儒教の始祖 孔子(画像)
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先生と言う言葉は、そもそも『先に生まれた者』である。つまり後生とは、『後に生まれた者』である。先輩と後輩だ。そもそも、『先生』が生徒に何かを教えるという起源は、そこからきているのだ。学校や塾などという概念がない中、ものを教えるのは当然この『先生』だった。
ごく自然に、先生が後生に指導、助言、教育をする。往々にしては、それで成り立つ。だが、『先生』に甘んじて、『後生』を侮っていると痛い目に遭う。『後生』だからといって先に生まれた人間よりも無知で無力だと思うなら、痛い目に遭うと言っているのだ。
実を言うと私も今、気に入らない『先生』が両手に数えるくらいいる。私の場合、家族、親族、身内だからといってえこひいきすることはしないと決めている。それは『越権行為』であり、『特権の乱用』。他の『後生』がそのえこひいきを見たら私への信用はたちまち消滅することがわかっているからである。
だから私の『先生』になり、殿様のような態度を取りたいなら覚悟した方がいい。 ”先生”が”後生”に抜かれたらシャレにならんぞ。私は後生には厳しい愛情を注ぐことを恐れないが、先生なる者には、それ以上の要求をし続けるつもりである。だから、もし数十年後、この世から私の『先生』がいなくなれば、少しこの世は、つまらなくなるだろう。
子曰く、後世畏るべし。いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや。