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この記事は下記の記事の続きです。
孔子やソクラテスは人間の可能性を信じました。そしてそれは私も同じでした。しかし私は、
という現実を思い知りました。そもそも私自身がそうでしたからね。私の人生の転機は、17歳のときでした。ブッダも、
と言い、キリストも、
と言いました。これはまさしく『インサイド・アウト』ということですよね。それに比べて韓非子の場合は、人は『アウトサイド・イン』の発想しかできないと主張したわけです。
外の環境が変われば自分も変わるという考え方。
自分の心が変われば自分の周りは変わっていくという考え方。
結局は韓非子の言った通りになっています。多くの人がアウトサイド・インの発想をして人生を生きている。しかし私はその現実を認めません。『それが人間の最高到達地点』だと認めるわけにはいかないのです。
本当のところでは、すべての人はインサイド・アウトの発想ができるのです。しかし、人が人のその発想やモチベーションを完全にコントロールすることはできないのです。それに、それだとまさに『アウトサイド・イン』になってしまいますよね。かつて私が仲間に求められたリーダーは、『アウトサイド・インでありモチベーション2.0の他燃型人間』を捻出してしまうのです。それではいけないのです。自分の意志で真理に目を向け、立ち上がるべきなのです。
先ほどの映画『沈黙 -サイレンス-』でも、偶像崇拝をしようとする(十字架やマリア像などを拝む)日本人を諭す牧師の姿が見れます。しかし、どうしても人は『アウトサイド・イン』であろうとする。そういう人間をこの映画で客観視してみましょう。
例えば、『柔訳 釈尊の教え 第1巻』にはこうあります。
[原始仏教『スッタニパータ』第一章第三節43番]
人は、こうなれば安心が出来る、アレが叶えば安心する、などと今の生活の中で思うのです。結婚すれば安心する、就職できれば安心する、金持ちになれれば安心する、健康になれば安心する、離婚すれば安心が出来る、試験に合格すれば安心するだろう、などなどと思うものです。何かの『形』を入手すると安心が出来ると、人は頑なに信じています。でも釈尊は、これを完全に否定しています。出家したからと言って、何かが変わることはない。何かの形が叶っても、『揃っても』、人は今と同じだということです。
つまりこれはこう言っているわけですよね。
まだ疑う人がいるかもしれません。『四人の教師』にはこうあります。
イエスは我々がイエスであるようになれる、と言っている。すなわち、
『あなたが私の口から飲むならば、あなたは私のようになることができる。』(トマスによる福音書108)
と答えている。
イエスはこう言ったわけです。
イエスは我々がイエスであるようになれると言いました。普通、アウトサイド・インの発想を促したいならこう言いますよね。
と。更に、『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうあります。
釈迦は、このようにいいました。
『自灯明、法灯明(じとうみょう、ほうとうみょう)』
釈迦が死んだのちの闇のなかで『灯』とするのはまず自分自身であり、次に釈迦の法(=教え)を『灯』としなさいという意味です。
ブッダは、自分が死んでこの世が闇に包まれると思っても、
と、そう答えているわけです。そして、それでもインサイド・アウトの発想ができず、カギを握っているのは自分ではないと思い込む人がいる場合のための『保険』として、仏教(釈迦の教え)を遺したのです。このあたりを誤解してしまうと、アウトサイド・インの発想が根付いてしまいます。
私はクリスチャンの両親を持っているからよくわかるのですが、信仰がある人は、
私は信仰があるから間違っていない。
と考える節があります。しかし先ほど釈迦の言葉で、『出家したからと言って、何かが変わることはない。』というものがありましたよね。つまりこれは、正しいのは宗教でも、敬虔な信仰者でもなく、真理ただ一つである、ということを意味しています。
『スポットライト 世紀のスクープ』という映画があります。この映画は、カトリック神父による少年虐待事件を映画化したもので、実際にあった話です。ここからは映画を観た人しかわかりません。
カトリック神父という、極めて大きな影響力を持つ人間が、少年に性的虐待をしていた。ゲーガンという神父が、30年の間に80人もの児童に性的虐待を加えていたというのに、その扱いが極めて小さく、埋もれてしまっていた。つまり、そこには何らかの圧力が働き、真実が隠蔽されかけていたのです。これは、その真実を、勇気あるジャーナリストたちが命懸けで暴こうとし、奮闘する映画です。
つまりここで言う『自灯明(自分という灯り)』とは、他人やその他の存在を無視して自分のエゴを主張しろということではありません。この映画を観てわかるように、
『キリスト教徒だからといって、神様に仕えている人間だからといって、権威ある人間だからといって、そう広く人々に認知されているからといって、その人物が正しい人間だということにはならない。』
のです。そして2018年8/15(水) 、新たなニュースが入ってきました。
米教会、子供に性的虐待70年…聖職者300人(8/15(水) 11:55配信『ヤフーニュース』)
ニューヨーク=橋本潤也】米東部ペンシルベニア州のカトリック教会で、70年間にわたり300人以上の聖職者が子供への性的虐待に関与したことが、州大陪審が14日に公表した報告書で明らかとなった。被害者は少なくとも1000人に上るという。報告書は、教会が虐待を行った聖職者をひそかに別の地域に異動させるなど、組織的な隠蔽(いんぺい)を行っていた実態も指摘した。
報告書は同州の八つの教区のうち6教区を対象として、1947年から現在に至る教会の内部文書や被害者からの聞き取り調査を基に作成された。内部文書は計50万ページにも及び、調査には2年かかったという。 報告書によると、被害を受けた子供はほとんどが男子で、多くが思春期前だったという。虐待に関与した司教や大司教、枢機卿などの高位聖職者の責任が問われることはなかった。教会は虐待に関与した聖職者に住宅や生活の保障を続け、異動する際にも、理由を公表しなかったという。
ゲーガンだけではなかった。実に、300人以上の聖職者が、人の道を踏み外していたのです。
ブッダも『出家したからと言って、何かが変わることはない』と言っていますよね。彼の言う通り、出家したからそれでOKというのは、アウトサイド・インの発想じゃないですか。外部要因が揃っているから自分も立派であると思い込むわけですよね。『自灯明(自分という灯り)』とは、『自分を過信しろ』ということではなく、『自分に自信を持て』ということ。つまり、
ということなのです。ブッダはこうも言っています。
もし、あなたが何かの信仰を持っているとしましょう。あなたが崇拝しているのは『教えを歪曲させた凡人』ですか?それとも『偉人が説いた真理』ですか?自分のココロの虚無、そして世界に蔓延する虚無を晴らすことが出来るカギを握っているのは他の誰でもない。自分なのです。
私の両親はクリスチャンになることで心が崩れなかった。それは良しとしましょう。子としてもそれは嬉しいことです。しかし、彼らには『問題解決能力』がなかった。鏡に映った姿で身なりが崩れていたとき、人は身なりを整えます。それと同じで、自分の身の回りで何かスムーズではないことが起こっているのなら、その問題を解決するカギを握っているのは、自分なのです。
上記の記事に書いたように、私の祖母もクリスチャンであり、こういうことがありました。しかし彼女は『問題解決のカギを私は持っていない』とでも言うかのように、84歳からの実に4年間を、『何もせず』に過ごしてしまったのです。
厳密には『1,500円』と値札のついた弁当を私に甲高い声を出して渡し、機嫌を伺う、ある種の賄賂のような方法で水に流そうとしたことはありました。アウトサイド・インの発想をしている証拠ですね。自分を変えずに、『外部要因』の調整で何とかしようとしたわけです。
下記の記事に書いた『パラダイム転換』というのは、勇気がいるのです。
いいですか。本物のクリスチャンであれば、目の前に困難や壁が立ちふさがった時、『他力本願』になるのでも『見て見ぬふりをする』のでもなく、自分の心に問いかけて、その問題を解決しようと努力します。その時に聖書の力を借りればいい。そういう人のことをクリスチャンと言うのです。彼女らは実に30年以上もの間、クリスチャンとして生きています。それだけのベテランが、こうも問題解決能力がない。それはなぜかはもうわかりましたね。彼女らがアウトサイド・インの発想に甘んじているからです。まさか、
私たちは何もしなくてもお祈りをすれば、イエス様に罪を許してもらえるんだ
と思っているわけではないでしょう。だとしたらニーチェの言う通り、キリスト教ってのはとんだ宗教団体ですね。
ヴォルテールがこう言い、
マザー・テレサがこう言ったように、
様々な人々にガッカリされて当然です。
もちろんそれは、クリスチャンだけではありません。私のごく身近にクリスチャンがいてその事例が出ているだけで、これは宗教、無宗教に関係なく、この世を生きるすべての人に当てはまる考え方なのです。先ほどの『パラダイム転換とは』の記事に『灯台』の話が出てきますね。人は、
自分こそが灯台であり、進路変更をするのは相手だ。
と思ってしまいがちです。もちろん、ブッダらほど道を究めていたならそう思ってもいい。しかし、そうでもないのに、ただ『世間一般が認めそうなステータス』を得たというだけで、(出家した、プラチナ資格を取った、高学歴である、地位がある、年齢が上である、金持ちである等)自分が灯台だと思い込むのは、いささか首をかしげざるを得ません。その行為を貫いた延長線上に『虚無』はありませんか?あるならそれは間違っている(真理から逸れている)証拠です。真理というのはそういう風に、人に善悪や真偽について、密かに教えてくれるのです。
ここで言う『凡人』は、悪口ではありません。伝言ゲームを思い出しましょう。悪気はないのに、なぜか情報が歪曲していきますよね。普通の人はこうなるのです。しかし真理というものは人間のこの『曲解』に関係なく、ただそこに断固として存在します。時間にも、なにものにも、一切に支配されずに。
ある日のPRESIDENTにはこうありました。
失うことに抵抗が無い
稼ぐ人は、お金やものに執着しない。それどころかいまの仕事や地位にも固執しない。安定して収入を得られるポジションにいても、あっさり捨てて転職や独立をしたり、まったく違う分野に挑戦する。現状が頭打ちだから新天地を求めるというわけでもない。たとえ将来が約束されても、そんなことに関心がないかのように環境を変えていく。いま持っているものを失うことに、なぜ抵抗が無いのか。それは根底のところで自分というものを信じているからだ。
成功する人は、どのような環境になってもまわりの人とうまくやれるし、食べていけるという自信を持っている。稼ぐ人は、成功するための原理原則を知っているといってもいい。成功するためには土台になる考え方、つまり原理原則とそれを具体化する技術の両方が必要だが、原理原則さえ本物であれば、じつは何をやっても成功する。企業も同じ。成長し続ける企業は、市場の変化に応じて新しい商品やサービスを出していく。そうした企業は、高い開発力に成長の秘密があると考えられがちだ。
しかし、ほんとうに大事なのは理念やミッションだ。企業活動のベースとなる考え方がしっかりしているからこそ、現象に合わせて対応を柔軟に変えていけるのだ。松下幸之助や稲盛和夫の本を読むと、描かれているのは人間観や哲学の話であり、商売の話はほとんど触れられていない。それでも多くの人が手に取るのは、そこに原理原則があるからだ。
多くの人が大好きな『成功者』とて、インサイド・アウトの発想をしているのです。
李元馥の著書、『世界の宗教―ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教・儒教・その他 (教養マンガ)』にはこうあります。
『仏教信者が歩む道は神に向かってではない。宇宙と同じくらい広い自己の世界に隠されている極楽を求める努力だ。』
私もこれを見るまで誤解していましたが、仏教の言う『極楽、地獄』という概念は、世の多くの人が認知しているあの世のことではありません。自分の心の中のことを指し示していたのです。
例えば、ブッダが罪・悪としたものに、『執着』があります。執着さえなければ、この世の一切の『悩み、憂い、嘆き、不愉快』から解放されます。我々人間が強いられているこの人生とは、決して辛く、悲しく、『虚しい』ものではないのです。たった一度の『尊い』人生なのです(天上天下唯我独尊)。この天上天下唯我独尊を理解している人間の心は、解放されています。何しろ、自分の命こそはこの世で唯一無二なのです。その事実を本当に理解した人間の心は躍動し、くよくよなどしている時間など一分もないことを悟るわけです。
