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この記事は下記の記事の続きです。
この記事を一日で読める人はいません。それは、この記事を読むためには以下の映画を観る必要があるからです。皆様により良い人生を送ってもらうために、時間をかけて丁寧に書き上げました。話を100%理解し、冒頭の結論から得られる効用の最大化をするためには、以下の映画を観てから読むことを推奨します。
読む前に観た方がいい映画
映画の話が出てきたらそこで読むのをストップし、映画を観てから続きを読むのでも問題ありません。また、以下に紹介する映画の全てを記事中で直接触れるわけではありません。記事を読めば、なぜこれらの映画が推奨されたかがわかります。記事との相乗効果で、映画・記事で見えなかった部分も見えるようになります。
読んだ後に観てもいい映画
内容が過激だったり、宗教的だったり、フィクションが過ぎると感じてしまいがちなものもありますが、そういうことで差別せず、ニュートラルな頭で観るようにしましょう。そうしなければ真実は見えません。人間を知るために、視野を広げ、人間のあらゆる姿を見て見ぬふりしないことは当然です。またもう一度言いますが私は無宗教です。
これを機にぜひ観るべき映画
これらの映画を観れば、この話の奥行きもぐっと深くなり、得られるものが遥かに多くなります。思慮深くなり、人として真剣になり、善悪についての判断が安易ではなくなり、今日を生きるということがどういうことかを知ることができます。ちなみにこの『15時17分、パリ行き』の出演者は、このテロに直面した実際の人たちです。
ネタバレ問題もありますからね。私なら先に映画を観ます。ただそれは問題ないという人もいますから、そういう人は一度記事だけを読んでから後で映画を観てもいいでしょう。映画鑑賞のタイミングはお任せします。『これを機にぜひ観るべき映画』に関しては、映画が好きな方がお楽しみいただければいいでしょう。ただ、最後まで読めばわかりますが、『そういう人』は恐らくこれらの映画を観れる人でしょう。しかし、以下の4つに関してはぜひ観てほしいですね。
とにかく、これらの映画を観て、得られるものがない人は一人もいませんよ。断言しましょう。1,100本以上映画を観てきた私が厳選した映画でもありますからね。『人生の免許』を取るんだ。人間について考え、理解を深めるためにこれらの映画は観た方がいい。私の記事を読まなくても、これらの映画を観るだけでもあなたの人生は豊かになるでしょう。しかもこの半分程度は実話です。しかし、フィクション、ノンフィクションという色眼鏡も外して観るのが正解です。
映画を観るコツは『自分と照らし合わせる』、『自分が主人公になったつもりで観る』ことです。そうすれば映画の臨場感がグンと引きあがります。その理由と計算式『I×V=R』については以下の記事をご覧ください。
例えば『吃音症』のことを知らない人は『英国王のスピーチ』を観なければ話を理解できません。そして、その病気がどうやったら治るのかということについて理解しなければ、ここで書かれている話が心底に響きません。そういう意味では、この映画の話は記事では直接触れませんが、記事を読む前に観た方がいいかもしれません。しかも、ただ眺めているだけでは恐らく『どうやって治ったか』を理解することはできないでしょう。
私の母に部下の吃音症のことを話してもポカンとしていましたが、この映画を観た後の彼女の反応は変わっていました。私としては私の言葉だけで理解してほしかったですけどね。人は自分の見たものしか信じようとしません。
ここでこの言葉を載せることは少し説明が必要ですね。ここで言う自分の見たいもの。それは、『そんな病気の人の立場や、その世話をする人の立場なんて想像したくない。大変だから。ただでさえ自分の人生で余裕はないのに。』ということです。
といっても、私とてもっと複雑な難病や数奇な運命を背負った人の立場をすべて想像できていません。人間というのはそういう自分勝手な生き物だということですね。
また例えば『アメリカン・ギャングスター』等は、表層しか見ないなら『ただのギャング暗躍の映画』です。しかし当然、そういう目線でこの映画を推薦しているわけではありません。彼がなぜギャングになってしまったのか。字幕を含め、映画の隅々まで目を凝らさなければ、私の言いたいことは見えてこないでしょう。特に、『ヴィレッジ』、『ブレイブ・ワン』、『ゴーン・ベイビー・ゴーン』。この3つの映画について、『どうすればよかったのか』を断言した人は私の周りには一人もいません。
実際に私がここで推薦している映画『ヴィレッジ』、『ブレイブ・ワン』、『ゴーン・ベイビー・ゴーン』、『アメリカン・ギャングスタ―』を知人に紹介しましたが、その人は私がなぜこの映画を紹介したかを理解していませんでした。彼と話を進めていくためには、ここで問われている問題をどう捉えているかに答えてもらう必要があったのです。その人との現在の関係はもちろん、疎遠です。
この記事を最後まで読めばわかりますが、基本的には自分で考えるのがベストです。しかし、最初に考え方として、少しヒントを出しましょう。この映画の主人公は、物心がついたときから自分の家族が警察からショットガンを口に突っ込まれる光景を見てきました。では、もし自分が彼と同じ環境で生まれた場合、どうすればいいのですか?彼の人生を正当化するわけではなく、『どうすればよかったのか』、『彼のような人間が生まれないためには何が必要だったのか』ということを考えることがポイントです。ちなみにこの映画は実話です。
またこれだけじゃなく、記事中にリンクしてある記事もすべて読まなければ、100%理解することはできません。関連リンクや黄金律をすでに見たという人も、こうした流れでもう一度読むと、見えなかったものが見えるようになります。黄金律にある『偉人の言葉』まで見て初めてそれらは理解できますからね。本来の関連リンクの立ち位置は『記事の補足情報』としてが多いのですが、この記事に関してはそうではなく、『同じことを書いてしまうと重複になり、記事量が膨大になるから、この部分に関してはこちらの記事に書きましたので、そちらをご覧ください』ということになります。
時間があり、勘と理解力が鋭い人なら一週間以内もあり得るかもしれませんが、最低でも1か月以上はかかるでしょう。ゆっくり向き合うなら半年はかかります。ここで言う『理解』はもちろん、下記の黄金律の内容に該当します。
本には『速読、熟読(精読)、再読』と読み方がいくつもあります。まずは速読で記事を見終わってしまうのも手ですね。その後再読し、熟読し、自分のものにしていく方法は、私もよくやります。
ぜひ私や、周りの人にそう問われても眉一つ動かさずに答えられるように、じっくりと映画を観て、考えてみてください。それを意識するだけでも全然理解力は全然変わりますからね。事実、アウトプットを意識するだけでインプットの能力は上がります。『傍観者』から『責任者』に自分のモチベーションが引きあがった時、これらの映画を100%楽しむことが出来るでしょう。
映画の中には、『最後のワンシーン』を見逃すだけで全てパアになるものがあります。私はその映画のそのシーンを長い間見過ごしたまま、違う解釈をしてしまっていました。そう考えると、映画も1度観ただけでは足りないかもしれません(事実、その映画を理解するために何度も劇場に足を運んだ人がいます)。また、2つ観ることで全体像が見え、より想像しやすくなる映画もあります。
ゲーテは言いました。
私は10代の頃からよく、
などと言われ、『変人(変わり者)』扱いされてきました。ステータスのある人からは『自分よりも格下が何を言ってるんだ』という態度で見下されることもしょっちゅうでしたね。身内でさえもそういう人がいました。人は表面を重視しますからね。時にははらわたが煮えくり返ったときもありますが、そういうときは自分にエネルギーが充満するだけなので、プラスです。
一方的に書けるこの場所で、私を棚に上げてはいけませんね。その時は私は何一つ表面上に結果を出していませんから、それはある種仕方ありません。低い評価をされたのは彼らだけのせいではありません。私自身の立ち居振る舞いが未熟だったし、『人間』というものは最初からそういう生き物なんだから、それについて勉強不足だった私にも問題があるのです。
私はいわば『マニュアル車』です。多くの人は『オートマ車』がいい。私も中古の軽トラックを買おうとしてネットショップにたくさん目を向けましたが、やはりオートマ車の方が圧倒的に需要があり、値段も高いですね。人々は面倒なマニュアル車ではなく、楽なオートマ車に乗りたい。ですから、複雑なマニュアル車であろうとする私が敬遠されるのは、ある種仕方ないことなのです。私もオートマ車がいいですから。
表面では敬う態度で、実際にはかかわりを持たないようにすること。
先ほどの記事を載せはしましたが、当然まだまだ今出している程度の『結果』では天才の称号にはあまりにも程遠い。なにしろあのイチローが、
と言っているんですからね。最低でももっとわかりやすい結果を出さなければいけません。例えば、このサイトで月に1億円稼ぐようになれば、世の人はそう認めるでしょう。最低でも1千万円は必要ですね。イチローのような偉人の道を歩かない人間がその称号を人々から得るには、そういう『わかりやすい結果』が必要です。まあ、そんな称号を得たとしてもそれに甘んじた瞬間にイチロー以下の人間に成り下がりますが。
まだまだ当分私は『変人』扱いされそうですね。そしてイチローが国民栄誉賞を何度も辞退しているように、『そうじゃないと』私のエネルギーも減衰してしまうでしょう。以下の言葉は手塚治虫の言葉ですが、彼もイチロー同様の高いモチベーションを持って人生を生きていたようです。
