儒教の始祖 孔子(画像)
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『知行合一』という言葉がある。『知っている』だけでは、知識があるとは言えない。その知識に則って、『行動する』ことで初めて、『知識がある』と言えるのである。知識と行動が伴って初めて、『知識』となるということだ。
そして孔子は、
『物事を知識として『知っている』段階は、『好きだ』という段階には及ばない。『好きだ』という段階は、『楽しんでいる』という段階には及ばない。』
と言っている。例えば、私は今毎日こうして内省の時間を作り、『本(知識)』を通して四聖や賢人を通して人生を考えているが、これを続けるのは、『好き』じゃなければできない。だが、『意見(主張)』というものは、必ずしも世間には通らない。だから途中で、『障害物』が立ちふさがることがある。それに、『時間』の問題もある。それ以外に『好き』なこともたくさんあるからだ。『義務』の時間もある。
では、それらの問題を抱える中で、どうやったらその合間を縫って『時間を作り』、内省を遂行するか。そこには、『好き』以上の感情が必要になってくる。『優先順位』として、なにかこう、『使命感』に似た燃える感情を燃やすことが求められる。
これをやらなければ、人生に悔いを残す
これを避けて通れば、自分の人生はおろか、子孫、部下らの人生に堂々とバトンタッチが出来ない
等、その『使命感』を燃やすことが出来れば、人は『好き』の次の段階へと進むことが出来る。
『楽しむ』ということは、『楽をする』とは違い、しんどい思いをしなければならないことがある。例えば『登山』だ。あれはしんどい。山をなめてかかれば、命を落とすこともある。実際私も埼玉の秘境でなめてかかって、落石、巨大スズメバチとの遭遇、軽い遭難等、散々な目に遭った。
だが、山は教えてくれたのだ。『一度決めたら絶対にそれを遂行する』という、『頑固』にも『頑迷』にもなる私の頑なで傲慢な考え方を打ち砕き、『柔軟性』と、『人間の無力さ』を教えてくれた。こういうことは、『大自然』に挑戦しなければあり得ない。大自然に『訓練』として挑戦するプロの人間が、命を落とすニュースをよく見るだろう。彼らもまた、ある種の傲慢さを抱えて、それに挑んだのだ。
人の命が失われば決して『楽しい』とは言えないかもしれないが、これは言うなれば宇宙の法則に直面したということ。人間が、人間本位であることを思い知るような、こういう過酷でシビアな現実と向き合うことこそが、実は、人生を『楽しむ』ということに繋がっているのである。こういう経験は、決して『楽をする』人には出来ない。『楽しむ』と『楽をする』のとでは、雲泥の差があるのだ。
こう言うと、
という意見を抱く人もいるだろうが、そう抱いた時点で実はすでに彼は『楽をしている』のである。
『人間本位』という言葉の意味を理解してない。もし我々が『人間本位じゃない』のであれば、宇宙のことを研究してその答えをどこまでも探究したり、科学と宗教について考えを張り巡らせたり、あるいは環境汚染と生物多様性について考え、環境活動をする。
寄付や慈善でもいい。何でもいいが、とにかく『本位』とは『自分だけが生きていければいい』という意味だから、それに支配されてしまっていることに気が付けるのは、『大自然』のような圧倒的な力と向き合うことが必要だ、ということなのだ。
わざわざ身の危険をさらすのは馬鹿だ
と思った時点で、すでに『本位』を、自分や人間に当てはめる、傲慢な考え方に陥ってしまっているということなのである。
私は以前、楽ばかりしていた。だから当然、何一つ長続きすることなどなかった。毎日を刹那的に生き、突きつけられている大きくて複雑な試練への葛藤から逃げる日々。その時代は、自分がなぜ生まれて、何をして生きていけばいいのか、よくわからなかった。皆自分のことしか考えてないし、信頼できる人間がいなければ、当然神など信じることはできない。
全部嘘だろ。建前だろ。無意味で、虚ろで、魅力を感じない。人生を知り尽くしたような気持ちになっていたのだ。だが、『実際には何一つ理解していなかった』。つまり当時の私は、楽しむでもない、好きでもない、知識としてもない、その下の段階だったのである。知りもしなかったのだ。知識すらなかった。
それなのに、人生を知り尽くしたつもりでいた。
そういう経験を私はしているから、孔子を通してここまで力強い断言ができる。”楽しむ”ことが人間が受けられる最高の賜物なのだ。
まず最初に、自分が無知で無力であるということを知ること。傲慢さを捨て、謙虚さを覚えること。そして次に、学ぶこと。無知ならば出来る。知識を得るのだ。そのうちに学ぶことが好きになってくる。ゲーム世代にわかりやすく言えば、『レベル上げ』だ。レベルが上がるのは楽しいだろう。私などもレベルアップのファンファーレを聞くと、よくテンションが上がったものである。
これで次のステージに行ける!
これであの敵に挑める!
などとして、自分の未来への道が、可能性が切り開かれる瞬間だからだ。そしてそうこうしている間に、もう実はこれら一連を『楽しんでいる』のだ。最中は『面倒だ』とか、『大変だ』と思うかもしれないが、後で振り返れば、『それこそが人生だった』と思い知るだろう。登山も同じだ。最中は本当に大変。だが登り終えてみると、『一番のハイライトはその大変な登山中だった』ことに気が付く。
吉川栄治は言った。
そう。我々はもうすでにこの人生を『楽しんでいる』のだ。楽しんでいる人とそうでない人の差は実は、それを理解しているか、いないかの差だけなのである。先進国の人も、途上国の人も、 人生を楽しんでいる人というのは、それを理解しているかしないかという差だけだ。
子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。