儒教の始祖 孔子(画像)
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内省
『自分の先祖の霊でもないのにペコペコ頭を下げて拝むのは、信心深い行為をしているのではなく、あわよくばご利益を得ようとの下賤な行為だ。』
という内容。これについては、例えば仏教の開祖であるブッダ(釈迦)が、
『私(個人)を崇拝するな。答えは自分の心の中にある。』
として、弟子たちには内省、および内観を勧めていた。最初の弟子たちはその釈迦の教えを守ったが、長い長い時間をかけ、新たな弟子たちが勝手にその教えを破り、
なんと神々しい。お釈迦様は、ブッダ(悟りを開いた者)だ。肌は金色に輝いて見える。きっとあの方は神なのだ。
と妄想、錯覚、過大評価し、あの『金色の仏像』が完成したわけだが、その『間違って作られた仏像』に向かって、拝む人々のなんと多いことか。全く意味をはき違えている。拝んでいるその仏像は、間違いなのだ。
そして、仏像だろうが神だろうが、他者(外部)を崇拝し、何か教えを乞おうとしたり、ご利益をもらおうという考え方は、もはやブッダの教え(仏教)とは、かけ離れているのである。神社や仏像の前に行って拝んでいる暇があれば、自らの心と向き合う時間を作り、内観しなければならない。そうしなければ、達観の地に到達することは出来ないのである。
人生のあらゆる悩み事から解放されるのが目的ならば、祈るより、”観る”ことが重要なのだという本来のブッダの教え(仏教)を、遂行している真の仏教徒は、どれだけいるのだろうか。※盲目的に行われる宗教儀式
孔子も同じだ。
とも言った。ここにある考え方は、外部への依存に対する警告なのだ。
あちこちを見渡せば、やれお参りだの初詣だの御祈願だのと、葬式でも結婚式でもなにかれ構わずあらゆる神を混合させ、儀式を乱立させている。『いただきます』という言葉ですら、もともとは『神様の命をいただきます』という意味が由来だというから、全く持って今ある常識とは、あらゆる宗教と神と人間の心が、混沌としているのである。
私は個人的に、クリスチャンの親をもったことが大きな理由の一つだが、どの宗教にも属さないことを決めている。明らかに頭のおかしい宗教をのぞいては、すべて平等に接するつもりである。したがって、仕事上人よりも神社に行くことも多いが、お参りをすることは人よりも圧倒的に少ない。むしろ、意識的にすることは、まずない。それを、この冒頭で挙げたように、同じことを孔子が言い、核心をついてくれたことで、心強い気持ちを得た。
信心深いつもりでいる人は実に大勢いる。だが、本当に信心深い人とは、人間にはごくわずかしかいないのである。後の人はほとんどが、自分の損得、利益の為に神々を利用しているのが現実なのである。つまり、私のようにところ構わずお参りをしたり、社交辞令や儀式をしてみたり、お祈りや念仏を唱えることが、『皆無』である人間の方が、実は、心底の部分で神々を尊重しているということを、気づく人は少ないだろう。
参照文献
子曰く、その鬼にあらずしてこれを祭るは、諂いなり。義を見てせざるは、勇なきなり。
関連する『黄金律』
『流動変化が避けられないことを知っているかどうかは、人間の運命を大きく変える。』