その様にして、一つ一つの真理を理解していくことにより、心が豊かになり、思い悩みから解放されるわけです。これを『極楽』と表現しているのです。そして無知である人の心を『地獄』と言っているわけです。
[内に目を向けて真理を理解すれば心は平安になる]
[内に目を向けずに問題を未解決にしたままだと心は混沌とする]
この考え方なら、無宗教者の私も合点がいく話です。私自身、内に目を向けるまでは人生に未解決問題が溢れていて、そのせいで気持ちが鬱屈とし、それを誤魔化すように刹那的な人生を生きてしまっていました。
毎日、その日が楽しければそれでいいと考える、場当たり的な生き方。深く考えないで済むメリットがあるが、思慮浅く、悔いの残る人生に繋がっている可能性が高い。
しかし、読書して考察し、内省や内観を積み重ねていくことによって、その未解決問題が徐々に解決していき、それと共に心のモヤモヤが晴れていき、平安な心を取り戻していったのです。そしてそれは、キリストの言う『天国』とて同じことだと私は考えています。つまり、『答えは外にはない。内にある』のです。
地獄極楽についてはその他の見解もあります。
例えばスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスに広まり、パーリ語仏典を受持する上座部仏教(テーラワーダ仏教)は、ヒンズー教(元バラモン教)の影響を多く受けていると言われていますが、TBS系『クレイジージャーニー』で有名な佐藤健寿氏の写真集『奇怪遺産』を読めば、そのタイにある地獄をイメージしたテーマパークのようなお寺『地獄寺』の写真を見ることができます。
百聞は一見に如かずですね。その地獄の写真を見て、そういう光景が本当にあるのかどうか、それを自分の目で見て、心で感じてみてください。後は自分次第ですからね。
しかし私は以下の言葉が真実だと考えます。道元の一生を描いた映画『禅 ZEN』で道元の母が言ったこの言葉です。
『世間では、阿弥陀様にお願いをすれば死んで浄土に行けるという教えが流行っているようですが、本当にそうでしょうか。浄土とは今ここ。生きているこの世こそが浄土でなければならないのです。』
キリスト教には『来世』や『最後の審判』があり、バラモン教(ヒンズー教)には『前世』、仏教その他には閻魔大王や菩薩がいるような極楽や地獄が想像されています。しかし本当にそんな『わからないはずの世界』を勝手に想像していいのでしょうか。
ソクラテスは死に関してこういう考え方を持っていました。
死後のことは誰にも分らない。それが善いところなのか、悪いところなのか、何人たりとも知る由もない。それであれば勝手に悪いところだと決めつけるのは『無知』です。そして同時に善いところだと決めつけるのも『無知』。私はその道元の母親が言ったことが正しいと信じますし、別に彼女を信じるわけじゃなく、たまたま私と同意見です。
ゾロアスター教およびアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)が共有する終末論的世界観であり、世界の終焉後に人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きかを決められるという信仰。
ちなみにソクラテスは死んだら善き人々や神々に会えると信じていましたが、私からするとそれも『無知』ですね。わからないわけですから。ただ、そう信じれば人は死が怖くなくなる。一種の知恵だと言えます。
『インサイド・アウト』の重要性が徐々にわかってきましたね。この後もまだまだその重要性について語ります。しかし、あの孔子ほどの人物が、『もう言葉で教えるのはやめようと思う』と言いました。彼はソクラテス同様、自分の無知をとことん知り尽くしていました。やはり彼らはとても賢い。ジャン・アノイルやイソップやゲーテの言ったように、そして彼らこの世の偉人たちに『限界があった』ように、人はこの世のすべての問題を解決することはできないのです。人間はそんなに高次元の存在ではないのです。
だとしたら、私がここで何かを語っても、あまり意味がないのではないかという疑問が頭に浮かびます。しかし、です。ドストエフスキーは言いました。
彼の言葉もさることながら、この記事にも書いた、当時私より年下だった、29歳で尊厳死を選び世界の人々を葛藤させた、ブリタニー・メイナードの言葉を、私は忘れることはありません。
『この世界は美しい場所です。旅は、私にとって最も偉大な教師でした。最も偉大な支援者は、近しい友人や仲間たちです。こうしてメッセージを書く間にも、私のベッドのそばで応援してくれています。さようなら、世界。良いエネルギーを広めてください。次へつなげましょう。』
出来ることは限られています。完璧主義者の私は、『すべての人が救えない』、『世界平和ができない』ならば、最初からやりたくありません。しかし私はこの言葉を捻出した人間。
このサイトがブリタニー・メイナードの言った『良いエネルギー』になれるかどうかはわかりません。私の努力がこの世界にどれだけ影響を与えるかもわかりません。わかりませんが、それはこのサイトを信じて、作りこまない理由にはならない。これからも一生、このサイトの品質向上のために尽力します。私には『それができる』のですから。
いつになるかは未定ですが、次に書く重要な記事のテーマは『エネルギー』です。光と闇、善と悪、人間が出来ること、そして人間も含めた森羅万象。すでに5年以上温めていますが、公開は10年は先になるかもしれません。といってもこの記事の延長線上の話なので、大した内容ではありません。
インサイド・アウトの重要性を話す前に、まずは『アウトサイド(外部要因)の圧倒的な力』について知っておくべきでしょう。私はかつて、十数人の仲間をまとめるような『半リーダー』のような立ち位置にいました。リーダーは作らない方向でしたので、そのような言い回しになります(誰かがリーダーであれば、私はその集団にいない)。そこではよく、私が誕生会や集まりのイベントの『幹事』のような役回りをしていました。集団には多少の年齢差もあるので、私のような年齢で人を『区別』こそするが、『差別』はしない人間はまとめ役に適していました。
しかしあるとき、集団の一部の態度に違和感を感じるようになりました。恐らく、長らく自分たちが私から『もてなされる』ことによって、『何もしなくてもあいつがやってくれる』という風にふんぞり返ってしまったのです。仲間の一人はこう言いました。
しかし実際には私が中心となり、裏でその集まりの反省会を真剣にしている。『誕生者が盛り上げるようじゃだめだ』とか、『マンネリ化してきたから店を変えよう』とか、そういうことを真剣に考えている人間がいるのです。しかし彼らは気づくことが出来ない。なぜなら、『アウトサイド・インでありモチベーション2.0の他燃型人間』になってしまったからです。
それがわかるあるワンシーンがあります。私の代わりに違う人に幹事をやってもらったときのことです。彼はこう言いましたね。
その時彼らに、主体性はなかったのです。彼らは仲間というより、『金を払ってんだからもてなせ』とでも言わんばかりのお客様。貢献すればするほどそこにつけ込み、図体がでかくなる。こういうことは、どこかの若いカップル等に目を向けても起きている現象でしょう。あるいは、ディズニーランドに似ています。あそこではキャスト(従業員)がゲスト(客)を徹底的にもてなします。だからこそゲストは、あの夢の王国で王子やお姫様になったような気分に浸れる。しかし実際には王子やお姫様ではない。ただキャストが一流の接客(もてなし)をしているだけなのです。
私は良かれと思い、彼らとより良い思い出を作れるように、『貢献』してきたつもりです。しかしその貢献も虚しく、ある時その集団のある人間に、こう言われました。
…私は泣きましたね。父親が死んだ時以来に。決して涙を流さないと決めている私が、こみあげて来る涙を止めることはできませんでした。それくらい私はその仲間たちに家族以上の絆を求めていた。実の家族が宗教問題で不和があったこともあって、彼らのことを私はとても大切にしていた。だからこそ『貢献』を貢献と思わず、尽くすことが出来たのです。しかしその結果がその不当な評価でした。彼は、私が好きで人を盛り上げていると思い込んでしまい、自分はその私の性格をある種、利用していたとでも言うかのように、そう言い捨てたのです。
事実彼は自分の彼女に対し、『こいつ盛り上げるのが好きなんだよ』と私を紹介した。
彼は私の見たことがない涙を見てさすがにまずいと思い、謝罪しました。そして、たとえ私が自分を特別だと思っているのだとしても、『アファメーション』一つ熟考するだけで、それは別に悪くもなんともない。そういう話をすると、『自分が浅はかだった』と言いました。しかし、真剣には受け入れることはできなかったでしょう。(もちろんあれから10年。今の彼はきっと成長しているはずです。)
『自分なら出来る!』と自分を鼓舞し、奮起させ、言い聞かせることで、困難な試練に敢然と立ち向かっていくことが出来る。一種の自己暗示である。イチローや本田圭佑、松岡修造等、最前線で活躍する人は皆このアファメーションを自分のものにしている。
私はこういうことをいくつも経験し、『人が人にできること』を熟考してきました。
もちろん、私自身が説得力がない生き方をしていたことも大きく影響しています。彼らだけが悪いのではない。それは言っておきます。しかしこういうことがあって私はとても居心地が悪かったのが事実。また、このようにして自分の人格レベルを引き上げることが必要だと悟ったことは、このサイト作りの動機の一つになっています。そして彼らとの思い出は、かけがえのない思い出です。
マイケル・ジャクソン、ビリー・ジョエル、ボブ・ディラン、ティナ・ターナー、ダイアナ・ロス、シンディ・ローパー、スティービー・ワンダー等々といったトップアーティストが歌った『U.S.A. For Africa – We Are the World』。そのアーティストの中にはライオネル・リッチーもいました。
このライオネル・リッチーは、子供がいなかった。だから養子を迎えた。それがニコール・リッチーでした。しかし彼女は悪友、パリス・ヒルトンと共に、やりたい放題の毎日を送りました。何をしても父親、ライオネルが許し、あるいは金で解決したのです。
ある日ニコールは、未成年なのにクラブで酒とドラッグをやり、男の頭をビンで殴った。警察沙汰になりましたが、その時もライオネルは、金で解決したのです。その後ニコールは、見るも無残に激ヤセした姿をパパラッチに写真を撮られ、こう書かれました。
『ニコール、君がしたいのはダイエット?それともドラッグ?』
彼女がこうなってしまった要因は、どこにあったのでしょうか。『愛情がある』、『お金がある』、『言ってあげられる助言がある、経験値がある』。しかし、『ある』ということが、常として相手の幸福へとつながるというわけではないことを、忘れてはならないのです。『在りかた』、『与え方』をよく見極めなければ、時に『ある』ことは、逆効果になってしまうこともある。そして、『ある』だけではなく、挫折し、叱られ、制裁を受けて初めて、幸せになれる権利を手に入れることができるのだということを、人は、忘れてはいけません。
『ある』からといって、与えてはいけないことがあるのです。
彼女はもうすぐ40歳。これは彼女がまだ若い時のお話です。
人は本当に『アウトサイド(外部要因)』にばかり目を向けます。ある日私は『ワンピース』の『STRONG WORDS』について記事を書いていました。するとこういう書き込みがありました。
そしてまたある日私は、ブッダに関する記事を書いていました。するとこういう書き込みがありました。
それらの記事の間隔はせいぜい半年ほどです。しかし、人々(というより一部の人)はワンピースの記事を真面目に書いている私を『中二病』だと評価し、ブッダの記事を真面目に書いている私を『先生』のように高く評価しました。
思春期に特徴的な、過剰な自意識やそれに基づくふるまいを揶揄する俗語。例えば、不自然に大人びた言動や、自分が特別な存在であるという根拠のない思い込み。
人は本当に『アウトサイド(外部要因)』にばかり目を向けます。それは(上)の冒頭でも少し言いましたが、私も身に染みて理解するところです。『最近、以前の評価よりも低い評価をつけられているという実感をひしひしと感じます』と書きましたよね。それは本当のことです。その人らの名誉のためにもちろん特定されないように話しますが、私は『彼ら』のために、長い間『あること』をし続けました。この友人らの例と同じですね。『貢献』したのです。
それはこの記事に書いたことと関係しているのですが、それはなかなかできることではない。『彼ら』は私のことを最初、丁重に扱いました。しかしどうやらその扱いは、『私が彼らに対して貢献しているから』という『アウトサイド(外部要因)』と、『私が社長だから(お金を持っているはずだから)』という『アウトサイド(外部要因)』があったからだということに、最近気づいてしまいました。最初の方はわざわざ私のところへ足を運んでお礼を言っていたのに、いつの間にか何も言わなくなりました。つまり『当たり前』だと思い始めてしまったのです。まるで、
