は一ミリも関係ない。別に誰だって出来る。ただ、一線を超えるだけだ。引かれている境界線を超すだけ。言うなれば、足さえあれば赤子にでもできる。それが『悪の道に逸れる』ということだ。
ただ『環境』によって、 それを壊したくないと思う人はその境界線を越えないし、別に今の環境がどうなったっていい、むしろ変わってほしいと思っている人は、 境界線を越えようと思う。それだけの差だ。
つまるところ、別に誰にでもできる。『守りたい環境』があるかないかだけだ。だから、思い上がってはならない。別にそれは、『はじめの一歩』にはならない。そんなに勇猛果敢な、名誉あるものではないのだ。
同じように、『善の道を歩く』ことも容易だ。誰にでもできる。このことを捻じ曲げて理解してはならない。悲劇のヒーロー、ヒロインを気取る必要は一切ないし、勇猛果敢な人間だと過信する必要もないのだ。過大評価も、過小評価も、時間の無駄である。
子曰く、仁、遠からんや、我れ仁を欲すれば、ここに仁至る。