ただ、様々なものを代償に払い、覚悟を背負って自分を貫き続けていると、そのうち説得力が出るようになり、耳を傾ける人が増えるようですね。例えば、私が起業して『社長』という肩書を持ったり、ボクシングをやるようになったりして『ステータス』が上がってくると、なんとまあ呆れるくらいに人々の態度は豹変していきましたね。敬語を使ったり、妙に媚びを売ったり。まあ、最初からそういう人の評価は無視するように気を付けてはいますが。
そういう人たちはまた私がステータスを落としたら見下すわけですから。あまり信憑性のない人たちですね。事実、最近の私は修行中であり、金儲けを後回しにしているので、『人々の分かりやすいステータス』が足りていません。ですから最近、以前の評価よりも低い評価をつけられているという実感をひしひしと感じます。全く人間というのはつくづく、というやつですね。その人と友達になろうと思っているのにこれではなれない。困ったことですね。
正確に言うとその人たちとて成長するわけだから、その人たちに信憑性がないというよりも、『そういう精神状態にある人』という方が正しいし、私だってそういう時代はありました。
もし私と似たような立場にあり、そのような事実を直視できていない人がいるなら、見るべきなのは以下の黄金律です。
ユニクロことファーストリテイリング社長、柳井正氏が、『最高の教科書だ』と賛辞する『プロフェッショナル・マネジャー』の巻末に、こう書いています。
『エゴチズムの真の害悪は、抑制されない個人的虚栄心が高進すると、その本人が 自分自身の為にこしらえた賛辞を信じ込むようになる。そして自分自身と虚栄心の中にのめり込んで、他人の感情への感受性を失ってしまう。常識も客観性も失われる。そして意思決定の過程を脅かす厄介者となる』
僕は夜の会合やパーティを遠慮させてもらっている。僕はずっと失敗を続けてきたが、確実に一勝は挙げた。それでも『ずっと失敗を続けてきた』という思いの方が僕にとっては強いからだ。僕がやるべきことは、まだ本業に専念することだ。
どんな人であろうと関係なく、生きている間は常に自分に疑問を覚えるべきですね。まだまだ私の探求は続きそうです。もしこうした落とし穴にはまりたくないなら、それよりも偉人たちの言葉に目を向けた方がいいですよ。彼らの言葉の方がよほど傾聴に値する。私が17歳のころに出会った恩師と彼らの評価も全く違うものでした。私は彼らに出会った時、
こんな人が本当にいるとはな。
と思いましたね。そういう人たちが『結果に反応して人の評価を決める』のに対し、彼ら恩師はそうではなかった。私が全く自分の本心を表面化させていないのに、彼らは私の潜在能力を高く評価し、信じてくれました。生まれて初めてのことでしたね。だからこそ私は彼らへの恩を一生忘れないのです。
では私が立派な存在なのか、ということについては結論の記事『運営者は立派なのか?』で書いています。
ただし、私も自分が考えていることをわかりやすく表面化できていなかったことも問題です。人はテレパシーを使えませんからね。それなのに自分の考えていることを理解しろなんていうのも無茶な話です。関係が近くなればなるほど理解してもらいたいと思ってはいましたが、たとえ家族でさえもそれは叶わぬ願いでしたね。それは、最近になって『わかりやすく表面化』したときに理解した親の姿を見て、確信しました。
ということで、最近になってようやく、私が20年以上も前から抱いていた疑問や、抱えていた葛藤について、『具体的かつわかりやすく表面化』できるようになってきました。なぜ私が周囲の人に『何を考えているかわからない』と思わせていたのか、今回の記事のテーマを見れば理解できるでしょう。私は子供のころから本気でこの世にお金がある理由がわかりませんでしたからね。皆で協力すればそれはいらないわけですから。
私はこの類の『なぜかという理由を具体的には説明できないけど、『そうなっている』から、それに従うしかない』という考え方には、まったく賛同できませんでした。つまり私は、幼少期から自分が納得がいく答え以外は受け付けない性格だったのです。ですからそんな私を傍から見たとき、常に葛藤を抱えているわけですから、考え事をしているように見えるわけです。そして、
何を考えているんだろう…
という印象を与えるんですね。そして、時には大胆に『人が行かない方向』を突っ走ったりするので、私に『変人』という印象がついたわけです。私としては個性が埋没するくらいなら、変人のままでいいんですけどね。ただ、
と言ってフィールズ賞を辞退したペレルマンを変人だという人がいますが、私はそうは思いません。
数学版ノーベル賞のようなもの。
さて今回、このサイトを10年かけて運営して作り上げてきたもの、そして今までのその半生の葛藤や内省を通し、その『自分が納得がいく答え』の一つがわかりましたので、それを皆さんに提供します。釈迦がブッダになったのが35歳、イエスが世を去ったのが33~36歳ということを考えると、35歳という年齢でこの一つの答えを外に向かって提示できることは、何か嬉しくもあります。
もちろん彼らと比較はできません。そして、彼らの存在がなければこの結論にはたどり着いていません。彼ら偉人たちの人生に感謝です。
とにかくこの内容を見ればもしかしたら、
たしかにこれは10代の子じゃ、何を考えているかわからないっていう印象を与えるな…
と思うかもしれません。恐らく10代の頃の私を知る人で、私がこのようなことを考えていたと想像できた人は、親を含めたただの一人もいないでしょう。もちろん、その『恩師たち』をのぞいて。
もちろんまだまだ発展途上ですが、まずはこの段階でそれをまとめあげます。皆さんも一緒に考えてみましょう。焦る必要はありません。この記事は恐らくあと10年はこのまま変わらずここに存在します。じっくり時間をかけて内省しましょう。逆に、すぐに読み終わってもこの話以上の話は、私からは後10年は出ません。他にやるべきことをやらなければならないので。ただ、この記事の内容は考えるだけの価値がある話だと断言します。何しろ『人間の最高到達地点』の話ですからね。
考えることを楽しんでしまっていいのです。孔子もこう言っています。
楽と楽しいは違いますからね。これらの映画自体が、それだけでとても見ごたえがあるものばかりです。多くの人が映画でしか見ることが出来ない領域を観ることが出来るでしょう。それだけで人生のプラスになります。人生は、経験で変わりますからね。
正直言って、私がここで皆さんに求めることは『資格試験を受けること』でもあり、『マニュアル車を乗りこなすこと』です。決して楽をさせることはありません。ですから、楽をして生きていきたいという人は読むことができません(自分のものにすることができません)ので、諦めてください。冒頭に簡潔版の結論は載せましたから、あれで納得してください。その代わりそういう人は人生を無免許運転している人ですけどね。すべての意味は、最後の最後まで読めばわかります。
さあ、勇気ある皆さん。人生最大にして、最高の旅に出かけましょう!
この記事のカギとなる『心が虚無(きょむ)になる』という言葉の意味は、『心が暗くなる、憂鬱になる、落ち込む、心が闇に覆われる』というような意味です。話の中でとても重要なキーワードとなります。
Inquiry.は2019年5月以降、人間の『ココロ』だけではなく『カラダ』についても追及していくことを決めました。それらの記事も冒頭に結論を持ってきています。忙しい毎日を送る人は熟考するのがストレスですからね。そういう人のために、結論を前に持ってきています。しかし、内容を熟考した人にしか見えない景色もありますからね。それでは冒頭に書いた結論にたどり着いた思考の一部始終を、ご覧ください。そして一緒に探究しましょう。
孔子は弟子に、
と聞かれ、こう答えました。
『人間を知ることだ。』(学而第一-十六)
また、作家の五木寛之は、親鸞を宗祖とする浄土真宗の教えを最も理解する身ですが、著書『大河の一滴』でブッダについてこう言っています。
『知性』を探究し、『人間の説明書』、『人間の仕組み』等を語り、彼らを『ライバル』とみなす以上、『ココロ』だけじゃなく、『カラダ』についても勉強をすることは避けて通れませんでした。Inquiryは、ヒトのココロとカラダの両方にしっかりと目を向け、真実を発見し、それを世に伝えられるようなサイトになります。
誤解している人もいるようですが、『ココロ』の『名言』に関しての文章は、ほぼ参考文献を参考にして書いておらず、名言を見て、それで頭に浮かんだことを書きなぐっただけです。一つの名言の内省に使う時間は30分~1時間ほどで、それを1日20~30回ほど繰り返す。そういう生活を2年かけて行い、このサイトのおよそ1万ページを作りました。
それは言うなれば『現在の自分と偉人との対話』をイメージして書いたわけですね。ですから、一つ一つの追求レベルは低いと言わざるを得ません。もっと一つの言葉に対して全身全霊をかけて記事を書いている人と比べれば内容は劣るでしょう。ただ、これから付け加えていく『カラダ』について人に何か伝える場合は、そうもいきません。そのジャンルについて語るときは、最低でもそのジャンルの専門書をすべて読み、正しい情報を、わかりやすく伝えることができるように尽力します。どのサイトにも劣ることはない、最高品質の情報をお届けします。
また、以下の記事の内容も、これらの記事を作る上で関係してきます。
この記事を見ればわかりますが、どれだけこれらのことや他のことを学んだからといって、このサイトの集大成である以下の記事の価値や、そこにある威厳、崇高さというものは全く変わりません。
しかし、私がこの記事を捻出しても別に『世界平和』は実現されないし、ごくわずかのとても思慮深い人以外の人には、何一つ影響がありません。ではそれは一体なぜでしょうか。私は全く意味のないことをした?その理由はこの記事を読み終わった後にわかるでしょう。ヒントは、1979年にノーベル平和賞を受賞することになったマザー・テレサが、記者に、
と尋ねられたときに、
