儒教の始祖 孔子(画像)
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ある本にはこう書いてあった。
『あなたの部下がミスをしたとき、なんでお前は出来ないんだ!なぜこれくらいのことが出来ないんだ!と言って、激昂しそうになったとき、思い出してください。あなたの部下があなたと同じ仕事が出来るのなら『同僚』、あなた以上の仕事が出来るなら『上司』になっているということを。』
今回の孔子の言葉が意味するところと、同じことをついている。だが、ここで絶対に間違ってはならないのは、この言葉を『援用』しないことだ。援用、つまり自分の都合の良いようにこの言葉を解釈して、自分の暴挙たる行動の正当化に使わないということ。例えばこうだ。
なんだ。やっぱりそうだよな。俺は出来る人間だが、あいつは俺よりも出来ない。 だから部下なんだ。下等なんだ。俺という武将が、あいつという駒を動かす。それこそが平等で、在るべき姿なのだ。 俺は勝ち組だからな。負け犬とは違う。
こういう発想をする人間は、実によく見かけることだろう。当然、孔子がこういう人として『下等』な人間を『援護』するような発言はしない。人に優劣をつけ、勝ち負けにこだわり、成功者、負け犬などと差別する人間に『上等』な人間はいないのである。
当然、部下に厳しい人間は、それ以上に自分に厳しくなければならない。だが、とかくそういう人間は、部下にも同じようなレベルを求めることがある。そのとき、今回の孔子の言葉を思い出すべきなのだ。
かつて私は、助言をした友人に、こう言われたことがある。
そのとき、私は一瞬心でこう思った。
(そうかもしれないな。)
しかし、次の瞬間に恩師が割って入り、その友人の『歪曲しようとした真実』と、私のその『自惚れ』を見透かしたように言った。
なぜ私が『自惚れ』だと思ったか。それは、私がその友人の言葉の中に、『あなたのように、高いレベルではない』と言うワードが入っていたことで、『自己の重要感』が満たされ、優越感という名の『曇り』が見識を濁し、彼に対する要求を妥協してしまった。
自分が上等な人間だと認められた。あるいは人権を尊重されたときに満たされる感情。
だがその刹那、恩師がすべてを見透かしたようにそう言ったのだ。その発言がなければ、その場は、その友人は、そして私の思慮は、濁り、あるいは歪められていただろう。
だから、求めるのはいい。それ自体はむしろ、やめてはならない。相手を信用しているから、強い面を打つのだ。面を打たれたら『痛い』からといって手を抜いた面を打つ。それが本当に『思いやり』だと思っているのなら、それは『偽善』である。『成長』とは、そういうギリギリのところで切磋琢磨しながら、『限界値』を引き上げることをいうのだ。『限界値』というぐらいだから、そう簡単には引き上がらない。『限界』なのだから。
だがそれはあくまでも『現状』の限界値である。そしてそれを引き上げるためには、『高い目標』と『切磋琢磨』が必要。それをし合うのが、真の『友人』であり、『仲間』の在り方なのだ。だがその時、相手がもし、その『修行』の強度に耐えられず、途中で立てなくなってしまっても、それについて激昂することを、抑えなければならない。
熱いのは良い。だが、そもそもその『修行』は、切磋琢磨の為に始まったものだということを、忘れてはならない。相手が潰れてしまっては自分の修行にもならない。ときには休憩を取ることも、修行の一つ。そしてその休憩のタイミングは決して自分のタイミングだけで判断するものではないのだ。
子曰く、有司を先にし、小過を赦し、賢才を挙げよ。