と言った旧友、そして、
というその現場にあった人間の実態と全く同じものが、最近の私の目の前に繰り広げられているのです。恐らく『彼ら』は、私が孫正義や稲盛和夫、柳井正や三木谷浩史といった人物であればそうはしなかったでしょう。彼らはまさに、私の『アウトサイド(外部要因)』に惹かれ、そしてそれがなくなった『と実感する』やいなや、私への評価を落としていったのです。
『影響力の武器』にはこうあります。
間違いなく、人間社会は返報性のルールから非常に大きな利益を得ています。そこで、人間社会は人々がこのルールを順守するように教育しようとします。私たち一人ひとりが、このルールに従って行動するように教えられますし、このルールを守らない者に対して加えられる社会的制裁や嘲笑については誰もが知っています。他人から取るだけ取って、そのお返しをしようとしない人々に対しては多くの人が嫌悪の念を感じますから、私たちは、他人から『たかり屋』とか『恩知らず』とか『借金倒し』と呼ばれないように一生懸命努力します。
私は『38の黄金律』を書いた人間です。マキャベリの言葉も覚えていました。そしてこの『返報性のルール』も知っていました。しかし実際には知っていませんでした。この返報性のルールの実力を。
本にはこうもあります。
返報性のルールの威力
返報性が、他者から承諾を得る手段としてこれほど効果的に使われる理由の一つは、その威力にあります。このルールには恐ろしいほどの力があり、相手に借りがあるという気持ちがなければまず断るような要請でさえ受け入れさせてしまうのです。
そして人を信じたいあまり、人間を過信してしまっていました。美輪明宏は言いました。
私が『彼ら』を信用したり期待したりしなければ、こういう風に傷つくことはなかった。(上)の冒頭に書いた柳井正の言葉を思い出してみましょう。
『エゴチズムの真の害悪は、抑制されない個人的虚栄心が高進すると、その本人が自分自身の為にこしらえた賛辞を信じ込むようになる。そして自分自身と虚栄心の中にのめり込んで、他人の感情への感受性を失ってしまう。常識も客観性も失われる。そして意思決定の過程を脅かす厄介者となる』
私は『自分自身のためにこしらえた賛辞』を信じ込んでしまっていたのです。彼らはただ、私が貢献したから、返報性のルールのしたがって、私に対して丁重に扱うしかなかった。しかし実際には彼らは、私がどのくらい丁重に扱うべき人間なのかということをアウトサイド(外部要因)で判断するしかなく、そしてそれがなくなったと思ったから、私への評価を『本来の位置』にまで落としていったのです。私は別に、最初から彼らに等身大の自分を評価してもらっていたわけではなかったのです。
私はこの経験をしたとき、兼ねてから注目していた『30代に突入すると引退したり、番組を降りる女性タレント』のことが頭に浮かびました。彼女らは『望んでそうした』のでしょうか。それとも『そうするしかなかった』のでしょうか。その理由は一体なぜなのでしょうか。
オードリー・ヘプバーンはこう言いましたが、
実際にはアガサ・クリスティの言う皮肉が世を支配しているでしょう。
ヘプバーンの思慮深い言葉を真に受けることができる人は、そう多くはいないのが現実なのです。
あまりにも愕然としたのは、私がこのサイトのプロフィール動画にもしている、自分の半生をまとめた動画を作成したときのことです。私がああいう風に自分のプライベートを公にすることはほぼなく、旧友からすればその動画で10年ぶりに私を見るわけで、家族にしろ、熱い心を持った読者にしろ、みんなその動画を楽しんでくれ、中には感動してくれる人もいました。子供時代から私を知る人の中には手紙をくれる人もいましたよ。
親を含めたら私の知り合いは100人、学生時代等の顔見知りを入れるなら500人はいます。もちろん考え方が違えばもう二度と会うことはない人もいるでしょうが、いずれみんなこの世を去ることを考えると、同じ時代に生まれ、少しでも同じ時間を過ごし、名前と顔を知っているという事実は、大切なもの。私のサイトやこうした動画は、そういう人たちがいつか気になって私を検索したときに、何かを感じてくれればいい。そういうつもりでも作ったわけです。
もちろんサイトを通して私を知った人に見てもらっていい。そのために公開しているわけですから。知らない人や興味がない人向けには最初から作っていません。Inquiryとセットで見れば、私が何を考えて、どんな人生を生きて、どう死のうとしているかが伝わりますからね。その中で、少しでも私の生き方や考え方、あるいは私が導き出した『良い性質』。それらを通して伝わればいい。そういうつもりでも作ったわけです。
youtubeで公開するので、まずはチャンネルを作らなければいけません。しかしそんなことは簡単ですから、ササっと登録を済ませ、そして動画を1つ(+おまけ)を作ったわけです。ここまではいいですよね。しかし、付き合いが長く、私から長い間『貢献』されてきたはずの『彼ら』の中には、なんとその私の動画を『見ない』という選択肢を取る人がいて、その理由を聞くと、
…悪い夢でも見ているのかと思いましたね。それまで私は『彼ら』に自分のビジネスを押し付けたことも、誕生日プレゼントを求めたことも一度もありません。むしろ毎回会うたびに『貢献』していたのです。それなのに『彼ら』は、私がたった一度だけ作った『半生をまとめた動画』、つまり、もうそのような動画を出すことはないのに、私がyoutubeのチャンネルを作り、動画を出したということだけを短絡的に解釈し、私が流行に乗って安易にyoutuberになるのだと勘違いし、そして心で、
この動画を誰が見るんだろう(どれくらい再生回数が取れると思っているんだろう)
とでも言うかのように、裏で私を見下し、私の今まで生きてきた人生(経験、友人、家族をふくめたすべて)をぞんざいに扱い、その動画を見なかったのです。あの手の動画をそんな風に解釈するなんて、『侮辱』としか言いようがありませんよね。ちなみに私が『彼ら』に動画の存在を教えたときの言葉はこうですよ。
この言葉のどこに『youtuber』の片鱗があるのでしょうか。もちろん私の動画は素人が作った動画であり、プロから見たら視聴者目線が足りないと思うところはたくさんあるでしょう。たしかにあの動画はほぼ『私の好きなもの』で固めたもの。洋服、言葉、ゲーム、ダンス、知らない人は何のことだかわからない、自分勝手な動画です。私を全く知らない人が見るのは苦痛でしょう。私もそういう人向けに動画を作っていませんから。そういう人だってそこは遠慮して、途中で見るのをやめるでしょうしね。
しかし、こんなことを言うつもりはありませんでしたが、あのイラスト一つにかかる時間だけでも1~3時間。スピード重視で描いたとは言え、あの絵はまだ家に100枚以上あります。世界遺産の写真をすべて撮るためには交通費宿泊費込み二人分出して150万円。あれだけの本を読むのに10年。ダイエットとトレーニングで体を作るのにかかった時間は実に20年かかっています。
誰にも習わずにあれだけの絵が描けたら十分ですよ。誰にも習わずにあれだけ踊れたら十分だし、あれだけの写真を撮れて、あれだけ体を鍛えられれば十分ですよ。そんな客観視ぐらいできるんですよ。もし私がその一つ一つの分野で本気を出し、誰か一流の人に習って習得しようと思ったらどうなると思っているんでしょうかね!まったく!(まあ人の言うことは聞きたくないけど)
それに何と言っても幼少期からの写真じゃないですか。人間関係がある間柄なら、それに少しでも触れるのは当然ですよね。しかもその人はその数年前、
と言ってきた人ですよ。そういう風に『私に興味がある』というそぶりを見せていた人間が、それですよ。一体その人は私に何を求めていたんでしょうかね。私は『彼ら』がその500人の中に含まれていると思っていたんですけどねえ。私を少しでも知っている人があの動画をそういう風に見る。それは私という人間そのものへの否定に等しいですよ。私の半生と、好きなことのすべてを詰めたんですからね。私がもし逆の立場だったら一度くらいは必ず見ますから。
たしかに、多くの人は『オートマ車』がいい。やはりオートマ車の方が圧倒的に需要があり、値段も高い。人々は面倒なマニュアル車ではなく、楽なオートマ車に乗りたい。ですから、複雑なマニュアル車であろうとする私が敬遠されるのは、ある種仕方ないことではあります。
表面では敬う態度で、実際にはかかわりを持たないようにすること。
しかしまさか私が『出来損ないのyoutuber』扱いされているとは思いませんでした。まさかそこまで価値を低く評価しているとは『彼ら』の表層だけ見ていては気づきません。私はもっと『彼ら』が思慮深い人たちだと思っていました。しかし私はその経験で『人間』を思い出しましたね。
そうだった。人間って、そういう生き物だった。ステータスがすべてだったか。また過信してしまっていたな。
彼らはきっと私が宮崎駿や松本人志、ジョニー・デップや、パブロ・ピカソといった人物であればそうは考えなかったでしょう。彼らは最初、私の『アウトサイド(外部要因)』に惹かれ、そしてそれがなくなった『と実感する』やいなや、私への評価を落としていったのです。
この人はもう、落ち目かな(この人の将来性はないかな)。
実際に『将来性』というキーワードを言った人がいました。つまり、上を見上げて『すごい!』と言っていた人たちが、あまり羽振りを良くしなくなった私を見て(将来性はあるのか)と『値踏み』するようになったということですね。
実際に『彼ら』の中には、私が『社長』『お洒落をしている』『女性から人気があった』というだけで近づいてきた人がいて、私はそういう奴は嫌いなのですが、『飲みに行きたい』などと言ったので仕方なく一度だけ行った時、こういう会話がありました。
こうやって直接言ったって駄目なんですよ。もう、骨の髄にまで『アウトサイド(外部要因)依存』が染み付いているんだなということがわかった瞬間でしたね。
シビアな第三者の考え方を知れて、とても勉強になりました。しかし『彼ら』がその『第三者』だとは思わなかった。そもそも、youtuberになるんだったらもっと世間(youtube視聴者のニーズ)にこたえられるような動画を作らないといけません。例えば動画内にある『USAダンス』のように、大勢の人がわかるようなものを取り入れれば、大勢の人に訴求できます。『流行しました』からねあれは。
しかし私はそれを無視して、身内にしかわからないダンスやゲームネタを放り込んでますから、それを考えるだけでもあの動画が大勢の人向けでないことがわかりますよね。また、私はその動画を作るとき、多少人に楽しんでもらうことも意識はしましたが、基本的には自分自身のために動画を作ったということは、『高評価、低評価、コメント』の部分を閉鎖しているところからも判断が出来るはずです。
大体youtubeを見るのは20代以下で、10代も多い。私も多くの炎上したyoutuberを見てきて、そのコメントや反応があまりにも『流されて』やっているものが多く見受けられたので、
そんな考え方の人間に評価などされる筋合いはない
ということで、それを閉鎖したわけです。本音系有名youtuberも、
とブラックジョーク的に言いますが、彼周りの動画をたくさん見ていると、その言葉に本音が混じっていることがわかります。そもそも、元々私はyoutubeが存在する前から生きている人間ですからね。なぜ私が『youtubeで人々に高評価されるもの』を作らないといけないのでしょうか。私はそんな些末なことに支配されて生きていくような不自由な人間ではない。迎合するつもりなんてないですよ。
自分の考えを曲げてでも、他人の気に入るように調子を合わせること。
もしyoutuber以外はyoutubeで動画を出してはいけないのだとしても、逆に私は動画を出しますね。全部逆らってやりますよ。元々真面目に学校に行っていた人間じゃないのに、急にここで人と同じ歩調になるわけないでしょう。だからこういう事例を受け、逆にyoutuberになってやろうと思ったのですが、そうなると『彼ら』がその動機になってしまうので、それは嫌ですからね。『彼ら』のために生きてるんじゃないんですよ。
トップyoutuberであるヒカキンだって最初は馬鹿にされながらやってきたわけですから。人とは違う道を歩いた。ただヒカキンの場合、
という本音を数年前から言っていますが、はじめしゃちょー、フィッシャーズといったトップyoutuberたちを巻き込んで、動画アップの頻度を落とそうとしていたのですが、結局は皆毎日動画をアップしてしまっているので、その不安はまだ解消されないままのようです。それが大金を稼いだ人間としての自己防衛、つまり『必死に頑張っているアピール』なのか、本当に弱気にそう言っているのかはわかりませんが、もし本当に弱気なのだとしたら、私は彼のような『不自由』な生活には憧れません。もっと堂々として生きていきたいですからね。
