儒教の始祖 孔子(画像)
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内省
孔子が始祖である『儒教』の教えは、どちらかというと弟子たちが創った教えである。その儒教では、親が亡くなったら三年間喪に服することは絶対とされている。だが孔子は、『表面的にそれに従うなら意味がない』と言っていたという。そもそも弟子の宰我(さいが)が、孔子に問うたことが始まりだ。
宰我
孔子
今回の孔子の言葉の超訳はいささか乱暴に書いたが、だが孔子は常に『表面的な礼儀』を嫌っていた。例えば、自分の先祖でもなく、何の神様かわからないのに何かあった時に祈るような人間は、神への冒涜であり、本当に信心深いとは言えない利己的な意味合いで神を利用する人間や、心のこもっていない表面的な挙措動作をする人間を、孔子はよしとしていなかったのである。
私も大いにそれに納得だ。私は社交辞令など使わないそもそも私が孔子を含めた四聖や偉人たちに目を向けるようになったのも、『私と考えが一致している』からである。
もちろん私が偉人だと言っているわけではないが、親も含めた周囲の人間で、考えが一致する人間は皆無に等しかったのだ。そして私は『みにくいアヒルの子』の扱いを受けていたのだいやもちろん、全てが一致しているわけではない。部分一致だ。例えば今回のテーマであれば、『三年間喪に服すること』は、私は考えていないだが、もし自分で確固としてそう確信する何かがあれば、そのような哲学でもって、それを貫き通すつもりである。
例えば私は、10年以上前に亡くなった犬がいたが、それ以来、私は犬を飼うことは出来なくなった。その犬を通して学んだ経験があまりにも大きすぎて、すぐに次の犬に移るという考えが起きないのだそれから10年以上経った、これは、ある種の喪に服することに似ていると考えていて、孔子の哲学にも納得できるのである。
私は今、もし挨拶をしたとしたら、それは社交辞令などではなく、本当に心がそうしたいと叫んだからやっただけだ。つまり、叫ばなければ挨拶などしない。叫べば、相手から煙たがられようが、するべきだと考える。あなたは道で通り過ぎる人に挨拶をするだろうか。
なぜしないのだ。社交辞令をするのなら、するべきだろう。彼ら、彼女らも、同じ時代を生きる選ばれた仲間ではないか。それとも、『挨拶をしてもらえる確信がある人』を選んで、挨拶をしているのだろうか。だとしたら所詮それは利己的である。
私には『心配している』と言ってくる、ある程度社会的地位のある60過ぎの知人がいた。だが私は、どうも彼ら、彼女らの言葉には違和感を覚えていた。利己的な匂いがしたのだ。
そして3年間の交際を経て、その違和感は見事に的中。メッキが剥がれたというべきか、ついに本性は垣間見えた。私の睨んだ通りの本性が浮き彫りになったのである。それが『利己』であり、『傲慢』である。
そんな最中の2011年3月、かの大震災のときに私は配慮のメールを送った。違和感を覚える中、それここれとは別。彼ら、彼女らの身の安全を祈ったのだ。だが、そのメールは、30歳以上も離れて、『心配している』などというワードをこれ見よがしに言わなかった私の方から、送ったのが決定的な事実だ。
なぜ『心配している』彼らの方から、先に連絡をしてこなかったのだろうか。それは本当の意味で、相手を『心配していない』からである。
寡黙に見えて付き合いの悪いと思われた人間がいざという場面で利他的になり、自分の使命や責任、ときには命を全うするときがある。礼儀をわきまえている人間は、一体どういう人間なのだろうか。
参照文献
子曰く、予の不仁なるや。子、生まれて三年、然る後に父母の懐を免る。それ三年の喪は天下の通喪なり。