と言った後に、世界平和は全く実現されていないことに関係しています。
ただ、この図式への理解で私の心にある虚無が晴れた。これは私にとって奇跡に近いのです。私が幼少期から突き付けられた問題は、あまりにも複雑すぎた。しかし私はその謎を解明したのです。最低でも、私の心が晴れたのですから、私がやったことは無駄ではないのです。
例えば2015年に書いた以下の記事に、
『癌、アトピー、花粉症、薄毛』等の問題がどうして起きてしまうかということについて、専門書を通して軽く触れています。また、下記の黄金律では
についても触れています。ここからわかるのは『ココロ』と『カラダ』は繋がっているということ。そして高い確率で『何らかの基準から逸れる』と、人は病に侵され、虚無に陥るということです。そして、あらゆる『カラダ』についての知識を学んでいくうちに、同じように『自然に沿った生き方』とはなにかということについて熟考する専門家なんかを見かけるわけです。
彼は言います。
人以外のすべての生物は、自然に沿って生きています。人だけが高度な知能をもち、ほかを支配してもいいというのは、きわめて傲慢な考えであり、その結果ゆえに多くの人が病気になっていくのです。つまり、病気にならない心とは、これらすべてのものの役割を認め、感謝する心ということになります。
知っていましたか?『いちばん近い道路まで数十キロメートルあるパプアニューギニアの高地や、インドネシアのスラウェシにあるシージプシー・ビレッジ(漂流民の村)で暮らす人にニキビはない。10代の若者にもない。』という事実を。また、人は生き甲斐がなければ歯周病になると知っていましたか?やはり『ヒト』は『ある法則』に支配されて生きているのです。
例えば私は今のところ、頭痛、腰痛、薄毛、ニキビ、肩こり、便秘、アトピー、花粉症、バストアップ、ED、歯周病、虫歯、口臭、美白、体臭、眼精疲労、うつ病、あがり症、筋トレ、栄養、デトックス、睡眠等の様々なカラダに関する専門書を読みましたが、そのどれもで伝えているのが『5大要素の最適化』です。
5大要素
人はこの5大要素を最適化することを避けて通れません。更にそこに『2大嗜好品』も挙げられます。
2大嗜好品
人はこの『5大要素』と『2大嗜好品』の最適化をするだけで、かなりの確率で健康体に近づくことができます。暴飲暴食をせず、揚げ物や添加物等をなるべく避け、便通をよくし、有害毒素を排出しやすい体にします。睡眠は6時間30分~7時間30分ほどきっちりと取り、適度な運動をします。そして、ストレスは思っている以上に有害で、必ずこれをため込まないようにする必要があります。お酒は適量に留め、タバコはまず間違いなくやめることです。タバコに関してはそれを推奨する本は一冊もありません。
中には結果論的な形で、『うちの父はタールのキツイタバコを吸い、酒が好きだったが、頭に髪の毛はあった』としてタバコと薄毛が無関係であると主張する人もいます。しかし下記の記事に書いた通り、タバコと薄毛には関係性があります。
またそこにも書きましたが、『最後に読む育毛の本』にはこうあります。
薄毛上位国のトップ3はチェコ、スペイン、ドイツですが、濃い味付けの料理、飲酒量の多さ、過食では共通している国だそうです。特にスペインでは1日に5回も食事を摂ると言われています。飲酒量も多い。毎日酒を飲み続けていると、肝臓が弱り髪の栄養素になるたんぱく質がどんどん少なくなっていくのです。また過食になればなるほど血流が圧迫されますし、残留便から出る毒素で、血液がどんどん汚れていくのです。
薄毛上位国のトップ3の共通点
やはり、食事もお酒も、そしてタバコも薄毛と関係しているのです。そしてこのようなことはあらゆる健康の本に記載してあります。つまり人は、『5大要素』と『2大嗜好品』の最適化をするだけで、かなりの確率で健康体に近づくことができるのです。これはもはや『真理』ですね。下記の記事に『人間の仕組み』について書きましたが、同じように人間には仕組みがあり、その仕組みを無視すると、体に異変が起きるようになっています。
またその食事も、睡眠をおろそかにすると乱れてきます。『疲れをとるなら帰りの電車で寝るのをやめなさい』にはこうあります。
日本人の睡眠時間は50年で1時間減
(省略)近年の研究によって判明したことだが、寝不足が続くと太りやすい。睡眠時間が短いほど食欲を促すホルモンの『グレリン』が増え、反対に食欲を抑えるホルモンの『レプチン』は減少する。二重の意味で太りやすくなるわけだ。
つまりこういうことです。
睡眠不足になるとこのようにして、実に2つものホルモンの力が働いてしまうので、暴食に走ってしまうということなんですね。そしてそうした生活が続くと、みるみるうちに太ってしまうということなのです。また、睡眠というものは取りすぎることも推奨されません。アメリカの大規模な調査では、睡眠時間が6時間30分~7時間30分の人がもっとも死亡リスクが低く、それよりも短くても長くても、寿命が短くなることがわかりました。
更に、睡眠時間が短いと『5大疾患』のリスクを引き上げるだけではなく、実に『86』もの病気にかかるリスクが生まれ、早死にする確率も高まります。
5大疾患
また、この世界を騒がせた以下のような重大な事故があります。
うーむ、おかしい。全員かどうかはさておき、彼らは皆免許を持っているんじゃないんですか?やはり運転免許や危険物取扱者の資格等とは別に、何か別の『もう一つの重要な免許』が必要な気がしませんか?
実はこれらはすべて『睡眠障害』が関係していると言われている事故です。例えばアラスカ沖タンカー座礁事故の場合はこうです。『不眠症の科学』にはこうあります。
事故当時に船を任されていた酸等航海士は、タンカーの操縦免許を持っていましたが、事故現場のプリンス・ウィリアム海峡を操船する資格はありませんでした。また、彼はひどい睡眠障害に悩まされていたので、そのことが集中力や判断力の低下をもたらし、点滅する警報信号に反応できなかったことが推測されています。
ここからわかるのは『人は必要な分の睡眠時間を確保しなければならない』ということ。そして更に厳密に言うなら、『量より質』が求められます。また、有害物質や体内毒素を便からデトックス(排出)することは、様々な健康問題を解決します。ただ体内毒素は、
の割合で体外に排出されるので、ほとんどが大便と小便から出るんですね。よく、『岩盤浴でデトックス』と言いますが、実際には汗を出してデトックスできる量はとても少なく、便さえスムーズに出ていればそれで95%の解毒は完了するのです。このようなことを知っていくと、世に出ている情報の真偽や見るべき情報というものが見えてきます。そして、その『真なる情報』はまさに、『真理』だと言えるわけですね。
ただ、ここでサウナや岩盤浴でデトックスができないと思うのは、短絡的です。それらによって腸内活動が活発化すれば、便意が催します。また、そこでたくさん水分を摂れば、それも便を促します。したがって、それで便が出れば結果的にはデトックス効果を狙えるのです。
真理から逸れれば逸れるほど、虚無に近づく。
人はこうした『サイン』を頼りにして『真理』を見つけ、それに沿った生き方をすることを余儀なくされています。まるで、最新の車が物にぶつかりそうになると警告ブザーが鳴るように、それを頼りにし、道から逸れないようにするのです。私もなるべくその真理を見つけ、世の人に提供していきたいと考えていますが、一番いいのは自分自身のそのサインへの嗅覚・感覚を鍛え上げることです。それについては後でたっぷりと説明します。
私が『ヒト』についての専門レベルを引き上げたところで、その法則の威厳には何一つ影響はありません。しかし、『世にいる人が向ける目の温度』は変わるでしょう。冷たく、冷ややかな目でその法則を見ていた人がいた場合、それが少しは熱いまなざしになる。これらのことを皆が理解したら戦争はもちろん、言い争いや喧嘩、差別や敵視もなくなり、もしかしたら多くの病気もなくなり、当たり前のようにある宗教の多様性すら形が変わるんですけどねえ。皆が大好きな『成功』も手に入れられるようになる。
確かにそれは難しいことです。何しろ『それ』は、形を持たず、どんなに賢い人でもその全容は理解できない。そして、たとえすべての人がこれを理解しても、それをその一人一人がうまく使いこなせるかどうかはわかりません。子供や、子供のような大人もいる以上、やはり人間から矛盾と混沌は切っても切り離せないかもしれませんね。
イングランドの哲学者、トマス・ホッブズがこう言ったように、
だからこそ世界には様々な『目に見える』宗教や道徳、法律やルールがあり、そういう『未熟な人間』をある種強制的に、『矯正』しているのかもしれません。
各宗教の矛盾点や落ち度を考えたとき、私が目をつけた『漠然としているが圧倒的な力』は、漠然として形がないがゆえに『人間が理解できる落ち度』がなく、極めて厳かで、威厳があります。私は無宗教で生きていくことを決意した人間。『宗教とはその漠然としているが圧倒的な力を見て、それを各人間が独自的に解釈し、体系化したマニュアル』だと考えているのですが、しかし私はその『強制的な矯正』をするのにふさわしいのは、『恒久的に未熟な人間』ではないと考えています。
よく、『世界を変えた5人のユダヤ人』として、モーセ、キリスト、マルクス、フロイト、アインシュタインの名前が挙げられます。ベストセラーなる本を書く識者のような人も、その話を言います。しかし、『「相対性理論」を楽しむ本―よくわかるアインシュタインの不思議な世界 (PHP文庫)』という、アインシュタインに特化した由緒ある本にはこうあります。
アインシュタインが亡くなったとき、生前の希望に従い、公の葬儀は行われず、プリンストンの葬儀パーラーにはわずか12人が集まった。無信仰ゆえに牧師の説教もなく、花や音楽も控えられた。遺体は茶毘(だび。火葬)に付され、墓を残すことを望まない遺言のとおり、遺灰は近くのデラウェア川に流された。