ちなみに私はヒカキンを含めたyoutuberたちの存在を認めています。特に信念を持って、お金に支配されずにやっている人間が好きですね。彼らの中にはまだ『偉人』の域に達する人はいませんが、影響力を持った人間だということは間違いありません。影響力とお金があれば偉人なら、マフィアも偉人になりますからね。しかし、いずれ彼らから偉人が出る可能性は十分あるでしょう。
とにかく、youtuberになるならコメント欄等の部分は閉鎖しない方がいいのです。低評価も交えつつ、自分の動画クオリティを上げていく。そしてコメント欄があった方が盛り上がるから『再生回数』は伸びるのです。
下の動画は人気youtuber『ワタナベマホト』の作った、このあたりの問題を表現した短編物語です。youtuberになるなら低評価を気にせず、人気を集められるように努力し、ニッチでも専門分野に特化してでもいいから、とにかくニーズを見つけるか、『カジサック』のようにもともとある人気や集客力を利用する、あるいは有名youtuberとコラボし、存在を知ってもらう等の考え方をし、戦略的に進めなければいけません。しかも戦略的にやったからといって必ずしも成功するとは限りません。
女性の場合は肌を露出したり、容姿がいい等の要素があれば、それだけの理由である程度の人気を得ることができます。その代わり、コメント欄は荒れ放題になりますが。動画タイトルに『女性の』をつけ、胸がある人はそれを露出する。彼女らは人気を得たいが、その人気が禍々しい人間の本性を煽っているものだということを見て見ぬふりしなければならないジレンマを抱えています。まさにこれもアウトサイド(外部要因)のパワーですね。ちなみに週刊誌もグラビア次第で売り上げが変わります。
あるいは犬猫とともに『癒し』を提供したり、『釣りよかでしょう』や『木下ゆうか』のように、人一倍際立つ個性を武器にし、あるいはただただ純粋に自分たちの好きなことと本気で向き合って、そこで共有していく。元々フィッシャーズもそういうことから始まったわけですからね。彼らの名前の由来も『近所で川遊びをしていた』ということですから。『ディスカバリーチャンネル』のように専門分野に特化し、それが群を抜いていれば道を切り開くことはある程度できます。例えば芸人のヒロシさんが運営する『ヒロシちゃんねる』も、長い間キャンプを好きでやってきて、それが実った例の一つです。
TBS系『リンカーン』でダウンタウンやさまぁ~ず等がTwitterを始めましたが、浜田雅功は辞めてしまい、松本人志は未だに続けています。2019年現時点で、フォロワー数1位が有吉弘行の700万人。2位が松本人志の620万人です。私はこの違いは、ダウンタウンの『専門家』が松本人志だからだと推測します。ダウンタウンのエネルギー源は松本人志で、浜ちゃんはそれを『拡散』する役割。松本人志の笑いを熟知する彼がいることで松本人志の笑いは大勢の人に拡散されますが、やはり『拡声器』の役割よりは、『エネルギー源』の方に着目したい。
実際、浜ちゃんのツイートは番組の告知等、淡々としたものでしたからね。私も実験してわかっていますが、人はそのような事務的な意見(他のどこででも見れるような意見)には興味がありません。やはり、何かに特化した専門知識を出してくれるか、極めて知名度があり、流行の渦の渦中にあり、動向を抑えておきたいという人じゃなければ、見ようと思いません。
例えば米津玄師はその典型例で、短期間でヒカキンの半分のチャンネル登録者を得ました。また、彼がテレビ初出演をしたのが『紅白歌合戦』だったということも関係しています。人気があったのにその実態がわからなかったということが人々の好奇心を煽ったということですね。この世界には、彼らのように頭一つ抜け出すための『法則』があるのです。
逆にある一定のラインを超えた後は、誰にでもできる何でもないつぶやきに対し、何千何万という人の『いいね!』がつく。以前、『嘘の情報』なのに数万件もシェアされてしまった、という事例があります。
そんなことはSNSを使う世間の人々2、3年を真剣に観ていれば誰もが分かることです。そしてもちろん『先行者利益』性が強い中、それをしてもヒカキン等のトップyoutuberを超えることは難しく、本気でやるなら世界を股にかける『PPAP』的な方向で、世界的に有名になるしかないのです。しかもあのように一発屋ではなく、永続的に世界にウケ続けなければいけません。
また私はもう一つyoutubeにチャンネルを持っていますが、それは試験的に作ったものです。どのようにすればチャンネル登録者が増えるかということを少し実験したのですが、先ほど言った『ニッチ』がキーワードで、例えばゲーム実況をするなら、『現在流行中』のゲーム実況をすると、人気ゲーム実況者の動画に埋もれて、人が来ません。人が来ないと魅力を伝えられず、登録者は増えません。
ですから、『少し古く、かつ人気があるゲーム』をやるのです。すると、それを教えたい人、あるいは懐かしむ人、または流行ゲームだらけでウンザリしている人等がやってきます。そういう考え方で戦略的にやっていけば、雪だるま式に少しずつ登録者を増やすことができます。しかし私は少しそれをやってわかりましたが、私は別にyoutuberになりたいわけじゃないので、それがわかったところで特に意味はありません。
ですから、今はただの『記録』として使っています。最初から本気でゲーム実況者になろうとしたわけではありませんからね。ゲームをプロ級に究めるつもりもありません。今まで通りただただ自分が楽しむ道を選択しました。私はゲームをストレスフリーでやりたいので。
本田翼がゲーム実況を始めるやいなや、既存の実況者たちを簡単に上回り、一気にトップ実況者の地位まで上り詰めました。トップyoutuberが100万再生行けばいいとされている中、たった2本の動画で合わせて600万再生を超えていますからね。
また、元HKT48の宮脇咲良等もすぐに人気youtuber、ゲーム実況者になりました。彼女らの超短期間での大活躍によって、古株のゲーム実況者は辞めましたからね。『それが理由ではない』とは言っていますが、時期的に間違いなくそうで、どちらにせよきっかけにはなっているでしょう。そりゃあ、今まで積み重ねてきたことをいきなり横から入ってきた新人にごぼう抜きされ、あっという間に上の地位につかれれば、やる気はなくなりますからね。
このように、この世界も『人気』が大きく影響します。しかも10~30代の人々の人気が。こういうことを受け、何も感じない人ならそれでもいいのですが、そうして人気が影響してくる以上、『人気商売』を本気でしている人の『下』につくことになります。それ以下の立ち位置で満足するなら別にいいのですが、私は嫌ですからね。別に私はゲーマーじゃないですし、他にやることがありますので。
下記の記事を見てもわかるように、私は最初からいろいろな経験を『記録』する習慣があります。
あの動画も見ればわかるように『記録』ですよね。それは、私が20代前半までに『記録』できるような経験をしてこなかったからということが関係しています。ある日、
このまま何も残せずに死ぬのは嫌だな…
と思い、なんでも記録するようになったのです。ですから、そのもう一つのチャンネルもあくまで『自分がどんなゲームをしたか』ということを記録するだけのチャンネル。最初から私は一言も、いつ何時であっても、
なんて言っていないのです。バスケットボールやダンスやボクシングや筋トレやイラストや写真は好きだけど、プロになるなんて一言も言ってないんですよ。全部独学でいいし、自分の好きなようにやりたい。会社だって自分で興した。
『プロを目指すことは容易ではないし、プロを保持するための努力も並大抵ではない。』
松下幸之助がこう言っているように、だとしたら私は自分の持っている趣味で、何一つプロになりたいなんて思いませんよ。全部自分の好きなようにやりたいのでね。
評価、コメント欄等も、だから閉鎖しているのです。それなのに私は、そのようなyoutube事情を全く知らない、無戦略でいきなりyoutuberになろうとしている勘違いした人だと思われた。『彼ら』は一体長い間、私の話の何を聞いていたのでしょうか。『彼ら』とは真面目な話をしてきたつもりですけどね。常に上昇志向を燃やして話をしていました。どうしてあのような話をする私が、そのような安易な行動を取ったと勝手に解釈してしまったのか。とても残念でしたね。ここまでうわべだけの関係だったとは。
というか、もしたとえ私がyoutuberになりたがっていたとしても、人間関係が繋がっている私のその動画をなぜ見ることが出来なかったのでしょうか。応援する選択肢もありますよね。そうなるともう、私と『彼ら』との人間関係なんてほぼゼロに等しいですよね。そして私がその経験をしたその日、頭に浮かんだのはこうです。
俺はこの人たちにまた『貢献』していくのか…
『彼ら』の中の一部の女性は、私にラブレターまでくれたんですけどね。それもアウトサイド(外部要因)があったからだと思うと、残念ですね。そしてその後すぐに、『この人たちがわかりやすい結果を出した時、その時の私をまたヨイショし直す彼らの姿』が見えました。(ここで関係を切ることは逃げることになるだろうか。楽になるからそうしたいと思うのだろうか)とかいろいろ考えましたが、考えた結果そうではないことがわかり、私はそれきり『彼ら』との縁を切ることにしましたね。
高級時計、高級車、高級ブランドを見せつけて『自分は成功者である』というアピールをすること。
私はこういう人たちの期待に応えるために生きてるわけじゃないですから。この人たちが喜ぶ動画なんて作るつもりも一切ないし、この人たちに認められるために躍起になる姿を俯瞰で見たとき、馬鹿の一言ですよ。
そういう片鱗はたしかに見られました。以前私が世界遺産のフォトカードを作って『彼ら』に渡すと、『彼ら』の中にはそれを持って帰らない人が現れた。そしてそうじゃなくて『貢献』を少し豪華にしたときは、派手な女性が私のそばにやってきて、私を『狙い』はじめました。
それがわかったベテランのもう一人の女性は、私にばれないように、その女性を睨み、まるで『私の獲物を横取りするな』、『私の好きな人を誘惑して足を引っ張るな』という威圧をかけていました。私は当然そのすべてを見ていました。私は鈍感じゃないですよ。
これは間違いなく『彼ら』の年齢が若く、『彼ら』が喜ぶアウトサイド(外部要因)というものが『わかりやすいもの』であるということがわかる事例です。私の同級生の知人も、『世界遺産に一緒に行かないか?』と言っても、誰一人賛同しませんでしたからね。それまで何年も大磯ロングビーチや、白浜、温泉旅行といった『わかりやすい場所』には賛同し続けたのに、『地味だと思った世界遺産旅行』は、彼らの目には魅力的ではなかったのです。
[琉球王国の城及び関連遺産群 勝連城跡]
ただだからといって私はそれ以上同じことを繰り返し続けるのはごめんでしたね。彼らと別行動になろうとも、同じ場所で停滞するくらいなら前に進むことを選択したい。そう判断した25歳のあの時の自分は、今考えても間違っていませんよ。彼らは今後年齢を重ね、『世界遺産』というキーワードを聞くたびに嫌でも私を思い出すでしょう。彼らが世界遺産に行くということがどういうことかを理解するにはまだまだ時間がかかりそうです。
その後その知人の中には、『楽しかったはずの海』に行き、『前回よりつまらなかった』と言っていました。それは当然です。人が経験から得られる効用というのは、常に最高のものではありません。ただ海に行けばそれでいいというものではない。それを理解しないと、その海自体が面白いものだという錯覚に陥ります。40歳で同じ遊び方をしようとしましょう。20歳の時と同じように遊べるでしょうか。遊べないなら、『潮時』というものがあるということです。
私は『彼ら』のその動画に対する不当評価を『残念だ』と告げ、その人は軽く謝罪し、その後動画を見ると言いましたが、そのあとに見てもらうほどのものではありませんからね。映画を作ったわけじゃないんだ。改めて見直すようなものでもない。ただ、私と人間関係が繋がっている人間なら一度は目を通すべき動画だということは確かですよ。
私は前に進むことにしました。私は『彼ら』との長い人間関係の中で、多くのことを学びました。もっとも、『彼ら』の中では『浅い』人間関係だったんですけどね。
ちなみに評価等を閉鎖している動画は、一応押せば、こっち側でその数を見ることができます。公開から半年経った今、『高評価5:低評価1』がついています。押しても反映されないのにわざわざ高評価を押してくれている人がいるのです。必ずしもこの手の動画を高評価してもらう必要はありません。しかし、低評価される筋合いもないし、見る前に妙な勘違いをされる筋合いもないですね。
というか、私を直接知らないであろう人が高評価をつけてくれているのに、私と何度も会ったことがある人がああいう扱いをするっていうのは、あまりにもお粗末な話ですね。まさに愕然とした話でしたね。まあこれ以上詳細を言うと特定されてしまうので言いませんが、確かに『彼ら』というのは、『そういう類』の職業の人でした。(水商売の人ではありません。ちょっと近い気もするけど)。
