儒教の始祖 孔子(画像)
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『垂範実行(すいはんじっこう)』とは、自らが模範となって実行し、後に続く者に教えることを言う。山本五十六の、
もそうだが、私も指導者のはしくれ、孔子と山本五十六の言うこの『垂範実行』に関しては、本当にその通りだったと、戒められた教訓である。私は、セオリー通りにやることを嫌い、
(そういう言い伝えがあるが、私には通用しない)
として、自力で常識を破り、開拓したり下剋上するような人間だ。その私が、この『垂範実行』に逆らってみた時期があるのだ。私を信用してもらいたかったし、部下を信用したかった。だから私は彼らの手柄を大きくするために、あえて何もせず、彼らに主体性を持たせ、全ての責任と、同時にその手柄を、与えるつもりだった。
しかし、ダメだったのだ。最初こそそれについてやる気を見せていたが、一人は逃げだし、もう一人は現実逃避を始めた。試練、壁にぶつかったらすぐに音を上げ、道を引き返してしまったのだ。そして、いつまでも指示ばかりする私にもとばっちりがきて、
(そんなに言うならやってみろ。どうせ出来ないから)
という雰囲気を持って、その被害者意識の矛先は私に向けられる始末だった。私は失望した。こうもセオリー通りに、『垂範実行』を求められるのかと、それをすぐに認めるべきか、あるいは、そうだとしてもあえて非常識にその姿勢を貫き、奇跡を起こすのを待つか、選択肢を求められた。
だが、ある本にこう書いてあったのを見たのだ。
『あなたの部下が、あなたより出来なくても、怒らないでください。あなたの部下は、あなたより仕事が出来ないから、あなたの部下になったのです。』
これを見たとき、私の頭には二つの声が聞こえた。
一つは、
(何を言ってるんだ。人間に差なんてない。この事実を真に受けてしまうことは、人として越権的だ。自惚れていて、傲慢な、思い上がりの心がある器の小さな人間こそが、この事実を真に受けるんだ。
部下を信じよ。自分が信じなければ、誰が信じるのだ。上司である自分が部下に対して、『お前は出来ない』というレッテルを貼ることの、影響の重さを、考えろ。)
そしてもう一つは、
(そうだ。確かにそうだ。周りを見よ。セオリーを見よ。数々の教訓を見よ。『やってみせ、いって聞かせて、させてみて、 褒めてやらねば人は動かじ』。
人というのは愚かだ。人というのは弱き生き物だ。ムチとなれ。そしてアメにもなれ。それらを使いこなし、見極めよ。それが指導者になる人間の、使命である。)
私はこの声について長い間葛藤した。そして結局、後者の意見を聞いたのである。すると、セオリー通りに上手くいった。
彼らが乗り越えられなった壁を私が超えて見せると、最初の最初こそ、受け入れられなかったようだが、今では私に全く頭が上がらなくなってしまったようだ。私はこの『垂範実行』の教訓を通し、強く戒められたと同時に、人の生き様がどう在るべきかについて、深く考えさせられたのだ。人への指導を、『越権』と捉えるか、『使命』と捉えるか、そういう思慮深さが、時に真理の道を、曇らせる。
子曰く、君子は言に訥にして、行いに敏ならんことを欲す。