彼はユダヤ人(ユダヤ教を重んじる人)ではなく、無宗教者としてこの人生を生き貫いたのです。これは後で知ったことですが、彼もまた、『この点においてのみ』ですが、私と同じ考え方だったようです。そして私も無宗教がゆえに、『クリスチャンの妹がしたキリスト教系の結婚式』には参加しませんでした。彼女は自分の宗教を貫き、私も自分の『無宗教』を貫いた。
ドイツの詩人、ヘルマン・ヘッセはこう言い、
アインシュタインはこう言いましたが、
『大勢の人が安心できる宗教や価値観』を疑い、一つの信念を燃やして生きるということは、『孤独』と『孤高』の意味の違いを理解し、エネルギー不変の法則を見たときに悟る、妙な違和感の正体でもある、『計り知れない包容力』に委ねて生きていくということでもあるかもしれません。どういう意図があったかはそれぞれで違うでしょうが、アインシュタインの最期のように、『散骨』を希望した人は、私にはとても大きな存在に見えます。
ちなみに、私と妹は仲がいいのでご心配なく。だからこそ私は宗教よりも『その力』の方が強く、尊く、厳かで威厳があると思うんですけどねえ。だって、どっちかが自分の宗教を押し通したら、我々は不仲ですよ。しかしそうではない。ということは、この世には『宗教よりも上にある力』があると思いませんか?我々が自分の信念や信条よりも『それ』を大事にしたいと思うからこそ、我々の関係は破綻しないのです。その話を詳しく追求したのがこの記事なのです。
もし、私が言っている『力』について感覚的に理解したい人は、『チェンジング・レーン』という映画を観るといいでしょう。『ゴーン・ガール』、『アルゴ』等で主演・監督を務めたベン・アフレックと、『スターウォーズ』、『アベンジャーズ』等の数々の有名な作品に出演する、サミュエル・L・ジャクソンが主演を務めるこの映画は、極めて教訓性が高く、見ごたえがあります。
この映画のポイントはこうです。
難しい話を考えたくない人も、気軽に見ることができるのがこの映画の魅力です。彼らは最初、『その力』に逆らった行動をとり、そして必ず虚無と悪循環に陥ります。しかし、無意識に『その力』を味方につけるような行動をとるようになり、しだいに状況が変わっていきます。後は映画を観てのお楽しみです。私の話が理解できずに首をかしげることが多い母も、この映画は、
と言っていましたよ。
という『彼の独断と偏見による一時的な解釈』にも注目です。
さて、たしかに私は『その力』の圧倒的な力に気付き、そしてそれを認め、『勝負』すら挑もうとも思いません。しかし、だからといって無意味にへりくだったり、『主』とかなんとかいってそれを崇めたり、自分の主体性を忘れるようなことはしません。
頼もしい人がリーダーをやれば、一時的にその周辺は明るいエネルギーで満ち溢れます。四聖(孔子、キリスト、ブッダ、ソクラテス)が生きていた時代もそうですし、マザー・テレサやガンジー、ジョン・レノンやキング牧師らが生きていた時もそうです。そのような『人一倍強いエネルギー』があると、それがある間は、そのエネルギーの影響を受けて少しだけ世界が明るくなります。それが下記に書いた『蛍のような『限界のある』光』です。
ショーペン・ハウエルはこう言ったようですが、私はこの言葉を見てその記事を書いたのではありません。彼の場合、まず闇があってそこを照らす光たる存在として、宗教を語っています。それに異論はありませんが、私が言うのは『蛍のような限界のある光』であり、『しかし、その光は限界がある』ということを意味しています。
また、イチローやマイケル・ジョーダン、松下幸之助や本田宗一郎のような人がいると、人は背筋を正し、自分を律しようとします。ウォルト・ディズニーや宮崎駿、手塚治虫なんかが世に与えたものもとても大きい。彼らは間違いなく『人一倍強いエネルギー』であり、また、この世を去った後も言葉や作品などを通して世界に良いエネルギーを与え続けています。
しかし、本当の世界平和とは、一部のエネルギーが人一倍燃えることでは達成できません。そのエネルギーが消えた後、主体性のない(他燃性である)エネルギーは自分で燃えることができず、またすぐに真理から逸れてしまうでしょう。
老子はこう言い、
私の好きな言葉にこういうものがありますが、
『三流は金を残す、二流は事業を残す、一流は人を残す。』
『あるからといって与えてはいけない』ことがあるのです。ただやはり、親が子供にものを教えなければならないように、リーダーに相応しい人が正しい方向を教えることも重要。だからこそ『仏典』や『論語』、そして『聖書』や『クルアーン』といった教典があるわけですよね。それら教典は、『人々に光を与える命の火種』のようなものです。例えば釈迦が死んだあと、
として、主な弟子たち500人が集まって、『結集(けつじゅう)』という編集会議を行いました。インド古来の伝統では聖典を文字にしない伝統があり、長い間、口頭だけで言い伝えられていたのですが、釈迦の死後300年ほど経ったとき、やはりそれらは文字にされ、そして仏典が誕生していきます。ここからわかるのは、
ということです。これは企業に置き換えても同じように考えられます。一人のスーパー創業者が作り上げた会社は、その人がいるからこそ企業価値があり、株価も高く評価されます。したがって、生きている間にしっかりとした引継ぎが行われなければ、その『一時的な強いエネルギー』が消えた後は、勢いを弱めてしまうのです。
東日本大震災があったとき、テレビ東京系『カンブリア宮殿』で村上龍が言っていたのはこうです。
『寄付』をしたり、エネルギーを分け与えたりすることは確かにできます。また、そういうことを率先して行う、リーダーに相応しい『強いエネルギー』は、定期的にこの世にあらわれ続けるでしょう。しかし、人間が一番意識しなければならないのは『主体性(自燃性)』であり、他燃型の人間を生まれさせてしまう可能性、そして自燃型の人間が埋没することのリスク、あるいは機会損失のことを考えると、やはり人が人にできることというのは限界があるのです。
主体性がある人。自分で燃えることができるタイプ。
反応的な人。自分ではなく他人によって燃やされるタイプ。
自燃型、他燃型等に任せっきりになり、何もしないタイプ。
イチローは震災のときに、その復興を応援する形を取った野球界に対し、こう言いました。
この言葉からは『人が人にできることの限界』と『本来の人間の主体性の鼓舞』という二つの事実を思い知らされます。
また、ジャン・アノイルという人が言ったこの言葉が深く胸にしみます。
人が主体性を燃やさないとどうなるかがわかりやすい例があります。デール・カーネギーの名著『道は開ける』にはこうあります。
才能のあった駆け出しの作曲家ガーシュイン。バーリンという経営者がガーシュインの才能に惚れ込み、自分の音楽秘書になってくれれば今までの給料の3倍を払ってもよいと申し出た。『しかし、この仕事は引き受けないほうがいいよ。』と、バーリンは続けた。『引き受けたら、君はバーリンの二流品で終わるかもしれない。だが、 君が自分らしさを守り通せば、いつかはきっと一流品のガーシュインになるだろう。』ガーシュインはこの忠告を心に刻んで、自分の個性に徹することに努め、世界的作曲家となった。
ガーシュインがもし主体性を燃やさず、誰かに尽くして生きる人生を生きていたなら、世界的作曲家ガーシュインは存在しなかったのです。人が主体性を燃やして生きること、そしてそれが埋没してしまうことがどれだけもったいないかということがよくわかりますね。
『もったいない』だけではありません。世界平和の実現のためにも、我々は主体性を持たなければならない。世界平和を実現させるためには、世にいる尊敬できる指導者たちのような恒久的に未熟な人間に何かを期待するのではなく、『宗教に依存する』のでもなく、生きている人間全員が主体的になり、真理から目を逸らさないことが必要なのです。
タレスが『万物は水』と考え、アウグスティヌスが神について考え、デカルトが認識、マルクスが社会、言語についてソシュールが考えました。宇宙や自然の原理を探求したタレス、生物や天体について考えたアリストテレス、ピタゴラスの定理を発見したピタゴラス、パスカル、キルケゴール、サルトル、ウィトゲンシュタイン 、ヘーゲルと、様々な偉人たちが哲学を考えてきました。
そんな中、私のこの考え方はニーチェのそれに少し似ています。ニーチェは、『ルサンチマン(弱者の強者への嫉み)』の感情のせいで、人間が唯一無二の人生を台無しにすることを嘆きました。キリスト教もそうした人間のルサンチマンから始まったのだと。
自分の上に裕福な人や権力者がいて、自分たちにはこの人間関係、主従関係をどうすることもできない。だが、その人たちの上に、神がいると考えれば救いが見出せる。神がいれば必ずこの不公平な世の中を、公正に判断してくれるからだ。
そういうルサンチマンたる感情からこの世にキリスト教が生まれ、イエスを『主』として崇めるようになったのだと。しかし、『自分以外の人間を『主』にするということは、つまり『主体性』を失うこと』を意味するわけです。だからこそ人は弱体化してしまったのだと。ニーチェはそう考えたわけです。
ニーチェはこうも言っています。
イエスを『主』と崇めることで主体性を失うことは、目の前で両親というクリスチャンを見続けてきた私がよく理解するところです。メリットは心が崩れないことだが、デメリットは主体性の欠如です。
そして、『永劫回帰』という、
ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒
[永劫回帰]
というループを無限に繰り返す考え方を提言します。もし、前世や来世等の発想があると、人はどうしてもその『もう一つの可能性』に未来を託し、あるいは希望を抱いてしまいます。それが結果として現実逃避を生み出し、『今この瞬間』の否定につながる。
きっと来世ではもっとやれるはずだ!