恐らくこれは『初期設定』の問題でしょう。この方たちは私のサイトから記事を見て興味を持ち、いわば『ゼロ』の状態から臨んだため、そこにある種の意外性があった(中には、感動を覚えてくれた人もいる)。しかし『彼ら』は私との出会いが『アウトサイド(外部要因)全開の時期』だったため、『ラチェット効果』が働き、あの動画に何の感動もなかった。
例えば、人は一度上がった生活水準を忘れられない。収入が減った後も高い生活水準を落とせない。つまり、人は一度味をしめたら、その『美味しい味』が忘れられず、それ以下の味を『不味い』と感じてしまう。
まさに『エサを与えないでください』ですね(もしあなたのエサが高級なものだったら、うちのエサを食べなくなってしまうでしょ!)。『彼ら』が喜ぶ動画は、トップyoutuberのようなエンターテインメント性の高い動画か、はたまた有名人を巻き込んだ動画か、あるいはお金のニオイがするような、『成功者の動画』だったのでしょう。
いや、ちょっと私の『テストステロン(最後の記事で説明があります)』が出てしまいましたね。まあとても残念な例でしたが、以下の2つの言葉を載せて自分のための経験としておきましょう。
松本人志は収録で観客に、流行的な話をされ、それを知らなかったとき、
と言われ、こう言いました。
あの手の『人の人生をまとめた動画』に対して文句があるなら、俺に直接言って来いよ。…なーんて物騒なことは言うつもりはありませんが、しかし、低評価がこんなに少ないことはありがたいことですね。多くの人は本当に良い人です。人はどうしても『嫌なこと』だけをピックアップしてその記憶に支配されがちですからね。多くの人に高評価されていることを喜ぶべきですね。きっと閉鎖を解除したらもっと押してくれる人もいるかもしれないわけですから。
『プロスペクト理論』でノーベル経済学賞を取ったダニエル・カーネマンの著書、『ファスト&スロー』にはこうあります。
『君は、破綻した結婚のことを、記憶する自己の視点からだけ見ているね。でも、離婚は長い交響曲の最後の雑音のようなもの。最後が悪かったからといって、全部が悪かったことにはならないよ。』
ちなみにそのワンピースの記事の時にコメントされたとき、『直接言え、名前も出せ』と言って私のメアドを載せたら、その後一切音沙汰はありませんでした。アクセス解析でその人の履歴が見れるのですが、コメントを見たと思われる日からのアクセスすら残っていませんでしたね。全く。私が善人か何かだと思ってるんですかね。
私のその『悪い部分の塵一つも許さない』完璧主義的な発想は、ある場面では面倒ですが、ある場面では役に立ちます。例えばこのようなサイト作りにおいても、私のこの考え方があるからこそ、何度も何度も何度も手直しをし、よりクオリティが高くなるように磨き上げるわけです。そうやってこのサイトは品質向上してきたわけですからね。
また私のその強気な態度ですが、実はとても注目に値する態度だということが、『ウェブはバカと暇人のもの』を読めばわかります。
バカの意見は無視してOK
炎上といえば、ネット世論へのスルー力を身につけた企業がある。 TOKYO FMと吉本興業だ。 2008年5月、お笑いコンビ、ダウンタウンの松本人志が当時多数報道されていた『硫化水素自殺』に対してラジオ番組で発言した内容をめぐる一連の騒動で、それは明らかになった。 松本はラジオで、『アホがたくさん死んでくれてオレはええねんけど、これ以上増やさん為に、もう(報道は)やらんでええねん』と発言。ラジオで共演した放送作家・高須光聖氏の『マスコミが自殺の手助けしてるようなもんだよな』という発言に対し、松本が『そう、くだらないヒントを与えなくてええねん』と答えたり、『もうええねん、もう一切そのニュースなし』と発言したことからもわかるように、硫化水素自殺をめぐるマスコミ報道への批判が会話の主題だった。
だが、前後の文脈を捕らえず、『アホがたくさん死んでくれてオレはええねんけど』 の部分だけがクローズアップされ、2ちゃんねるで『問題発言』との意見が出た。そして、松本と高須氏の会話がニコニコ動画で何度も再生された。 この騒動を、J-CASTニュースは『ネットで騒ぎになっている』とし、『松本人志が硫化水素自殺で『放言』『アホが死んだら別に俺はええねん』の見出しを付けて報じた。当件について、オンエアしたTOKYO FMはサンケイスポーツの取材に対し、『発言の一部だけを取り上げ、捻じ曲げられて報道されています。局には発言についての抗議はない。』とコメントした。
つまり、恣意的推論をして松本人志を悪人として扱い、ネットユーザーは彼を総叩きにしたのです。しかし、松本人志と吉本興業とTOKYOFMはこういう態度を取りました。
また、松本の所属事務所である吉本興業は、発言について、『硫化水素自殺について『死んだらアカン』という命の尊さを訴えている松本の意見表明だと思います。騒動報道についてはコメントすることはない』と答えた。さらに後日、ITmedia Newsは吉本興業による『社会に対する個人の意見の表明の域を出ないもので、問題発言とは捉えていない。ネット上の騒動についてコメントする予定はない』 『記事は、放送の一部を恣意的に切り取ったもの。ネット上の個人の無責任な発言をいたずらに龍賦する報道姿勢について、J-CASTに抗議した』というコメントを紹介。対応によっては、法的手段を検討することも報じた。これにより、この騒動はパタリとやんだ。
(中略) 常にネットの声に怯え、ネットの悪意のある声でさえも『貴重なお客様のご意見』、とする趨勢のなか、『バカの意見は無視してOK』『自分が正しいと思う信念があるのであれば、それを貫くことが大事』という前例を作っただけに、画期的な出来事だったと言えよう。
つまりこういうことです。
彼も相当な『マニュアル車』ですからね。伊集院光は、
と言いましたが、彼の笑いは『深読み』しなければ理解できないところがあります。事実彼はこう言っています。
ですから、真意が理解できない人は彼についてこれず、誤解してしまうことが多いですね。とにかく『自分が正しいと思う信念があるのであれば、それを貫くことが大事』という前例を作ったこの事例は、私のこの強気な態度にリンクする逸話となっています。
さて、話を戻しましょう。同じような事例はまだまだあります。私が関係していたある取引先は、売り上げが上がっているときは、まるで私を『リーダー』のように扱っていたのに、売り上げを落とすやいなや、私を見下しはじめ、『自分の傘下に入れる』ように画策してきました。またある人間たちは、私が権力者のそばにいて、その権力者だけに権力があると考えていたから、私が一人になったとき、あるいはその権力者が私の味方ではない『と思ったとき』、私に対する呼び方、態度をコロッと変えました。『ちゃん(さん)』付けだった呼び名が、呼び捨てになっていましたね。
また旧友の中には、私に敬語を使っていた人間で、『私よりも大きなお金と勢いを掴んだ』と思ったとたんに、私への態度を変えた人がいます。それまでは敬語を使い、食事をするときは私を上座に座らせ、常に機嫌を伺っていたのに、『そう思い込んだ』ことによって私を『まくろうと』してきたわけですね。当然、彼は私の上に相応しい人間ではないのでそこで縁が切れました。たとえ10年近く関係が続いても、アウトサイド(外部要因)だけで人間関係を決めてしまうような浅はかな人間に、私の友人はいませんからね。
それまで下の地位にいた人が、その地位に不満を持っていて、何らかのきっかけで下克上的なことをしようとすること。
つまりその人は、それまでの上下関係に納得がいってなかったということですね。しかし当然、私も彼が私の上には相応しくないと考えるので、ここで不和が生まれるということになります。この場合、どちらが人として上であるべきかは『力』か『金』か『人格』か、あるいはそのすべてで決める必要があります。いつの世もこうした主導権の奪い合いは行われます。
孔子、ソクラテス、ブッダ、キリストという人物も、『彼らよりも上に属する人』がいないから、彼らが有名なわけです。そういう人がいた場合、その人が有名になりますよね。私もきっとその人の言葉に注目します。しかし言うなれば彼らがトップ。ということは、彼らもまたこうした主導権争いをして、誰かの下に成り下がる発想を持たなかったわけです。たとえそれが表面上で激しく争われなくても、水面下では確実に行われているのです。
私が上に相応しい。
この場合の『上』は、人を見下しているからそう思うのではなく、『人を導けるのは私のこの考え方だ』というニュアンスがあるはずです。何にせよ、そういう主導権争いがあり、それを譲らなかった。そこには信念があり、確信があった等様々でしょうが、どちらにせよ自分よりも人格が劣った人を師匠とすることはありません。孔子が、弟子の宰予(さいよ)を師として仰ぐでしょうか。そういうことなのです。
昼寝ばかりしていた孔子の弟子。
『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうあります。
ブッダはその後の遍歴の人生で、父に会うために二度、青少年期を過ごした宮殿を訪れている。父は晩年、ダルマ、すなわち仏法に帰依し、息子の弟子となった。
ブッダの場合、自分の父親にさえ主導権を譲らなかったわけです。しかし私はこれが正当な評価だと考えます。兄弟や両親が自分の年上だからといって、必ずしも『先生』の名に相応しいとは限りません。親が犯罪者、DVをする、虐待をする、ギャンブルやアルコール中毒である、というケースがありますよね。その場合、彼は『先生』として相応しいでしょうか。そういうことなのです。
本来、『先』に『生』まれた者、という意味。先に生まれた者は、後に生まれる『後生』に対し、物を教える責任があるということですね。
そう考えたとき、『大金を掴んだから俺は人の上に立つ資格がある』と思うような人を、私が上と認めるわけがないでしょう(この後の『猛獣使いになるか飲み込まれるか』にて、映画を通して更に詳細を説明します)。
『全世界1500万部突破の名著が教える永遠の人間学』と言われ、全世界で3,000万部売り上げた由緒ある名著『7つの習慣』にはこうあります。
表面的な成功(才能などに対する社会的評価)に恵まれた人の中でも、こうした真の成功(優れた人格を持つこと)を達成していない人もいる。しかし、遅かれ早かれ、このことは、その人の持つ長期的な人間関係のすべてー仕事仲間、夫・妻、友人、大きな悩みを抱えている子供などーにおいて、現れてくるだろう。人格は、言葉よりもはるかに雄弁だからである。
24歳の時、知人の知り合いという女性に会った時、私は『自分が楽な服装』をしていました。そして次にその女性に会った時は、多少のイベントだったため、少し服装や髪型を『流行的』にしました。するとその女性は目を多少ですがハートにさせ、
と言いました。前回会った時は私は服装(アウトサイド)によって(勝手に)見下され、今回は服装(アウトサイド)によって(勝手に)ときめかれた。血気盛んなその年齢のその時、私がどう思ったかって?
よっし!この女と今日やれるぞ!
と思った?いや違う。私が思ったのはこうです。
人は本当に馬鹿だなあ…
私がその女性に気に入られ続けるために、その女性が好きな外見で居続けるわけがないでしょう。私はそんな不自由で、プライドのない人間じゃないですよ。
まあ、たまたまこうして生々しい私の身の回りの真実の出来事があったのでそれをお届けしましたが、アウトサイド(外部要因)で判断されるのは世の常ですからね。女性もそうですし。親が有名な人はその『二世』的な名誉に悩まされますし、アスリートの場合は、活躍している時は英雄扱いされますが、怪我でもなんでもとにかく不調なら、ボロクソに叩かれますからね。戦力外通告されたら選手生命自体が終わりますから。『アウトサイド(外部要因)』に注目されたり、『終わった人』扱いされるのはどこの世界に目を向けても同じです。
まあ、家族や友人だと思っているごく近い人間関係にさえアウトサイド(外部要因)で判断されるとは思っていませんでしたが。
下の言葉は、全てマキャベリの言葉です。
彼はチェーザレ・ボルジア等の君主を見て『君主論』を書き、あるいは冤罪で拷問に遭ったりしていますが、彼は人、つまり『民衆(群衆)』を一体どのように見ていたのでしょうか。韓非子の言うように、『人はそんなに高潔な存在ではない』という、ある種の冷たい目線を向けていたようにも見えます。しかし私も数少ない様々な色濃い経験から、彼らの気持ちがよくわかります。彼らの言いたいことは、痛いほどよくわかります。
松本人志のその件だって、最後は『法的手段』という圧力(外部要因)に屈したユーザーたちがいるわけですよね。人は本当にアウトサイド(外部要因)ばかりに目を向けるのです。もう見るからに、誰がどう見ても、アウトサイド(外部要因)に支配されて生きているとしか言いようがありません。
しかし、それが人の最高到達地点と認めていいのでしょうか。人は本当に、アウトサイド(外部要因)に支配されることでしか生きていくことが出来ない?
