儒教の始祖 孔子(画像)
Contents|目次
良きリーダーとは、短所ばかりに目を向けて『苦手なこと』だけをやらせ、長所を潰すような人間ではない。短所が気にならないくらい、長所を活かせる人間だ。長所をフィーチャーしないで、短所だけを並べ立てるのは、リーダーには向いていないのだ。将棋で考えてみたらわかりやすい。短所ばかりに目を向けるリーダーとはまるで、全ての駒に対し、『成ったあとの飛車、角』の動きを求めるプレイヤーである。そういう人間は他の駒に対し、こう思っている。
(使えねえな)
だが、良いリーダーとは、将棋の駒一つ一つの特徴を理解していて、それを上手に使いこなす。歩だろうが、桂馬だろうが、彼らにしか出来ない働きをしてもらい、あるいは、『成らせて』彼らを、昇華させる。
前述した『フィーチャー』とは、『特徴づける』という意味。長所をフィーチャーできないリーダーは、人間の個性を特徴づけることが出来ない人間であるため、リーダーとしては無能の烙印を押されるということだ。だが、ここで気を付けなければならないのは、『教育』と『育児』の違いをきちんと理解していなければならないということだ。『短所を見て見ぬフリをする』ということではないということ。それは、『甘やかし』であって、本来やるべき、やれるべき能力を発揮できない、『使えない』人間に成り下がってしまうだろう。
ここで挙げられているのは、『教育ばかりに目を向けて、育児を放棄するな』ということ。そしてそれはもちろん、『育児ばかりに目を向けて、教育を放棄するな』とも言えるのだ。ここを間違えてはならないのである。例えば、いくら才能が豊かで天才的な能力を持っていても、遅刻、事故、暴力事件、性犯罪といった秩序を乱すような行為をしたら、せっかくのその能力は、水の泡になる。『育児』で才能は伸ばした。だが、『教育』を放棄して、社会不適合者となり、結果的に才能が開花されることなく、消えてしまったのでは、やりきれないだろう。『教育』と『育児』と、その両面のバランスを取ることが、重要なのである。
今や、世界記録を生み出し偉人の仲間入りをした、楽天のマー君。彼のこの偉業には、予兆があった。これは沢村賞をも取る前の、数年前の話だ。インタビューでいつも叱られていることに対して聞かれた彼は、こう答えたのだ。
『別に褒められたいとは思わないです。褒められて喜ぶということは、『お前はここまでの人間だ』って言われているのと同じだと思うから、褒められて喜ぶのは、二流だと思います。叱られるということは、『お前はまだまだ伸びる』って言われているのと同じだと思うから、叱られて喜べなければ、一流にはなれないと思います。』
野球のことなど全くの無知だった私でも、この言葉に宿る本物の心構えはしっかりと届いた。そして、すぐに社員に伝えたのだ。わが社の社員にも一流の教育をしたい。そう思うからこそ、私はすぐに、そういう行動に出た。だが、社員はそれをすぐに受け入れられなかった。それどころか、今でも受け入れられていない。その心構えで努力したマー君が出した結果は、周知のとおりである。だが、受け入れなかった我が社員が出した結果は、人に話せる内容ではない。
短所を潰すのではなく、長所を活かすとはどういうことか。活かすということは、フィーチャー(特徴づける)という意味。対象者を、将棋の駒のように使いこなせているか。あるいは、将棋の駒のように使いこなした延長線上にあるのは、ミッションを遂行できるだけじゃないのか。対象者の明るい未来は、幸せは考えられているのか。人間を、将棋の駒のように考えることは、越権的ではないのか。
20代の対象者の『特徴』が、その時点でベルトコンベアの流れ作業や、内職のような淡々とした作業を繰り返すことに適している、というとき、本当に彼には、そのような仕事をさせるべきなのだろうか。それとも、将来の可能性を潰さないために、器を広げるべく、『苦手なこと』をやらせるべきなのだろうか。その指導、教育の延長線上になにがあるかを、どれだけ考えられているのか。良きリーダーになるには、考えるべきテーマがたくさんある。
子曰く、君子は人の美を成して、人の悪を成さず。小人はこれに反す。