しかし、もし永劫回帰という考え方があれば、今この瞬間、あるがままを受け入れるしかありません。今この瞬間の、この自分以外にはあり得ない。『もう一つの可能性』などない。
だとしたら、今この瞬間、これが自分の人生なんだ!
と現実を直視し、今を全力で生きるようになります。ニーチェはそのようにして、その永劫回帰であったとしても、その事実を憂うのではなく前向きに受け入れ、既存の価値に囚われずに新しい価値を生み出す人間を意味する、『超人』であれと説きました。ニーチェが『この世に神は存在せず、人間だけが存在しているのだ』ということを強く主張したのは、こういう背景があるからですね。
富士写真フイルム社長、古森重隆は『PRESIDENT』にて、
『結局、彼の言わんとすることは、人間というのは本来、個々に強く、賢く正しく、気高く、自由に生きるべき存在なんだ、と。羊みたいに群れるんじゃない。あるいは宗教を信じて『神のしもべであります』なんて生きるんじゃない。あなたはしもべじゃないと言っているんです。『どうしてもっと自由に生きないんだ』と。もちろん、自分勝手にやれということではなく、正しくなければいけません。』
とニーチェの教えの根幹にあるものを語っています。つまりニーチェは『ニヒリズム(虚無主義)』だと言われていますが、この意味は、彼が
『神は死んだ』
と発言していることから、『この世には、神も真理もなにもない。虚無なんだ。』という、暗いイメージを連想させてしまいがちですが、実際はそうではありません。
というニーチェの『唯一無二の命の尊さ』への考え方を現した表現なのです。
永劫回帰はキリスト教的な来世や東洋的な前世の否定であり、哲学史的な意味合いにおいては、弁証法の否定と解釈できます。下記の記事でヘーゲル(弁証法を唱えた人)とニーチェの対立点について書きましたが、やはりニーチェはヘーゲルの考え方も覆そうとしていたようですね。
ブッダは言いました。
この言葉の真の意味は、『私以上に偉い人間はこの世に存在しない』という、釈迦の思いあがった軽率な発言ではありません。Wikipediaにはこうあります。
釈迦は摩耶夫人の右脇から生まれたとされるが、その直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん、もしくは、てんじょうてんがゆいがどくそん)と言った、という伝説から出てきたものである。しばしば釈迦を、崇める言葉として使われる。
釈迦がもし自分をこういう『超自然的な存在』だと主張していたなら、仏教なんて何の信憑性もない単なるカルト教団です。しかしそうではないのです。彼の言葉はどれも的を射たことばかり。この言葉の本当の意味は、
『この世に自分という存在は、たった一人しかいない。唯一無二の人生を、悔いなく生きるべし』
という意味なのです。まさにこれはニーチェの言う『超人』と非常に密接にリンクする真理ですね。私はこの言葉の本当の意味を知ったとき、釈迦のことがとても好きになりました。
では、人間は本当に人生に主体的になり、ルサンチマンも含めた一切の『邪念』に支配されず、この唯一無二の命を『超人』のごとく力強く生きていくことができるのでしょうか。答えは『Yes』です。ここで考えるべきなのは、クリントン政権下でゴア副大統領の首席スピーチライターを務めたダニエル・ピンクの著書『モチベーション3.0』にある『デフォルト(初期設定)』の概念です。
生存や安心に基づく動機づけ。
アメとムチに駆り立てられる動機づけ。
内面から湧き出るやる気に基づく動機づけ。
人間は最初、生きていればそれでよかった時代があります。まさに人間の生きるモチベーションのバージョンは、1.0です。しかし社会制度が出来て、『法律』や『家庭』や『学校』や『職場』ができ、人々には責任が増えた。そして、他の動物とは違ったモチベーションが必要になりました。ただ自分の身の保全だけ考えていればいいわけではなくなった。むしろ、積極的に人を助け、想い、利他的になり、責任について自覚させられるようになります。
ではわれわれ人間は『モチベーション2.0』が限界(”指示、報酬、罰、その他の一切の外的要素”が働かなければ、生きていけない)なのでしょうか。
著者は『デフォルト(初期設定)』は、
と断言しています。つまりその逆で、積極的に自発的に行動するようにプログラミングされているはずなのだと。つまり多くの人間は『最初にモチベーション1.0』だったからということで、自分たちが怠け者であり、常に楽を求めて生きていて、法律や宗教等といった『強制的な矯正』、あるいは自分の利益につながる『報酬』がなければ、自分以外の存在のことを第一に考えるようなことはできないと考えています。
しかし人間の本当の初期設定(デフォルト)は、『モチベーション3.0』なのです。我々人間は、モチベーション3.0のバージョンを十分に活用することができ、すべての人は主体的になれるのです。そこを間違えてはいけません。人間を過信してはいけませんが、甘く見ることも違う。人間には無限の可能性がある。そこに希望を持つべきなのです。
自分で何とかするしかない
という意識を持つことが重要です。更に厳密にニュアンスを整えれば、
自分がやるべきなんだ
ですね。ここに少しでも悲観的なニュアンスが含まれてはいけません。以前、PRESIDENTのインタビューで、リブセンス社長の村上太一氏がこう言っていました。
ビジネスって、社会を最適化する1番のものじゃないかと思います。濁った水をきれいな水に変える浄化剤を提供する日本ポリグルという会社があります。その会社の会長がソマリアに寄付で浄水装置をつくったのですが、1年後にいくと、蛇口が壊れていたりしてうまくいかなかったそうです。そこで寄付じゃなくビジネスにしたところ、警備する人や売り歩く人が現れて、普及していったとか。ボランティアを否定するつもりはありませんが、ビジネスにはそうやって社会にインパクトを与えて最適化していく力がある。私はそこに面白みを感じます。
つまりこういうことです。
この場合、確かにビジネスにしたとき、『モチベーション2.0』で動いた人もいるでしょう。報酬目当てならそうですからね。しかしここで考えたいのは『少しのテコ入れだけで、持っていた潜在能力が燃え上がった』という部分。やはり人というのは、元来もっと可能性を秘めているはずなのです。ただそれが埋没しているだけなのです。つまり、人が必要以上にその人に手を貸せば貸すほど、人の潜在能力は埋没していくのです。
では、更にこの問題を掘り下げてみましょう。『モチベーション3.0』にはこうあります。
給与、契約料、給付金、何がしかの得点などは、『基本的な報酬ライン』だ。これが適切でなかったり、公平でなければ、被雇用者は不公平さや不安定な状況ばかり意識する。それでは、本来予測可能なはずの外的動機付けも、理解しがたい奇妙な内発的動機付けも生まれない。結局、食うために生きているというレベルでは、モチベーションはまったく上がらない。
だが、ひとたびこの基本的な報酬ラインが満たされてくると、アメとムチは、意図した目的とは”正反対”の効果を生み出す場合が多い。モチベーションを上げるはずのメカニズムが、モチベーションを下げるようになる。創造性を豊かにするための策略は、創造性を失わせる。好ましい言動を促すはずのプログラムは、かえって消滅させる。同時に、アメとムチは、ネガティブな行動を抑制するどころか、往々にしてそれを助長する。不正行為を促し、依存症やひどく短絡的な思考を生み出すのだ。
つまりこういうことです。
先ほどの浄水装置のビジネスは、寄付からビジネスに変わったことで皆よく働くようになり、結果として浄水装置が普及することになりました。それはいいでしょう。しかし、そのビジネスパーソンの人々のモチベーションは、果たして本当に『MAX』だったでしょうか。たとえ基本的な報酬ラインを上回っていても、恐らくは『モチベーション2.0』に甘んじているのなら、何かしらの問題が起きます。本にはこうもあります。
行動科学の有力な教科書にあるように、『人は、他人の意欲をかき立てて行動を促し、そこから利益を得ようとして報酬を用いるが、かえって活動に対する内発的動機付けを失わせるという、意図せぬ隠された代償を払う必要が多い。』これは、社会科学の分野において、もっとも揺るぎない発見であり、同時に、もっともないがしろにされている発見でもある。
その『何かしらの問題』とはやはり『モチベーション3.0』の埋没。やはり、人が必要以上にその人に手を貸せば貸すほど、人の潜在能力は埋没していくのです。そしてここで言う『手を貸す』ということは、
といった、ありとあらゆる『アウトサイド(外部要因)からの働きかけ』のこと。そしておそらくは『規制、ルール、法律』等もここに含まれるでしょう。こういうアウトサイド(外部要因)からの働きかけがあると、人はアウトサイド・インの図式に依存し、モチベーション3.0が埋没し、モチベーション2.0以下のドライブに沈下してしまうのです。
外の環境が変われば自分も変わるという考え方。
自分の心が変われば自分の周りは変わっていくという考え方。
『モチベーション3.0』の著者ダニエル・ピンクは、その問題をわかりやすく説明するために『ロウソクの問題』を題材にして説明しています。下記の絵をご覧ください。そして一緒に考えてみましょう。自分が今実験の対象であり、『木製の壁に寄せられたテーブルにつく』ことをイメージして臨んでください。『木製の壁』です。
まず、木製の壁に寄せられたテーブルにつく。すると、下の図に示されるようなロウソク、画びょう、マッチを渡される。実験の参加者は、ロウがテーブルに垂れ落ちないように、ロウソクを壁につけなくてはいけない。
