儒教の始祖 孔子(画像)
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人を愛せば生を願い、人を憎めば死を願う。
私もかつては、人の死を願った人間の一人だ。そのときは、死が何を意味するかも理解していなかった。ただ、相手が死ねば、自分が苦から解放される。ただそれだけで、そう願っていたのだ。
孔子は、理性や知性を重んじていたが、それ以上に、感性や感情を重んじていたという。感情をコントロールできるのは理性よりも、『愛』である。孔子の言うその話に、私も異論はない。人はどのみち死ぬのだ。自分が願わなくても死ぬ。そして自分も死ぬ。だから自分たちのちっぽけな私怨で憎しみ合い、その儚い命を無下にしても、無駄にしてもならない。
もっと大きな視点で考えるのだ。我々は同じ時代を生きた、運命共同体ではないか。輝かしい有名人も、外国人も、一流も皇族も天才も大富豪も学者も、同じ時代を生きた稀有な絆で結ばれている。理不尽に亡くなった命も、理不尽に命を奪った人間も、病気で苦しむ人も、あらゆる異なった宗教家も、与党も野党も競合もライバルも敵も味方も犬も猫も鳥も、皆、稀有な絆で結ばれているのだ。
家族同士で殺し合うこともある。だから、絆があれば全てが解決するというものではない。だが、人の生を願うか、人の死を願うか、そのどちらを選ぶかによって、自分の人生の価値は決まると思え。
世の中には、たとえ自分の家族を理不尽に殺されても、仇討をしないでその試練を乗り越える誇り高き人間もいる。かくいう私はそういう状況に陥ったことが無いから言う権利はないが、今のところ、 私を裏切った人間や嵌めた人間、騙し、欺き、偽り、誤魔化し、見下し、盗み、奪い、足を引っ張った人間への殺意は、克服できている。
内省によって彼らの事情もよく考え、自分に至らない部分からも目を逸らさず、たとえ100対0で相手が悪いような場合も、『100対0と考えてしまう自分にこそ落ち度はある』と考え、その理不尽を逆に自分の糧にし、まるでロケットを宇宙へと打ち上げる時に使うカタパルトのように、負のエネルギーを、正のエネルギーとして転換することが出来た。
かつて相手の死を望んだら、本当に相手が死んだことがあった。その時私は気づかされたのだ。
(なぜこうして相手はどうせ死んでいく運命だったのに、私はあの人の死を願ってしまったのだろう。)
自分の器の小ささを。そして、何よりも負けず嫌いと自負していた自分が、自分の人生に屈していたという決定的な事実を。理性よりも『愛』だと言ったが、それは本当にその通りなのだ。理屈ではない。理屈で考えたら、この世はただただ理不尽だ。大きな愛でもって人を、この世を受け止めることが出来たのなら、それは、人生に打ち克ったことになるのである。
これを愛してはその生を欲し、これを悪みてはその死を欲す。すでにその生を欲して、またその死を欲するは、これ惑いなり。