儒教の始祖 孔子(画像)
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スポーツの後に、その勝敗に納得がいかず、敵のサポーターや選手を殺す事件がある。あれが行われてしまうようではスポーツとは言えない。また、『手は使ってはいけない』というのがサッカーなのに、国の事情によっては『ばれないように手を使うのはスキルだ』という概念が当たり前のように浸透しているが、それはスポーツではない。
法律(ルール)の網をギリギリのところで交わし、時に警告される拝金主義者と同じだ。自作自演も出来レースも全て同じだ。『勝つ』為に、『金を稼ぐ』為に、躍起になって人の道を外す人間がこの世には溢れている。
生まれた環境も影響しているだろう。育った環境も影響しているだろう。その勝敗が人生を大きく変えるのだろう。だが、それはスポーツではない。ルールに則って出来ないそれは、スポーツではない。礼に始まり礼に終わる武道やスポーツはたくさんある。それこそが本当のあるべき姿である。それでも、これからもギリギリの行為は、スポーツの中でも金儲けの中でも行われ、 そしてむしろ、一線を画す彼らの存在は目立ち、一時は人々から称賛の目を集めることもあるだろう。
しかし覚えて置かなければならない。それらの行為は、エセであり、『公式ではない』のだ。だからやるとしたらそういう認識でやることが重要だ。そうじゃないと、馬鹿正直に生きる人間が、本当に馬鹿を見てしまうことになる。
日本のトップをひた走る、ソフトバンクの孫正義、楽天の三木谷浩史、ユニクロの柳井正を大きく突き放し、経営者の中から『理想の経営者』として第一位に輝く、過去の経営の神、松下幸之助からその血を受け継いだ現代の経営の神、稲盛和夫は、なぜその座にいるのか。それは、彼が経営者である前に、指導者であるからだ。彼の本を読むと、彼が仏教徒であることがわかる。どんな信仰でもいいのだ。私などは生涯無宗教を誓う人間である。だがとにかく、単なる拝金主義者とは一線を画す信念がなければならない。
稲盛は、浮ついた株の話には決して食いつかなかった。自分の歩くべき道をひた歩き、大きな一勝を挙げ、また、傲慢不遜に腐敗しきったJALの人間一人一人に魂を吹き込み、そして息を吹き返した。『アメーバ経営』、そして『稲森フィロソフィ』である。
こういうことは『人の道』が見えていない人間には出来ない。スポーツも金儲けも、本来その『道の上』でやるものだ。それを、勝手に人の事情が捻じ曲げた。そして多くの人がそれに同調し、追従しているだけだ。多くの人がそれを真似すればそれが正解かのように見えるが、『不正解』だから、破綻するのだ。人も、企業も。
赤信号、皆で渡れば怖くない。だが、赤信号は、止まれだ。
子曰く、射は皮を主とせず。力をなすに科を同じくせず。古の道なり。