どうすればロウがテーブルに垂れ落ちないように、ロウソクを壁につけることができるでしょうか。多くの人はまず最初にこの2つの選択肢を頭に浮かべます。しかし、それはうまくいきません。一体どうすればいいでしょうか。ここに問われる能力は『クリエイティビティ(創造性)』と『問題解決能力』です。答えは以下の通りです。
画びょうが入っていた箱を使い、ロウソク台として使い、画びょうで箱と壁をくっつけるのです。これでロウがテーブルに垂れ落ちないように、ロウソクを壁につけることができるようになります。本にはこうあります。
この問題を解くには、アルゴリズム(指定されたやり方をたどる方法)ではなく、ヒューリスティック(新たな方法を見つけるために、決まりきったやり方から離れる方法)が必要だ。このような概念的課題を与えて、迅速な解決に報酬を与えることにしたら、どうなるだろうか。
そしてこの問題をインセンティブ(報酬)あり、なしに分けて解いてもらう実験をしたのです。簡単に考えると『報酬で釣る』インセンティブありの方が早そうですよね。能力をお金で引き出せるような気がします。
解決時間が参加者全体の上位25%なら5ドル。一番早いなら20ドル。
しかし、インセンティブありを提示したグループは、なしのグループに比べ、『平均3分長くかかった』のです。本にはこうあります。
思考の明晰化と創造性の向上を意図したはずのインセンティブが、かえって思考を混乱させ、創造性を鈍らせたのだ。
一体どうしてでしょうか。本はこうまとめています。
報酬には本来、焦点を狭める性質が備わっている。解決への道筋がはっきりしている場合には、この性質は役立つ。前方を見据え、全速力で走るには有効だろう。だが、『交換条件つき』の動機付けは、ロウソクの問題のように発想が問われる課題には、全く向いていない。この実験結果からわかるように、広い視野で考えれば、見慣れたものに新たな用途を見つけられたかもしれないのに、報酬により焦点が絞られたせいで功を焦ってそれができなかったのである。
アウトサイド(外部要因)からの働きかけがあると、人はアウトサイド・インの図式に依存し、モチベーション3.0が埋没し、モチベーション2.0以下のドライブに沈下してしまうのです。
アメとムチの致命的な7つの欠陥
『仕事』とは、『しなくてはいけない』からすることで、『遊び』とは、しなくてもいいのにすること。ソクラテスは言いました。
この記事を読み、仕事と遊びの境界線は人為的なものであるということを理解すれば、人の創造性と主体性はグンと引きあがるでしょう。本にはこうあります。
人の基本的な性質は、好奇心に満ちて自発的である、と信じている。それは、わたしが無邪気な理想主義者だからではない。わたしには三人のこどもがいる。これまで小さな子供たちと一緒に過ごしてきた自分自身の経験から言っているのだ。何に対しても好奇心を示さず、自発的な生後6か月の赤ん坊や1歳の子供など見たことがない。そう考えればはっきりとわかるはずだ。14歳や43歳になって受身の姿勢や無気力な態度を示しているなら、それは人間の本質というより、何かが原因で後天的に設定が変わってしまっただけなのではないか?
この流れに沿って、固定知能観と拡張知能観についても説明しましょう。これはすぐ終わらせます。
固定知能観 | 自分の知能は固定されていて、もう成長しないと考えること |
拡張知能観 | 自分の知能は拡張されていき、どんどん成長すると考えること |
以上です。これはもう単純に『拡張知能観を持つ』ことを意識すれば終わりです。勝手に自分の限界を決めないでください。単純なことですが、この記事で話すすべての内容に関係してきますよ。私も学校の勉強が嫌いで自分の知能成長はストップしたと思いましたが、それは違いました。環境を変える、自発的に自分の好きな分野だけを勉強する等のことを工夫をすれば、自分の知能がどんどん拡張していくということが分かります。
知っていましたか?アインシュタインは数学と物理の点数のみ極めて優秀でしたが、自身の興味のない分野に対しては全くの無頓着だったため苦手な分野の成績は最低の「1」を取っていたということを。これ以上の説明はいらないでしょう。色々と誤解し、勝手に自分の限界を決めないでください。決めつけると『固定知能観』となり、本当に固定されてしまいますよ。
私の部下は10年以上『固定知能観』を抱えて生きています。そして彼は本当に知能が固定されてしまっています。彼の人生を無断にしないためにも、彼の二の舞にならないようにしてください。これは本当のことです。
『他』に頼らず主体性を持つ。この考え方は孔子と似ています。孔子は、一人一人が利他的になり、礼を重んじて徳を積み、仁を得ることが出来れば、この世に法律や刑罰などは必要ないと考えました。儒教の考えは『徳』による支配の為、支配者がしっかりしていれば法律など必要ないと説いているわけです。
孔子よりも400年後に生まれた共和制ローマの哲学者、キケロもこう言いましたが、
考えればわかるように、人が全員善意を持ってこの人生を生きれば、法律などに頼る必要などはないわけです。しかし、それに異を唱えたのは韓非子です。
人間は孔子の言うような高潔な存在ではない。『利己』に走り、損をすることを回避しようとする。それが人間の本性というものである。従って、法律によって刑罰を整えれば、人はそれを回避しようとして、犯罪を予防できる。法さえ完備していれば、国の秩序は保たれる
として、法の重要性を説きました。
と主張したわけですね。孔子に対してその物言いをする韓非子には、少しうぬぼれが見えるかもしれませんが、実はこの韓非子の意見は、相当鋭いところを突いています。
韓非子と言えば、それを崇拝した諸葛良孔明も有名です。映画『レッドクリフ』では、金城武が演じた天才軍師・諸葛良孔明と、トニー・レオンが演じた天才軍師・周瑜を観ることができます。この映画も本当に英知にあふれていますからね。まだ観ていないという人がいれば、観ておいた方がいいでしょう。韓非子の意思を受け継いだ人間がどのような立ち居振る舞いをするかということを知れば、奥行きは更に深くなります。
この韓非子の考え方は、一見するとソクラテスのそれと似ています。ソクラテスの前にはタレスがいましたが、ソクラテス以前は人間についての哲学はありませんでした。ソクラテスの登場とともに、倫理と道徳の声が高まり、人間社会に新たな秩序と価値を求めるようになります。この紀元前600~400年頃の時代、世界に目を向けるとこのような傾向がありました。
彼らが倫理と道徳の尺度を設けたのは同時代でした。この理由は、世界的に農耕社会が定着し、古代国家時代に移る過程で、より強力な精神体系を必要とした人間の動きが関係しています。ソクラテスは、『社会とは道徳と倫理の秩序なしには存在しない』という考え方のもと、国家の理想を一個人の幸福よりも重要だと考えて、国家の定めた『法』を何よりも重視しました。
『悪法もまた、法なり。』
と言い、法に逆らわず毒杯を飲んだことの理由には、こうした背景も手伝っていると考えられています。
あれから2300年。現在の人間社会はどうなっているでしょうか。韓非子が言ったように、人々は『外部要因』にコントロールされ、モチベーションのバージョンは『2.0』のままでいる人が多いようです。実は、韓非子とソクラテスには『法を重んじる』という点では類似点がありますが、そもそもソクラテスは、人々のモチベーションを『3.0』に引き上げるために、アテネを歩き回って人々に『問答法』をしたわけです。
ある日ソクラテスは、自分が知者だと言い張る人間に、 『善とは何か』と問いただしました。
すると、男は笑いながら言いました。
それについてソクラテスはこう言ったのです。
これは主体的な人間にしか言えない言葉です。世の常識や蔓延しているものなどに流されているようではいけない。つまりこれらの問答法は、ソクラテスが人々に『無知の知』を悟らせるためにやった行為でもあり、人々のバージョンをモチベーション3.0に引き上げるためにやった行為でもあるのです。そこが韓非子と違うところですね。
自分は『何も知らない』ことを知っている知識。無知であることを知っている人と、無知なのに知性があると思い込んでいる人がいるなら、前者の方が知的である。
しかし、ある時それらの行為を悪く思ったアニュトスやメレトスたちの反感を買い、裁判に持ち込まれ、死刑を求刑されました。ただソクラテスはその裁判で一切自分の自己弁護をせず、むしろ当然のごとく無罪を主張しました。もしソクラテスがこの裁判で『彼らの機嫌をうかがっていた』なら、もしかしたらソクラテスはここで死ぬことはなかったのです。しかし、ソクラテスはそれをしませんでした。
そして幼馴染のクリトンに脱獄を勧められても断り、逃げることなく、死刑を受け入れました。彼曰く、
『これまでの生涯で一貫して私が説いてきた原則を、不幸が訪れたからと言って放棄することはできない。』(『クリトン』46)
そしてソクラテスは最期にこう言ったのです。
『お別れのときが来た。君たちは生きながらえるため、私は死ぬために別れるのだ。君たちと私のどちらがより幸福なのだろうか?答えることが出来るのは神のみである。』(『弁明』42A)
彼の生きざまはとても知的です。
モンテーニュがこう言い、
サン・テグジュペリがこう言い、
エラスムスがこう言ったように、
『生きながらえる』ことを選択する多くの醜い命よりも、とても高潔に見えます。黄金律にもありますよね。
しかし、彼が命を懸けて行ったその知的な『啓蒙』は、この世界の人々にどれだけ影響を与えたでしょうか。どれだけ人々は『無知の知』を知り、バージョンは『3.0』に引き上げられたでしょうか。
人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと。
