儒教の始祖 孔子(画像)
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良い政治が行われ、良い社会や道徳が行きわたっている状態を、『秩序』。悪い政治が行われ、社会道徳が乱れているような状態を、『混沌』。今の世でも、このバランスが崩れている国をよくテレビやニュースで見るだろう。
国が『秩序』に傾いている国は、例えばブータンのようにGNH(国民総幸福量)が抜きんでていて、国が『混沌』に傾いている国は、ギリシャのように経済破綻したり、エジプトのようにデモを起こしたり、インドのように強姦を抑えられなかったり、イラクやアフガニスタンのようにテロが頻繁に起こったりする。だがとにかく、それらを言い訳にして、自分の歩くべき道を踏み外してはならない。世が『混沌』の時、周りと一緒になって不正行為を働くことは、あまりにも安易だ。それはとても、『易しい』。つまり、馬鹿にでもできる。
だが、『混沌』の時、周りの人間に生き様を教えるかのように自分の歩くべき道をひた歩く人の、なんと高潔なことか。それはとても、『優しい』。つまり、人として優れていなければできない。『秩序』の場合もそうだ。世が住みやすい『秩序』の時、逆に、貧しく頭角を現せないのは怠けている証拠だ。『秩序』の時怠けるのは、とても”楽”だ。そう、『易しい』。バカにでもできる。
だが、『秩序』のとき、(こんなにも恵まれた環境で生きることが出来るなんて、自分はなんと幸せなのだろうか。)と内省し、わき目を振らずに自分の歩くべき道をひた歩くことは、とても”難しい”。恵まれている自分の環境、恵まれない人の気持ちを理解できる、とても『優しい』生き方だ。人として優れていなければできない。
かつて、日本は世界に、戦争の影響もあって『恥の文化』を揶揄されたことがあった。武士道精神、切腹、奥ゆかしさ、それら日本人独特の本質の根幹に根付く、精神世界を、批判されたのだ。だが、現代の世では、例えば東日本大震災のように強制的に『秩序』を崩されるような外的要因を被っても、ひたむきに『秩序』を守ろうとし、
前回も書いたが、とある電車事故のケースでは、世界がこういう感想を抱いた。
つまり、『天災が起きたからといって、強盗をする理由にはならない』という、かつて揶揄された日本の『恥の文化』を、今の世が口を揃えて称賛しているのだ。
北野武は、東日本大震災で窃盗を繰り返す青年に対し、生放送のニュースでこう言った。
『日本人はいつからこんなにマヌケ、せこくなったのか。死体から何かとったり空き巣に入ったりさ、ああいうの撃ち殺していい。日本人としての”矜持”はどうしたんだ。』
これに対する世間の反応は、以外にも共感する声が圧倒的に多かった。これは日本ではとても珍しい現象だ。北野武が、日本人の誇りを、魂の叫びを、代弁した瞬間なのである。
『恥を知れ。』
『矜持を持て。』
『他の人が地獄の体験に直面して耐え忍んでいる中、その崇高な心構えを世界から称賛されている中、 ”楽”に逃げ、恥をさらし、その他の努力している人の足を引っ張るな。』
そういうメッセージが日本中に広がった、ワンシーンなのである。まずは、”楽”と”楽しい”の違いを知ることから始めるのだ。そうすれば、おのずとこれらについての意味・打開策がわかってくる。つまり、自分の歩くべき道が、光って見えだすだろう。
参照:邦に道あるに貧しくてかつ賤しきは、恥なり。邦に道なきに富みかつ貴きは、恥なり。
(泰伯第八-十三)
邦に道あるに貧しくてかつ賤しきは、恥なり。邦に道なきに富みかつ貴きは、恥なり。