儒教の始祖 孔子(画像)
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どんなに聡明な者でもよからぬ場所や地位にい続ければ、知らず知らずのうちに悪に染まったり、悪や不正について鈍感になってしまいがちである。『よからぬ場所』とは、上流社会から見た、下流だけではない。むしろ、ここでいう上流社会こそ、『下流』に成り下がっている場合が多い。
孔子は、
『毎日、代わり映えしない連中と寄り集まって一日中おしゃべりをしていながら、天下国家の話題にまったく触れず、コセついた話ばかりしているようでは、どうにも救いようがない』
また、
『腹いっぱい食べてはゴロゴロと無為に日々を送るぐらいなら、まだしも博打をする方がいい。少しは精神の刺激になるだろうから』
と言っている。あるいは、
『一級の人間は正義をもって上司に仕え、忠告が聞き入れられなければ、地位に恋々とせずに、さっさと辞職すべきだ』
とも述べている。自分の心に注意深く耳を当てると、『このままここにいることは自分を腐らせる』と心が叫ぶはずだ。自分にしか聞こえないその”声”を、自分が信じなければ誰が信じるというのか。慣れ合い、傷のなめ合い、隠蔽、賄賂、天下り。これらに甘んじることに恥を覚えない人間がそもそも『上流』だと思っているようであれば、本当の一流の人間に成ることは諦めたほうがいい。 ”エセ一流”として、虚しく余生を生きながらえることだ。
一流は、その真逆のことをする。正々堂々、切磋琢磨、真実の追及、無私無欲、のし上がり。”力”に対し、屈したか、屈しなかったか。それが一流と、それ以外の人間との差だ。
ここをもって君子は下流に居るを悪む。天下の悪みなこれに帰す。