儒教の始祖 孔子(画像)
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孔子はこう言っている。
『昔の人が言葉に慎重だったのは、自分の言葉に実行が追い付かないのを恥としたためだ。』
私は常々『不言実行』を重んじているからよくわかるが、『口先だけ』の人間の、なんと無様なことか。自分の人生でそういう人間を何人も見てきて、私はそれを座右の銘にすることになったのだ。『恥』を知らないのだ。『見栄』のことに頭が支配されていて、肝心の『恥』を軽んじてしまっていることに気づいていない。
見栄は『表層』だ。だが、恥は『実際』である。口先や見た目、外聞や体裁といった表層に支配され、一流をふるまうのはいいが、それに不相応だったときに恥をかくことを理解していない。
福沢諭吉は言う。
『ひそかに大きな志を持て』
出来損ねる大言壮語に支配され、恥をかくぐらいなら、『不言実行』でやってみせよ。もちろん『有言実行』が出来るならそれにこしたことはない。人間のタイプによって、その方が潜在能力を発揮できることは、往々にしてよくあることだ。
だがここまで考えればわかるはずだ。『不言実行』も『有言実行』も、『恥』を知る人間だけが出来ること。とにもかくにも『実行』出来ない人間の生き様は、『恥』だと考えられる思慮深さを持たなければそれは出来ないのだ。
なぜ実行できないと恥かということは、『やむを得ない理由で実行したくてもできない、あるいはできなかった人』の人生を考えただけで、理解るはずだ。実行できない自分の正当化(言い訳)をすぐに思いついた人間は、自分の思慮浅さについてすぐに思いつけないことの『恥』を、知らない人間である。
子曰く、君子はその言の、その行いに過ぐるを恥ず。