熱心な読者の方は、私がなぜ『恩師』への恩を忘れない理由が見えてきましたね。この世には色々な人がいて、家族や友人といったごく近い人物でさえエゴに支配され、あるいは真実を曲解し、不当評価するのが現実です。しかし、彼ら恩師たちだけは違った。アウトサイド(外部要因)などに支配されず、真実を正当に評価できる『神』のような人でしたよ。もちろん私は彼らを神様などと呼ぶつもりはなく、『模範的な人達』として、一生忘れません。
彼らのような存在をこの目で見たから、私はどんな人間を見ても、人間への可能性をあきらめないのかもしれません。
先ほども紹介した『東大、京大で一番読まれた本』として有名な、『プロスペクト理論』でノーベル経済学賞を取ったダニエル・カーネマンの著書、『ファスト&スロー』には、『人の脳の中のシステム』には2つの種類があるとしています。それが、『システム1』と『システム2』です。
自動的に高速で働き、努力はまったく不要か、必要であってもわずかである。また、自分のほうからコントロールしている感覚は一切ない。
複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。システム2の働きは、代理、選択、集中などの主観的経験と関連付けられることが多い。
簡単に説明しましょう。先ほど『週刊誌はグラビアで売り上げが変わる』と説明しましたよね。それは人々の『システム1』を煽ったからです。また、松本人志を攻撃した人々が『法的手段』という圧力を受け、サッと引きましたよね。それは人々の『システム1』が作動したからです。このように『システム1』とは、人々が思慮深く考えない状態で働いている、『脳のモード』です。コンビニをうろついている男性が雑誌を見て、
あっ、あのグラビアモデル、エロいな…
と考えたり、街を歩く女性が、
あっ、あの人格好いいな…
ととっさに考えることがありますよね。その人の内面性がどうだとかそういうことは一切考慮せず、パッと頭に思いつきます。そして、次のシーンではもうそれを忘れています。そのように、人の脳のモードというのはいつもは『省エネモード』でいて、そのせいで思慮の深さは浅い。その『深さ』のレベル別を言い表した言葉が、ここで言う『システム1』と『システム2』だと考えれば間違いありません。先ほどの説明は本の抜粋ですから、もう一度私が簡潔版にして説明しなおしましょう。
思慮浅い状態。子供は常に『システム1』が起動している。
思慮深い状態。子供はなかなか『システム2』を起動できない。
ようやく冒頭の絵を思い出す時が来ました。
さっきの脳の画像もいいのですが、この画像はこの『システム1,2』の仕組みを考える際にとてもイメージしやすい画像となります。もちろんこの画像で言う『OFF=システム1』、『ON=システム2』となります。それでは本からこの2つの脳のモードがどういう時に働き、何を行うかということを抜粋してみましょう。
システム1が自動的に行うことの例
どれも『簡単にできること』、『思慮深くなる必要がないこと』という共通点がありますね。努力はゼロか、ほんのわずかしかありません。
システム2が行うことの例
どれも『簡単にはできない』、『思慮深さが必要』という共通点がありますね。注意を払わなければならず、集中力が必要で、間違ってしまうと最悪の場合は死に至るようなケースもあるでしょう。例えば(上)に書いた以下のような事故ですね。
それではこのサイトにちりばめられているいくつかのポイントを、これに照らし合わせて考えてみましょう。この記事は、冒頭に『簡潔版の結論』が載っていましたよね。その理由は、ほとんどの人は『システム1』の省エネモードでいることがわかっているからです。『システム2』を自在に起動できる人はとても思慮深く、内省的です。しかしそういう人はこの世に2~3割ほどしかいないのです。 『パレートの法則』ですね。
世の中の大体のことが8:2(7:3とか)に分かれている、という法則。
パレートの法則の例
主に経済的なことで使われる法則ですが、しかし例えば『世の中の8割のお金は、2割の富裕層が所有している(大富豪、資産家、皇族等)』ということを考えたとき、だとしたら『できる人、できない人』や『思慮深い人、思慮浅い人』等にも大きく影響していて、大体のことがやはり8:2に分けて考えられるわけです。
先ほど言った私の言葉を、私が言った事例とともに思い出してみましょう。『人は本当にアウトサイド(外部要因)ばかりに目を向けるのです。もう見るからに、誰がどう見ても、アウトサイド(外部要因)に支配されて生きているとしか言いようがありません』と言いましたよね。それを私は、この『8割の人たち』のことを思い浮かべながら言いました。
それは、その思慮浅い人が『一生思慮浅い』というわけではなく、いずれ思慮深くなるか、あるいは状況次第でそうなる可能性が高いのですが、しかし、システム1の省エネモードで思慮浅く行動している人が、常として存在する人のほとんどを占めてしまうのです。例えば暑い日に(暑いなー)と思う人は大勢いますよね。『心頭滅却すれば火もまた涼し』と言う人の数は少ない。
であるからして、私はその『システム1』の省エネモードでいる大勢の人向けに対し、冒頭に『簡潔版の結論』を載せたのです。それは、私に対する興味も関係してきます。私がアインシュタインやニーチェ、エジソン、ビル・ゲイツであれば人々のモードは『システム2』の状態にギアアップされ、記事を読もうとしてくれるでしょうが、無名の私の記事を読むのに、わざわざ『システム2』を起動するのは面倒です。そういう理由もあったわけですね。
そして『マニュアル車』とか、『マニュアル車を乗りこなすことを求める』と言ったのは、『システム2を起動しなければこの記事は読めない』と言っていたわけです。自分のものにするためには本当にあの挙げた映画まで観なければいけませんからね。それができる人がどれだけいるかはわかりませんが、実際にこの記事をすべて読み、そこに出てくる偉人や著者たちの考え方、あるいは挙げられた参考映画を『私がうまく理解しているか、教材として使いこなしているか』を見極め、その妥当性を判断するためには『システム2』を起動しなければ不可能です。
(上)に書いた『ロウソクの問題』もこの『システム2』を起動しなければわかりませんね。またニーチェの言った『超人』も『システム2』を起動することが求められます。孔子が求めた法律のない世界、ソクラテスの問答法に答えるため、ブッダが言った『天上天下唯我独尊』を理解するため、イエスが言った『神の国は、実にあなたがたの間にある』という言葉の意味を理解するため、そのすべてはこの『システム2』を起動することが求められます。
『『地獄』と『極楽(天国)』の本当の意味とは』で書いた、
一つ一つの真理を理解していくことにより、心が豊かになり、思い悩みから解放されるわけです。これを『極楽』と表現しているのです。そして無知である人の心を『地獄』と言っているわけです。
これを見てもわかるように、だとしたら自分の心を極楽にするためにも、『システム2』を起動することが条件になります。知人が『ヴィレッジ』、『ブレイブ・ワン』、『ゴーン・ベイビー・ゴーン』、『アメリカン・ギャングスタ―』の映画を推薦した意図を理解できなかったのは『システム2』を起動できなかったからです。『アメリカン・ギャングスタ―』がただのギャング映画ではない、ということを理解するためにも、『システム2』を起動する必要があります。
また、『吃音症』の部下がいる私の心境も『システム2』を起動しなければわかりません。そして、『英国王のスピーチ』でジョージ6世の吃音症が、なぜ『一流の名医』に診てもらっても治らなかったのに、あのタイミングで治ったのか、そしてどうして吃音症になってしまったのか、ということを理解するためにも、ただ映画を眺めているだけではわからず、『システム2』を起動しなければわかりません。
そして、韓非子、マキャベリ、ナポレオンといった人物は、『民衆にそれを求めるのは間違っている』として、世の中の多くの人が『システム2』を自在に起動し、思慮深く生きることはできないと言いました。
そして勘の良い人はもうわかりまいたね。冒頭に書いた、
何でここまでして読まなきゃいけないのかなぁ、めんどくさいなぁ読むの
と思ったその瞬間的な発想こそが、ここで言う『システム1』の自動思考モードだったということが。このあたりのことについてはまた後で詳しく説明しましょう。
ちなみに『38の黄金律』には、人や企業の運命を変えるほどのずば抜けた叡智がありますが、記事の冒頭にも書いているように、それを発信している私に説得力がないということから、これらの黄金律の価値は低く見積もられています。それは人々が『システム1』で『私』を評価しているからです。
つまり、記事ではなく『私』を見てしまっているわけですね。ですからもし私がシェイクスピアやゲーテ、夏目漱石や芥川龍之介であれば、ただそれだけの理由で、もしこの記事に何の価値がなくても、人は(見よう)と思います。以前書いた『天才の仕組み』という記事は『400』以上の『いいね!』が集まり、
などとシェア先でコメントをしてもらっていましたが、正直『38の黄金律』や『真理=愛=神』と『イエスの一体化シナリオ』その他は、それをはるかにしのぐ内容のある記事です。この世の形を大きく変えるぐらいのインパクトがあり、少なくとも議論するだけの価値があるもの。しかしそれがあの記事よりも多くの人に響かないのは、この記事を理解するには『システム2』を起動する必要があり、簡単に言うと『長くて複雑』だからです。
ちなみに当サイトで他にも400以上のシェアをされている記事がいくつかありますが、それらはすべて2000文字以下の短文で、だれが見てもわかりやすく、閲覧ストレスがほとんどありません。
また当然、私の経験した事例を考えたとき、私は『システム2』を常時モードとしていて、人にも『システム2』を求めているからこそ、『システム1』の状態でいる人、あるいはその状態で私と接した人に対し、失望してしまっているわけです。『彼ら』は『システム1』の状態で私と接してしまった。だからこそ、お客様に成り下がり、アファメーションの意味を知らず、私を(無意識にでも)侮蔑し、youtuberになるのだと勘違いしたわけです。こんなこと、少し『システム2』を起動すればわかることですよね。
ワンピースの記事を真面目に書いている私を『中二病』だと評価し、ブッダの記事を真面目に書いている私を『先生』のように高く評価したのも『システム1』で私を早計に判断したからです。
『世界遺産に行くことがどういうことか』ということを理解するのに必要なのも『システム2』です。単純に考えれば
そのような地味なところに高い金を払って、貴重な時間を割いて、何になるんだ
という発想が限界ですよね。それが『若い年齢の人のシステム1』の限界です。だから私の知人は『海、夏の日差し、年が近い肌を露出した女性、お酒、音楽』があるそういうイベントに目が眩み、私の提案した旅行を蹴った。そりゃあそういうイベントなら『システム1』だけで十分対応できますからね。『システム2』を起動しなくても済む。私だってそれまではそうしていたんだから、気持ちは知っています。しかし、人生を熟考し、スウェーデンの諺にあるこの言葉の意味を理解したとき、
人はこの人生をより有意義なものにしなければならないことを悟ります。私なら、『何度も同じ経験に依存し、その経験から得られる効用が逓減していき、半ば自然消滅的に幻滅しながら衰退していくのをただ受動的に待つ』よりも、『常に新鮮な経験を味わい、それが人生の黄昏時を迎えるときに振り返っても堂々と胸を張れる経験』を一つでも多く積むために、より現在の自分を昇華させられるような方向に目を向けます。つまり、時間を『浪費』するのではなく、『投資』したい。
その中で、もちろん『戦場』を取材する選択肢もあるでしょう。北朝鮮や、アフガニスタン、リビア、ソマリア、イエメンといった地域に行く選択肢もある。私は全然そういう考えもあると考えます。そこから得られるものはとても大きい。しかしそれをするとどうなるか。最悪の事態になった時に大勢の人を巻き込む可能性もある。ただでさえ海外に行けば犯罪に巻き込まれる可能性があるわけですからね。人の家(敷地内)、立ち入り禁止ゾーン、深海、我々が入れない場所はたくさんあります。そんな中、
じゃあどこに行き、どんな景色を観るのが自分にとって一番いい経験になるのか
という疑問が頭に浮かびます。私は世界遺産だけじゃなく、日本三景や特別名勝、近所にある『庭園』もたくさん行っていますが、やはり、『地球』ほど自分の人生を考えさせられる場所はないですよ。そして、その地球にある遺産。それは人為的なものであれば文化遺産、はじめからあるものであれば自然遺産ですが、『世界遺産』ほどわかりやすく、この地球の歴史を実感できるものはない。考え方は人それぞれですが、私の場合、この有限の人生の中で、どこへ行くことが最も悔いのない人生を後押ししてくれるかということを考えると、世界遺産にたどり着きました。
プロフィール『もし寿命が2000歳だったら』には、『世界一周』ではなく『地球のすべて』を見て回る、と書いています。しかし人生は有限です。
[厳島神社]
何しろ地球というのは、人間と違って『システム1』も『2』も関係ないですから。じっと黙って『沈黙』している。人が大勢いる場所に行ったところで、その『人』自体に信憑性がない場合、そこから得られるものは矮小ですからね。沈黙しているからこそ、それに直面する人のシステムが『1』か『2』かということが問われるのです。確かに『システム1』しか起動できないなら、