そう考えると残念ながら、やはり韓非子の言うとおりになってしまっているわけです。では、孔子やダニエル・ピンクは『バカ』なのでしょうか。私にはそうは見えません。ソクラテスは『無駄死に』したのでしょうか。私にはそうは思えません。彼らのような人間が向けた目線の位置にあるのは、間違いなくこの世を支配する圧倒的な真理。人は、決してそれをないがしろにし、見て見ぬふりをして生きていくことはできないのです。
アテナイの人々はソクラテスを刑死させたことを悔やんで、ソクラテスを告訴したメレトスには死刑の判決を下した。その後人々はポンペイオンにソクラテスの銅像を作り、彼を讃えた。
このような背景もあって私はリーダーを求められたり、助言を求められることがありますが、したとしても一度だけ等にして、あまり世にいる人の『駆け込み寺』のような存在になろうとは考えません。そうではなく私が『説明書(マニュアル)』を作ろうと思い、それに徹する理由はいくつかあります。
ここで言うマニュアルは、『宗教』や『法律』とは一線を画すものです。後で詳しく説明しますが、そういう『アウトサイド・イン』の発想を促すようなものは、人間には相応しくないと考えるからです。
まず1つ目は、この『人々のモチベーション3.0の埋没』のことを意識しているということです。そして2つ目は、自分自身が幼少のころ宗教を突き付けられ、
と強く説かれ続け、
と言って、人一倍主体性を燃やしてきたことが関係しています。つまり、『あまり慰めが好きではない』のです。また、私が頑なに『慰め』ではなく『戒め』に目を向けるべきだと諭すのは、親のような『本物ではないクリスチャン』のような人を大勢見てきて、その『慰め』の裏にある自分本位、人間本位な考え方がとても醜く、あまり誠実ではないと考えているからです。
このサイトを作って10年、その間に親とは何度も意見を交わし(というか私が一方的に説き)、今ではもうずいぶん謙虚になりました。しかしまだまだ母親の考え方は本物のクリスチャンとは言えません。
それともう一つは、『人々の慰めの延長線上に戦争がある』ということですね。慰めというのは一見するととても優しく、温かい気持ちになるように見えますが、実は単なる『現在の正当化』であるケースが圧倒的に多い。私とて、多くの人が求めるこの『慰め』を売りにして話を進めていけば、多くの人の共感を得ることは当然分かっていますが、そんなことは分かっていてあえてしていないのです。
例えば慰めを必要としている『振られたての女性』がいたとき、そこに手を指し伸ばせば『何らかの結果』が生まれることがあることなど当然知っているが、10代の頃からそういう行為は軽蔑していた。(そうはいっても私は聖人君子ではありません。)
この考え方でいいんだ
神が許してくれるんだ
そのようにして慰めれられた(正当化された)考え方の延長線上に、争いや身勝手な結果が待っている場合、私はこの『慰め』を認めることはありません。そういう人は『戒め』られるべきなのです。そしてそれをするのはもちろん人間ではなく、『真理(愛・神)』なのです。
アインシュタインは言いました。
3つ目、私の父はクリスチャンのまま死に、死に際にこう残しました。
自分の最愛の両親が自分とは全く違う価値観で生きているということは、子供として素直に、とてもこたえることです。そして私の叔父は長い間統合失調症で苦しみ、そしてそのままこの世を去りました。また私の部下には、入社して10年以上経つのに、いまだに精神的な問題を解決できずにいる人がいます。彼が2008年に言ったのはこうです。
…その時の私の心境を想像できるでしょうか。しかし私は、下記の記事を通して、彼の病気を治す覚悟をしました。
あれから10年が経ちました。彼はいまだに遅刻を繰り返し、吃音症も治らず、言い訳や誤魔化しをまるで麻薬のようにやめることができません。私が彼にしたこの10年の教育は、およそ他の人がマネできるようなものではありませんよ。実際にはできたとしても、それくらい内容の濃い10年を送ってきたということです。どこかの帰り道、駐車場に止めて何時間も助言説教をするのは当たり前で、公園でそれをしているときは、あまりにも長い間停車しているので警察が来たこともあります。しかしそんな事例などやさしい。あまりにも濃い10年を私と彼は送ってきたのです。
教育の神、森信三がこう言っているように、
私も一度たりとも彼に対して教育を妥協し、諦めたことはありませんよ。日本の世界遺産を彼とすべて見て回りました。富士登山もしました。たくさん食事をして、お風呂に入り、運動を一緒にしてきました。仕事もしてきました。四聖や偉人の言葉、様々な本、自身の経験談を交えて色々な話をしてきました。
しかし、彼はいまだに入社当時のその精神状態から、ほとんど動くことなく、同じ場所で足踏みしているのです。実際には前進していても、とても私の口からは『成長した』とは言えません。それだけの時間が過ぎてしまいました。
孔子は言いました。
私という上司と出会ったことを『運の尽き』と捉えるか、『天命』と捉えるかは、彼にかかっています。
どちらにせよ私と出会わなくても、彼は幼少のころから心底に『ある問題』を抱えています。恐らくその問題に真正面から触れることが出来る人は私を含め、何人もいないでしょう。事実、多くの彼の『友人』は、それについて触れなかった。
それだけではありません。私の知人には本当にいろいろな人がいます。名誉のために具体的には言いませんが、私は本当に多くの人の人生を見てきたのです。私はこれらの経験から、『人間とは、自分で本当に変わろうと思わなければ、一生変わることはできない』という決定的な事実を知っているのです。
彼は完全に韓非子の言うとおりの人生を送ってしまっています。私はそれが気に食わない。
アンドリュー・カーネギーはこう言い、
松下幸之助は言いました。
そしてそれを言うのは韓非子だけではないのです。
チョウ・ユンファ主演の映画『孔子の教え』を見ればわかりますが、あの孔子ほどの人物の弟子にも、有能な人間とそうじゃない人間がいました。時に孔子は、道に迷った時、この自分よりも二回りも年下である『顔回(がんかい)』に助言を願い出ることもありました。孔子は、こうも言っています。
≪魯の哀公が孔子に『弟子の中で誰が学問を好みますか』と尋ねた。孔子答えて言う。『顔回という者がおりました。学問を好み、怒りを他に移す、すなわち腹立ちまぎれに他に当たるようなことはなく、過ちを再び繰り返すことがなかった。不幸、短命にして死し、今はおりません。そのほかに私はまだ本当に学問を好むという者を聞いたことがありません。』≫
たしかに顔回のような有能な弟子はいました。しかし弟子の中にはそうでない人間もいて、あるとき孔子が出かけなければならないとき、そのお供として連れていくときにどの弟子を連れていくかというシーンで、孔子がこう言うシーンがあります。
確かにその通り、ぐうたらと寝転んでいる弟子がいるのです。それは『論語 朱熹の本文訳と別解』にもこうあります。
宰予(さいよ)が昼寝していた。孔先生がおっしゃるには、
『腐りきった木には彫刻できない。掃きだめの土で作った垣根は、ぼろぼろ落ちて上塗りできない。それと同様、宰予は学ぶ気も努める気もないから、教えるべき下地がない。だから私は、宰予をどうして叱責しようか、しても無駄だ』
孔子ほどの人物のそばにも、やはりこういう人間がいるのか…。
私の頭に何か大きな違和感がよぎりました。また、孔子だけではないのです。ブッダのそばにもそういう『頭を抱える弟子』はいました。『超訳ブッダの言葉』にはこうあります。
ごく最初のうちは少人数を相手にしたひっそりした活動だったようすですけれども、あるとき一気に、弟子が千人も増えるできごとがありました。(中略)こうして弟子の数が増えていったことが幸福だったかと申せば、必ずしもそうでもなかったように思われます。やがてブッダの名声を聞いてやってくる人がどんどん増えるにつれて、弟子になる人の質も雑多になっていきました。
最初期のメンバーは、ブッダの弟子になる前からすでにかなりの境地に達している人たちばかりでしたから、教え導くのも簡単だったようです。ところが、人数が千人、五千人、一万人とどんどん増えるなかには、『貧しくて生活できないからとりあえずブッダに弟子入りして食いつなごう』なんて人たちも入ってくる。かれらは、弟子同士で論争したり喧嘩をしたり街の人に迷惑をかけたりと、いろんな問題を起こしていたようです。最初はなんのルールも必要なく平和にまわっていたブッダと弟子たちのグループも、こうして大きくなるとしかたなくいろんな窮屈なルールを制定する必要が出てきたのです。
人数が多くて教えが行き届かないということもありますが、やはり偉大な人間のそばにいて、その高潔な教えが間近にあったとしても、それを習得し、自分のものにできる人、つまり『人生の免許』を得られる人は、全員ではないのです。
クリスチャンのまま死んだ父親。恐らくクリスチャンのまま死ぬであろう母親。統合失調症のまま死んだ叔父。何をしても変わることができない部下。孔子のそばにいた寝てばかりいた弟子。ブッダのそばで転落した弟子。私はこれらの問題を通して、『人が人にできる限界』を見た気がしたのです。
イソップはこう言い、
ゲーテはこう言いました。
ジャン・アノイルの言葉同様、これらの言葉は私の心に深く突き刺さった言葉です。私は多くの人々がパラダイム転換できない(あるいは精神的な病を克服できない)のを目の当たりにしてきました。そこには間違いなく私の力不足も影響しているでしょう。これが、私が『説明書(マニュアル)』を作ろうと思い、それに徹する理由なのです。つまり私には結局、『それしかできない』のです。
クリスチャンが考えを改める必要があるというのはきわどい話です。しかし、我々一家は、間違いなくこの宗教の問題がなければ、もっと仲良く、不和はなかった。それが決定的な事実です。このあたりの考え方については下記の記事にたっぷりと詳細を書いています。
『変わろうと思っている人だけが、変われるとぼくは思っているんです。』
by『思い出のマーニー』監督:米林宏昌
