儒教の始祖 孔子(画像)
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内省
『威厳』の意味を知らない浅はかな人間は、『えばり散らす』ことがそれだと思い込んでいる。当然違う。だが、彼らはそれをやめられないだろう。なぜなら、彼らは執着している。どうしたら本物の威厳を備え持つことが出来るかがわからない。だが、それ以外には威厳を表現することが出来ない自分に気づいているのに、地位を諦められないのだ。
彼らは嫉妬深く、自分以外の人間が自分より出世したり権力を持つことが耐えられない。だからより一層歪曲した力でもって、人をねじ伏せるような、越権的な方向に傾いてしまうのだ。それこそが、彼らが人間として威厳がない証拠である。
『威厳』とは、『覚悟』である。万が一のときは自らの命を賭して、刺し違えてでも自分の信念、理念を遂行する。表面はどんなに飄々としていても、心の芯の部分は決してブレることがなく、一本、その人という人格の筋が通っている。そういう人間の例として私がいつも引き合いに出す、映画『13人の刺客』で、この真理をついた本物のシーンがある。
それはこの物語で、この世に氾濫している『成功』という図式に当てはまるはずの<金と権力に溺れて人の道を外した徳川将軍の弟を、成敗する為に結成させた、13人の刺客の中心人物、島田新左衛門を、将軍の側近、鬼頭半兵衛が、見えないところで、畏怖と称賛の念を込めて、こう評価するシーンである。
「この島田新左衛門という男、切れるというわけではない。恐ろしく強いというわけでもない。だが負けぬ。無理に勝ちに行かず、押し込まれてもなかなか動かず、最後には少しの差で勝つ。そういう男だ。」
無理に勝ちにいこうとするのは、自分の自信のなさの表れだ。本当に自分に自信がある、つまり自分の強さを信じている人間は、最初から『人に勝つ』とは、考えない。 力に支配されることがないからだ。
『威厳』の意味をはき違えている人間は、前者である。力を振りかざし、あるいは暴れさせ、縦横無尽に振る舞うことで、支配者になれると考える。彼らは愚かだ。この恵まれた時代に生まれていてそれに気づけないなんて。たった一本のドラマや映画でも観れば、自分が間違った威厳を持っていることに気が付くはずなのに。
そう考えたら、今の世で『何が成功で、何が失敗かがわからない』などと言い捨て、先人たちから『情けない』と言われてしまうような生き方しかできないような人間には、一生、人としての威厳など身につかないのである。自分の『威厳』が、この2,30年の人間にしか通用しないのか、それとも10,000年、100,000年の単位のすべての人間に通用するものなのか、自分と向き合い、内省する必要があるだろう。リーダーたるもの、『本物の威厳』を持つべし。
参照文献
子曰く、君子重からざれば、すなわち威あらず。学べばすなわち固ならず。