地味だなあ、お酒がないなあ、女がいないなあ
となるでしょう。しかし『システム2』を起動できる人なら、その『あまりにも意味ありげな沈黙』から得られるものがあるのです。もう一度『沈黙 -サイレンス-』の予告動画を観てみましょう。
『人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧(あお)いのです』by遠藤周作
海が青く、波を立てる。そんなことは遥か数億年以上前から存在した事実です。しかし、それを見て想う人間の感想は人それぞれ。沈黙している壮大な大自然から大きなものが得られる人には、『システム1』の自動思考モードに依存している人は存在しないのです。
『システム2』の起動が必要なこと
これらは全て『システム2』を起動することが求められます。だから『システム1』の自動思考モードで楽をして生きている人は、これらの行為を避け、以下のような発想に甘んじます。
『システム1』の起動で済むこと
つまり、人が『システム1』だけで対応できる『簡単なこと(ハードルが低いこと)』から、『システム2』を起動しなければ真価を理解できないようなことに目を向けるようになったとき、人は本当の意味でこの人生を更生することになるのです。
更に生きる、という意味。『私達はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。』
ここに付け加えるのに相応しい、わかりやすい話があります。手塚治虫の『ブッダ』を映画化した『手塚治虫のブッダ 赤い砂漠よ!美しく』にあるこういうシーンです。この映画では少しブッダが神格化され、神話的な形に作られているのですが、私はそういうところは一切過信しません。ただ、ブッダという人物がどういうことをしたのかを、漫画で分かりやすく見るために、手塚治虫という人間を通すのは意味があると判断し、見るに至ったのです。
他の人のレビューを見ましたが、皆さんも同じように『宗教色が強いが、学ぶところはあった』という意見でだいたい一致しているようです。原作よりも宗教色が強いらしいですね。漫画版は私は見ていないのですが。
ブッダがまだ『ブッダ(悟った人)』になる前の一人の人間、つまりゴータマ・シッダールタだったとき、彼はまだまだこの世にある様々な問題に対して、的確な答えを見つけられませんでした。そんな中、弟子かお供か名前は忘れたのですが、登場人物の一人が動物に食べられてしまうシーンがあります。
それを見つけたシッダールタは、慟哭します。それはそうです。ついさっきまで自分の仲間だった人間が、目の前で動物に体を食いちぎられている。普通の人間はそれを見て、彼のように泣き叫び、悩み苦しむのが当然ですよね。しかし、その食べられている本人は、とても穏やかな顔をしています。それは一体なぜでしょうか。それは、『システム2』を起動しなければ到底見えてこない事実なのです。
悲しみのあまり、声をあげて泣くこと。
ブッダの境地というのは、この世の真理を見極めた境地です。人は、どうせ死ぬのです。そして死ぬのは人間だけじゃない。動物や虫、草木も同じようにこの世に生まれ、そして命の日数を終えた後、この世を去ります。しかし、ただ去るだけじゃない。去った後、あるいは去るときには、他の生命の種となり、肥やしとなる。すべては循環しているのです。
動物が死んだら、小動物がその死骸を食べ、小動物が死んだら、昆虫がその死骸を食べます。彼らがした糞を餌にする生命もあれば、それを土壌にしてすくすく育つ草木がある。その草木が木の実を成らせ、それを鳥や小動物が食べる。草木は人間が出す二酸化炭素を吸って酸素を生み出し、オゾン層を作って太陽の紫外線から地球を守る。雨雲を作る。その雨雲が雨を降らせば、多くの生き物は命を潤すことができる。
『システム2』を起動すると、ただ『沈黙』している光景だけではなく、目の前で起きる一見して『残酷』なワンシーンであっても、この世の真理を知るための『勉強の機会』となるのです。
そこで慟哭するということは、シッダールタは彼が好きだった。彼に死んでほしくなかった。そして、『彼以外の存在、例えばその動物たちの命はどうでもよかった』。人間が何かを好きになり、何かを嫌いになることは当然で、それはとても人間らしくもある。しかし、そうして生まれたエゴがやがて執着を生み、
その人は死んでも涙を流さないが、その人だけは死んでほしくない
という差別的な発想を持つようになります。人間は、自分たちの利便性が向上するためには道路を埋め立てる際に、多くの虫の命が失われてもなんとも思いません。鶏、牛、豚、彼らの命が失われるのは当然だと思っています。彼らの肉体は引き裂かれ、焼かれ、蒸され、我々の食事となるものだと決めつけています。
しかし本当にそうでしょうか。それは誰が決めたのでしょうか。そう。人間です。すべては人間が決めたことなのです。そのようなことを考えていくと、目の前でその友人が『他の仲間』の命の肥やしになる姿を見ても、この世の真理を目撃しただけだという境地に達することができます。一切の執着を捨て、ただただ真理のみを遵守する人。それが『ブッダ』の名にふさわしい人なのです。
ちなみに涅槃(ねはん)というのは『さとり』〔証、悟、覚〕と同じ意味で、本当の意味は、『人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態』ということ。そうなると、それは死ぬときだということになります。生きている間は、人からあらゆる『精神の迷い(煩悩)』はなくならないからですね。偉大な仏教徒が死ぬときは『煩悩の炎が吹き消えた状態に入る』として、『入滅』と呼びます。
『エネルギー不変の法則』とは、宇宙を成り立たせているエネルギーの総量は、形を変えても一定、という法則です。例えば、木を切り倒して薪にして燃え盛る火にくべると、もともとあった木という存在のエネルギーは、熱エネルギーと気体になったエネルギーに換えられるだけで、『エネルギーの総和』は変わらない。そう考えると、例え石ころ一つでも、全ての存在に意味があるわけです。『システム2』を起動させれば、『沈黙』しているこの地球のエネルギーすべてが、自分と運命共同体なのだという境地を理解するのです。
これが冒頭で私が『散骨』を希望したアインシュタインたちが、大きな存在に見えた理由ですね。
そして私がyoutuberになろうとしない理由ももうわかりましたよね。youtubeの視聴者は30代以下がほとんどです。つまり『システム1』向けに動画を作らなければならないんですよ。ヒカキンなんかはそれでいつも『物言い系』のyoutuberに、
と言われているわけです。こういう記事やサイトを作るような私が『システム1』向けのものを作ろうとは思いませんよね。(ただ、これに関しては最後の記事で捕捉します。)
しかしそのようにして私はパレートの法則も知っていますよね。冷静に考えてもこの『システム2』を起動することはそう容易ではない。それなのになぜあの人々に『システム2』を起動することを期待してしまったのでしょうか。それは経験事例のキーワードである『長い間関係を持った人々』を考えれば見えてくることです。つまり私は、私という『システム2』を常時モードとするような人間から、『システム2』を起動しなければ理解できない話を長い間聞いてきたその人たちが、時間の経過と私との接触回数に比例して『システム2』を起動できるようになっている、と考えてしまうところがあるのです。
もちろん私も『システム1』の省エネモードでいるときはあります。例えば2007年以前の映画鑑賞は完全に『システム1』で観ていました。ど派手、エロそう、流行ってる、女性と一緒に観たら…等々、だから内容はほぼ覚えていませんね。また、洋画をよく観るのですが、ドイツ語、フランス語等の言語のものを見ると、瞬間的に拒絶反応してしまいます。しかし、ちゃんと観ると洋画と変わらなく面白い。これも『システム1』の仕業ですね。『システム2』を使ったら正確な判断ができる。
だから先ほどこう思ったと言いましたよね。
そうだった。人間って、そういう生き物だった。ステータスがすべてだったか。また過信してしまっていたな。
この考え方こそが、『私は元々人間の実態を知ってはいたけど、信じたい気持ちから、信じてしまっていた』という心境を見事に言い表していると言えます。それに、私も話をするときは一生懸命話をしますからね。しかし松岡修造が、ある種その熱さを『うざがられる』ように、私と彼らとの間には『温度差』があるのです。
実際に『温度差がある』というキーワードを言った人がいます。
そりゃあシッダールタのように、『システム1』の状態じゃ『システム2を起動しなければわからないこと』はわかりませんよ。目の前にいる『システム2』モードの私の価値を下げ、敬遠してしまいますよね。
ゲーテは言いました。
(上)の冒頭に書いたこの言葉の意味が、このタイミングでようやく自分のものにできたという人もいるかもしれませんね。彼らから好かれ続けるためには、常に『成功者』でなければならないのです。
例えば私はよくエレベーターで実験をします。多くの人が乗り降りするエレベーターで、率先してボタンの前に立ち、開く、閉じるボタンを押すんですね。すると面白いことに、やはり8割ほどの人がその私の行為をスルー(見て見ぬふり)します。人々はまず私の『若い、やんちゃな格好をしている』という要素を見て、『システム1』を使ってこう考えます。
こいつに安易には近づかない方がいいか。あるいは、こいつはボタンなんか押す配慮はしないか。
しかし残念ながら、私はそういう人の『独断と偏見』通りにはいかない人間です。多くの人が私の『善行』を見て驚き、それに対する最善の対応を考えていないので、スルー(見て見ぬふり)してやり過ごそうとするのです。気づかないふりをすれば、『システム2』を起動しなくてもいいし、『逃げる』ことができますからね。そうしてまた『システム1』モードの楽な生活に戻る。そんな中、2割ほどの人は私にきちんとお礼を言ってきます。
あるいは、会釈をします。この間の例で言うと、若い男女とその母親のような人がいたのですが、男女は当然のようにスルーし、母親のような人は私に深々とお辞儀をしました。これはその男女が『主体性、モチベーション3.0、システム2、自燃型』とは無縁の人生を生きているという証拠であり、その母親は思慮深く、それとは無縁ではないということを示す事例となっています。
また、その2割ほどの人の多くはその母親のような人もそうですが、『最後の方に出ていく人』が多い印象を受けます。その理由は恐らく、
という要素が関係していると言えるでしょう。とにかく多くの人間は『システム1』を常時モードとしていることが圧倒的に多く、そして『システム2』にギアチェンジすることに何らかの抵抗を持っています。ストレス、負担、重荷等の『負荷』だと考えるわけですね。
本にはこうあります。
よく言われる『最小努力の法則』は、肉体的な労力だけでなく、認知能力にも当てはまるのである。この法則は要するに、ある目標を達成するのに複数の方法が存在する場合、人間は最終的に最も少ない努力ですむ方法を選ぶ、ということだ。経済学的に言えば、努力はコストである。そこでスキルの習得も、その利益とコストを天秤にかけて行うことになる。こんな具合に、怠け者根性は私たちの中にしみついている。
ちなみに現在のGoogle、ヤフーといった検索エンジンの検索結果は、1ページ目に1位~10位が並べられますが、8割の人が1ページ目にある記事を読み、上位であればあるほど信用してクリックします。ですから、検索上位を取れば(1位だから信頼していいだろう)という人々の『システム1』が作動し、利益が生まれます。事実、10年前は何の効果もない『飴玉』が『最強の精力増強剤』として売り上げを大きく上げていました。
私の周りの事例をいくつか見てみましょう。
20代の頃、私は吃音症の部下と一緒に、私の実家の引っ越しの手伝いのようなものをやりました。その時すでに私と部下は数年間一緒に時間を過ごしていました。彼が吃音症だと判断したのも私ですし、疾病利得を利用してズルをするような彼の性格を説教することはその時点で当たり前でした。彼の知人は大勢いたのに、その全員が彼を『奥手な性格』とだけしか認識しておらず、たった一人私だけが彼が吃音症を抱えているということを発見したのです。当然、彼の親も彼が吃音症だということを知らないのです。
『自分は病気だから、特別扱いされるべきだ』という、病気を盾にして越権行為を働く人間の思いあがった発想。病気の人の中には謙虚に誠実にふるまう人もいるのに、この考えがある人はとても卑怯な印象を与える。
彼の場合、自分の兄が事故死したこともあって、ここで言う『水』を浴びるほど飲んできた人間です。そして性根が腐っていた。だから彼にしなければならないのは『水をあげないこと』。それが彼に対する最適な教育でした。私は、人が見ている、いないということで態度を変えません。ですからその時も、親の見ている前でその部下の甘えた行動を説教し、テキパキ動くように言いました。すると後で親がこう言ったのです。
母親は、私がかつて血気盛んだった時期があったことも手伝って、当然のように私を人格者だとは想定しませんでした。つまりそれとは逆。そのような出来の悪い人間が、目の前で言い返しをしない(吃音症だから喋らないだけ)人間の尊厳を侮辱し、あごで使っているように見えたわけですね。まさに『システム1』で目の前の事実を短絡的に曲解したわけです。