17歳のとき、私はこのような高いモチベーションを持って人生を生きるべきだと仲間に語ると、仲間の一人はこう言いました。
私はそれを言われたとき一瞬でもこう思ってしまいました。
なるほど、確かにそうかもしれないな…
―その時です。それを聞いていた普段は何も言わない恩師が、すかさずこう口をはさみました。
私は自分の考え方が間違っていなかったことに安堵したと同時に、恥を知りました。なぜなら先ほど、『あなたのようにできるわけではない』と言われたことである種の優越感に浸り、自分と周りの人間との格差に慢心してしまっていたからです。
自分はレベルが高いが、他は低い。だから仕方ないか。
少しでもそう思ってしまった自分に、恥を覚えたのです。私はこの17歳の出来事を忘れません。そのとき私は、『その相手を本当に仲間だと思っているなら、いや、想っているからこそ、一流の人間を目指すべきだと諭すことを避けて通れない』のだと悟りました。私の恩師は間違いなく、彼ら四聖に通じる知性を持っている人たちでした。私に『無知の知』を初めて教えてくれたのも、そして『内観』を教えてくれたのも彼らでした。
反省→猛省→内省→内観の順番で自分のココロと深く向き合うことが出来る。実は、あの釈迦が『ブッダ(悟った人)』になったのは、6年間の苦行ではなく、この内観(ヴィパッサナー瞑想)なのです。
それから数年後、違う場面で私がまた仲間に求める機会があると、仲間の一人はこう言いました。
その時、恩師はそこにいませんでした。したがって、そこにあったのは意見が対立しただけの二人の人間。私はこのような事例をいくつか経験して、『人は神がいなければ、どこまでも逃げることができる』という現実を身に染みて理解していったのです。17歳のときは、そこに『神代わり』の恩師たちがいてくれました。しかし彼らは無限に存在しない。この世界のどこにでも存在するわけではないのです。
私はこのような様々な経験を通し、『では一体、どう生きて、だれを仲間だと思い、その仲間に対して何をしていけばいいのか?』ということを熟考しました。
もちろんこの世には時に、人々を扇動するリーダーや、駆け込み寺のような場所も必要です。まず、子供がいますからね。知識が必要なときに、その専門知識がない人もいます。そのようなとき、知識がある大人や専門家が人々に指示し、正しい方向へ誘導することはとても大切なことです。
大衆の意見や行動を特定の方向へ直接導くための意図的活動。
駆け込み寺はアメリカの場合ならそれは『懺悔室』になるでしょうか。先ほど紹介した映画でも、教会にあるその懺悔室に駆け込んで本音を吐露する(愚痴を言う)シーンがあります。
『神は人間をいがみ合わせたいのだ!』と言ったのはこの場面。
多くの人が『いいね!』と共感を得たがっていて、慰めてもらいたいし、認めてもらいたいし、ストレスも発散したい。快楽も得たいし、幸せな人生を送りたい。そういう『報酬』や『自分勝手な息抜き』も、確かに人間には必要なときがあります。
しかし、それらをすべて踏まえた上でも、この世に断固としてあるべきなのは『人間の慰め』ではない。生きとし生けるものすべての『平等』であり、公明正大なジャッジです。この公明正大なジャッジ、つまり『強制的な矯正』をするのにふさわしいのは、『恒久的に未熟な人間』ではなく、『真理(神・愛)』という圧倒的な力なのです。
どれでも好きなように呼べばいい。こんなものはただの『日本語』であり、重要なのはそれが指し示すもの。それが何かということは、恐らく人間には一生認識不可能。ちなみにこの中で私が一番嫌いなのは、誤解を生みやすい『神』である。
私も息抜きはしますよ。やめろと言われてもします。しかしこれは言わば、『排泄』に似ている。トイレで排泄することは、堂々とすることではなく、やむを得ずすること。表面上に断固としてこの『排泄』を押し出すことは、人としてどこか、欠落している印象を得ますよね。
この『排泄』は、『金儲け』に似ています。つまり、インディアンの諺にこうあるように、
『排泄は必要だ。だが、重要ではない。』ということなのであり、『慰めは必要だ。だが、重要ではない。』ということなのです。つまり、どちらに重きを置くべきかを間違えてはいけないのです。
間違えてはいけません。宗教の本質は『慰め』ではなく、『戒め』なのです。『人間』が慰められることを優先する考え方は『自分本位』であり『人間本位』。それぞれがそれぞれの『慰め』を主張するからこそ、争いが起きるのです。忘れてはいけません。圧倒的な『戒め』によって慰められることがあるだけ、だという決定的な事実を。地球は別に、最初から私たちの『所有物』ではないのです。
『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうあります。
『わたしは熱情の神である。わたしを拒む者には父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える』
これが聖書の伝える神の本質である。日本人にはわかりにくいとされる聖書だが、冒頭に述べた神の本質さえ理解していれば聖書には強くなれるのである。わたしを拒むのか?それとも愛するのか?じつは聖書全体を通じて流れているのは神のこの問いかけなのだ。だからこそ、二者択一を迫る神とそれに答える人間との間に契約が必要とされるわけだ。拒むのか?愛するのか?という契約である。
ここから見えてくるのは、この世にはただ『真理という断固とした存在(戒め)』があり、人はそれから逸れるか、合わせるか、という二択を迫られているということ。
わかりやすい例を言いましょう。『人は死ぬ』という真理がありますよね。これはもう絶対的な事実ですから、真理となります。ではこれは『慰め』ですか?もしこれで慰められるという人がいるなら、
私はこうやって死ぬが、それは皆そうだったんだ。私だけじゃないんだ。
という具合に『結果的に慰められる』だけですよね。人間はこのように、断固としてそこに存在する真理を『解釈』するだけの存在なのです。間違ってはいけません。真理は人間の慰めのために存在するのではないのです。
このようにして考えると結局人は無力ですね。結局人が、人にできることは限られている。『論語 朱熹の本文訳と別解』にもこうあります。
孔先生がおっしゃるには、『私はもう言葉で教えるのはやめようと思う』と。子貢(しこう)が言うには、『先生、が何もおっしゃらなくなったら、我々門人はなにを伝えればよいのでしょう』と。孔先生がおっしゃるには、『天だって何も言わないではないか。それでいて季節はちゃんと移り変わり、すべてのものはちゃんと生育する。天は何も言わないではないか』と。
まるで遠藤周作の『沈黙』のようですね。下の映画予告の最後に注目してください。『ディパーテッド』、『シャッター アイランド』でメガホンを取った名監督マーティン・スコセッシと、『アメイジング・スパイダーマン』、『ハクソー・リッジ』等で主演を演じたアンドリュー・ガーフィールド、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』等でダースベイダー役を演じるアダム・ドライヴァー、そして浅野忠信、窪塚洋介をはじめとした日本の名優たちが熱演した『沈黙 -サイレンス-』の予告動画です。
『主よ、あなたは何故、黙ったままなのですか―』
孔子の『天は何も言わない』と酷似していますよね。そしてこれは下記の記事『責任があるのは人間側』で書いた以下の内容とも酷似しています。
『S側は永久にその様相を変えることは出来ない。だから合わない場合は人間がこちらに合わせよ。そうすれば互いは合致することになる。』
そしてここにニーチェのこの言葉を付け加えると、更にこの話の奥行きが深くなります。
先ほど紹介した『チェンジング・レーン』のポイントを思い出してください。ここからは映画を観た人にしか具体的に想像できません。
という『彼の独断と偏見による一時的な解釈』を、これらの話と照らし合わせて見るのです。彼がいくら独断と偏見による解釈をしようが、『それ』は厳かに、断固としてそこに存在します。しかし、『沈黙』している。彼は『慰めの場』である懺悔室で牧師に言いたい放題言いました。もし、懺悔室で懺悔し、
俺は悔い改めたから許されるんだ
と思い込み、『現在の自分が正当化される』とどうなるでしょうか。慰めは確かに人を救います(正当化します)。考え方が歪んだ人でさえも。ここで考えたいのは『インセプション』『ダークナイト ライジング』等に出演するジョセフ・ゴードン=レヴィットや、『ホーム・アローン3』『アベンジャーズ』等に出演するスカーレット・ヨハンソンが出演する、『ドン・ジョン』という映画です。これは一見するととても低俗な映画に見えますが、真剣に観るとそうではないことがわかります。
このようなやり取りをして、しかし、男はいつまでたっても自分の考え方を改めることができません。むしろ、
俺は悔い改めたから許されるんだ
と思い込み、正当化されていくのです。もちろん、このような場所を利用しながら徐々に自分と向き合い、改善していくという考え方もあります。しかしもし、彼が教会に行くことをやめてしまったらどうでしょうか。つまり、『許された』と思い込んで考え方が間違っていることに気づかず、その考え方で犯罪をしてしまったら?そこでもし失われる命があったら?アメリカではそれは簡単に起こり得ることですよね。
それが私が『慰め』ではなく『戒め』があるべきだと主張する理由の一つなのです。人間がこの『独断と偏見による歪んだ解釈』を行ってしまう以上、『慰め』は時に、狂人を生み出すドーピングとなり得るのです。
この映画はこの後の記事でまた題材にします。こう見えてこの映画は、結構深いテーマを扱っているのです。
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