また違うシーンでは、その引っ越し作業の後に家で食べた焼肉で、私が自分のペースでむしゃむしゃと肉を食べていると、まるで(なぜあなただけ自分勝手に食べているの?)と言わんばかりに、母親が部下に肉を取ってあげ、皿によそってあげたのです。こういうシーンは以前もありました。ゲームをやっているときなのですが、その時はまず最初に私が『スムーズなプレイ』の見本を見せて、そのあとにコントローラーを渡して友人にやってもらう予定だったのですが、母親は私がプレイし、友人がそれを見ているという図式を見て、
と言ったのです。まさに『システム1』で目の前の事実を短絡的に曲解したわけです。しかし私はその部下に日ごろから、再三再四、こう指導していました。
週に一度は外食をしていましたから、彼にはその都度そう説明していたのです。それに彼は、疾病利得気味に、わざと被害者面をしてかわいそうな人間を演じ、人に手を差し伸べさせるように仕向けるような、そういう腐ったことをしようとする傾向があります。女性や子供ならまだしも、男ですよね。私はそういう考え方が虫唾が走るほど嫌いなので、そのシーンは私が彼の主体性を鍛える教育のシーンだったわけです。
そしてコントローラーは、後2分も待てば友人の手に渡っていたのです。しかし母親は私の過去やその目で見えている景色だけを独断と偏見で短絡的に曲解し、
別にこの見たままが事実だろう。単純に息子に人格が足りないのだろう
と判断してしまったのです。この事例はまだ20代のときで、私が何を考えて、どのような目的と覚悟を持って人生を生きているか、母親は知らなかったのです。私がどれだけこの部下のために時間を割き、話をしてきて、泥をかぶってきたか、損な役を負ってきたかということを理解しようともせず、完全に不当評価しました。まだ宗教問題で不和がありましたからね。親がクリスチャンで、私は違う。そのあたりが我々の根底に大きなわだかまりとしてあって、それが解決していませんでした。
こういう事例もあり、今では母は私と部下の間にあるあまりにも濃厚な背景を知ったので、何一つ口出しすることはなくなりました。というよりも、できなくなりました。
また私は血気盛んな少年時代を過ごしたので、ある親戚が久しぶりに私に会った時、私に敬語を使っていました。自分の親と同じ年齢のその人に敬語を使わせてはいけないと思って、私にある『ある種の緊張感』を取り去ろうと思い、『三枚目』役に徹し、なごませました。しかし、そういうことを続けていると、敬語がなくなったのはいいのですが、そのうち私のことを『見下す』ようになりました。恐らく、自分が敬語を使っていた時代の『採算』を合わせようとしたのでしょう。しかし当然私はそれに対して真正面からぶつかり、
俺にそういう態度を取るなら覚悟しろよ
という具合に、すべての力を使って彼が取ろうとしている『主導権』を掌握しました。以来その人は私に対して口を利くことができません。『謝罪もせずに』そんなことをしたら、私というエネルギーと正面衝突するからです。彼は最初『システム1』で私に怯え、そして『システム1』で私を不当評価し、また『システム1』しか起動できないから私との問題を未解決状態のまま放置してしまっているのです。
またある時私は、Twitterに『顔文字』を使いました。『(*’ω’*)』このような文字を使っていくと、それで油断したのか、私のことをそれまで『上』に位置付けていた人が『下』に見てきて、私の隙を見つけて『論破』しようとしてきました。しかし当然私は『システム2』を起動し、徹底的にそれに対抗しました。するとすぐに根を上げて『早計だった』と謝罪しました。自分より賢い人間(と思っていた人)を論破して優越感を得たかったか、単純に自分が賢いと思っていたかは定かではありませんが、これも、『システム1』で私を不当評価してしまったことで起きたトラブルです。
当然ですが、私より賢い人は星の数ほどいます。
また、20代前半のころボクシングジムに通っていたのですが、私は自分が弱いのに見た目を重視するのは間違っていると考えていたので、洋服から髪型から、『すっぴん』のような状態で練習をしていました。しかし、私の周りにいた友人は『ひげ面、タトゥー、プラチナネックレス』等のコテコテの不良。あるとき、初めて見る顔がいたと思ったら、その人は私よりも歴が長い、近くの早稲田大学の生徒でした。しかし彼はあろうことか、初めて会ったはずの私に強く当たってきたのです。
私に拳が当たるか当たらないかぐらいのところまでパンチを打ってきて、無意味に私を威圧してくるのです。私は血気盛んな人間ですから、
殺すぞこいつ…
と思いますよね。人格者ではないのですから。しかも私のその連れには何一つ何も言わない。その理由が瞬時にわかった私は、それも理由でそう考えたわけです。しかし、徐々にその連れたちが『私の後輩(あるいは敬語を使う関係)』であり、私を尊重するような態度を見ていき、彼は私に対して口数を減らしていきます。
私はまだ21歳やそこらですからね。その人に『なめられた』採算を合わせるために彼を『スパーリング』という体でぶっ飛ばしてもよかったのですが、その時の私でもかろうじてその行為が『器の小さい人間のやること』とわかっていたので、逆にスポーツドリンクを買って渡し、
と言いました。すると彼は下を向き、次の日から二度と見なくなりましたね。これも彼が『システム1』で私を早計に判断してしまい、真実を見誤ったことが原因によるトラブル(寸前の出来事)です。
本当にやってたら逆にぶっ飛ばされたかもしれませんけど。
早まった考え。十分に考えないで判断すること。
ちなみに、私に対して『血気盛んがすぎる』と思う人がいるかもしれませんが、あの松下幸之助から『経営の神』の名を引き継いだに等しい稲盛和夫の著書『生き方』にはこうあります。
我が身の恥をさらすようですが、就職難の時代に大学を出た私は、縁故がないために、いくら入社試験を受けても不合格続きで、いっこうに就職が決まらない。それならいっそ『インテリやくざ』にでもなってやろうか、弱い者がわりを食う不合理な世の中なら、義理人情に厚い極道の世界に生きるほうがずっとましかもしれないーすねた心で、なかば本気でそんな風に考えたこともありました。そのとき、ほんとうにその道を選んでいたら、そこそこ出世をして、小さな組の親分くらいにはなっていたかもしえません。しかし、そんな世界でいくら力をつけても、根本となる考え方がネガティブで歪んでいるのですから、けっして幸せにもなれなかったでしょうし、恵まれた人生を歩むことはできなかったでしょう。
大学時代に空手をやっていた彼も、私と同じように血気盛んな青年時代を過ごしたのです。もちろん、彼と私を比べることはできませんけどね。彼は大きくなりすぎたので詳細は言わないでしょうが、まだ記憶が新しい私は、ただこういう事実を生々しく覚えているだけですからね。男なら誰にでもあるエピソードです(多分)。
最後にオマケとして、すぐに終わるある『超一流タレント』の話をしましょう。その人は当時、結婚前で、大河ドラマの主役、歌手活動等をこなし、まさに人気も収入もピークにありました。彼は役者仲間にこう言いました。
この場合、『特別扱いを受ける一流タレント』も、『ぼったくられる超一流タレント』も、すべて相手が勝手に『システム1』で早計に判断した事例となっています。一流タレントを特別扱いするのは、『一流タレント』というアウトサイド(外部要因)に影響されてやっていることです。つまり、その人が『三流以下』に成り下がったらそう扱わない。しかし、普通に考えれば人をそのようにアウトサイド(外部要因)だけで判断して対応を変えるのは『差別』に近いものがありますよね。『差別』をするような人間に『システム2』を使える人はいませんよ。
とにかくこれで人間がいかに『システム1』を常時モードとしているということがわかったでしょう。これらは全て『相手が勝手にシステム1で私を早計的に見謝った』例で、偏っていると思うかもしれませんが、正直な話私はあまり『システム1』で人を判断することが少ないので、私が失敗する事例はあまりありません。これはもう小学生時代くらいからそうですね。
確かに記憶を正当化して美化しているところもあるはずなので半信半疑で聞いてもらえればいいのですが、私はそのような『外見重視』の『見栄っ張り』の知人とは違ったタイプで、常に物事を考えているタイプです。ですから、すぐにキレて怒号をまき散らすような知人がいる中で、私は黙っていて、辺りを見渡し、状況判断をしていることが多かったですね。
これは冗談でもなんでもなく、『ドラゴンボール』の影響が大きいと考えています。少年時代は漫画だけが人生の教科書ですからね。ドラゴンボールでは、『スカウター』という『人の戦闘能力を測る機械』があり、初期の方ではこれがよく登場していました。今ではそんなものに頼る必要はなくなったのでもうあまり見ないのですが、例えばこの動画であれば、『33秒』辺りに出てくる大勢の敵が『顔につけているサングラスのようなもの』です。
実は、これが登場した段階ですでに、悟空の周りにいる人間は『戦闘能力をコントロールする能力』を身につけていました。ですから、スカウターで数値を測っても、その人の数値が『低い』と表示されるのです。
本当は『1万』くらいある戦闘力が、『100』程度にしか表示されなくなる(悟空の周りにいる人間は気を落とすことが出来るから)。
本当に強い人間はむやみに威張ったりしない。『偉そうな人間に偉い人はいない』わけです。しかし、敵のキャラクターにはその『スカウターで映った数値がすべて』と考える人が大勢いてこう言います。
しかし、そうして早計に判断して見誤り、あっけなく悟空グループに倒されてしまうわけですね。私は少年時代からこのあたりの描写がとても好きで、
本当に強い人間は、むやみに気を上げて、スカウターに数字が映らないような人だよな
と思っていたのです。これを私の周りで考えると、やはり血気盛んな人間というものは見栄や虚勢を張るのが相場で、中身もないのに背伸びをしていきがっているわけです。それって、このドラゴンボールの世界で言えば『雑魚キャラ』がやることなんですよね。漫画でもそういうキャラがすぐにやられてしまうのを見てきて、それが私の目にはとても情けなく映りました。
このように、少年時代から強く強くそういう思想が頭に根付いていたこともあり、私は『システム1』で早計に判断する勘違い人間に成り下がることは、意識的に避けてきたのです。むしろその逆で、スカウターに映らないようにしてきましたね。自分の能力を隠すのが美学だと思っていました。『能ある鷹は爪を隠す』です。
自分に能があるということではなく。
ですから『レッドクリフ』で周瑜の使った『水面下の主導権』の謀は、見ていてとても楽しかったですね。諸葛亮孔明の『草船借箭の計(そうせんしゃくせんのけい)』然り、あの映画もとても叡智にあふれた映画です。
まあそうやってアウトサイド(外部要因)を彩ることをおろそかにしてきた私は、どうしても『システム1』で早計に判断されることだらけになってしまったんですけどね。そう考えると、この『システム1』を常時モードとしている人が圧倒的に多い世の中をスムーズに生きる処世術とは、このドラゴンボールの世界とは逆で、むしろ『自分の数値は高いんだ』とアピールして、割れないはずの海を割り、その道を堂々と歩くということが求められるのかもしれません。
しかしまあ人間は自分を美化、正当化しますから。私も無意識に『システム1』で早計に判断してしまっていることはたくさんあるでしょう。『それに気づけない』ところも自動思考モードの特徴でしょうね。恐らく皆も『システム1』の自動思考に関しては、あまり罪の意識はないのです。
ですから『対人関係』に関しては『システム1』で早計に判断することはほとんどないのですが、先ほどの映画の話のように、『物事』に関しては結構『システム1』で考えてしまうところがあります。例えば仕事だったり、勉強だったりを考えると、最初から『システム2』を全開に起動して臨まないこともあります。特に自分が興味がない分野は、起動しようと思わないですね。RASがそう判断するからです。
脳にあるフィルター。例えば車を買おうとするとき車のCMは目に入るが、そうじゃないときは一切入らない。必要か不必要かを判断している。自分とは全く無縁だと思う情報はこのRASがシャットアウトする。
私が対人関係に対して『システム1』で早計な判断をしないのは、私がたまたま人間のことに幼いころから興味があり、それで人一倍思慮深くなったことが理由の可能性があります。ですから、対人関係というのは私にとって『RASが無縁ではないと判断すること』であり、そのおかげで『システム2』を起動して間違った判断をしないようにしているので、その元々のポテンシャルを持って自分を棚に上げるのは無様かもしれません。
例えば筋トレというのは、下記の動画のように『同じ部位を違う方法で何度も痛めつける』ことが正しい方法です。しかし私がこれを理解したのはつい最近。独学でやっていたので、間違った方法で筋トレしていました。腕立て伏せをやったらそれで終わっていたのです。20年筋トレしてきましたが、こればかりは『システム2』を起動して知識を追い求めなければたどり着かない発想でしたね。このように、私は結構物事に関しては『システム2』を起動しないところがあります。適当なので…。
自分の興味がある筋トレですらそうですから、そうじゃない分野は更にRASの除外対象情報となります。山中伸弥がiPS細胞がノーベル賞を獲った後も、前も、その仕組みがどうなっていて、どれだけすごいのかはわかっていません。
アインシュタインも数学や物理だけが好きで、それ以外の成績は最低だったようですが、そう考えると、私は自分が興味があるこの哲学や真理、人間やその黄金律といった分野が『私の専門』であり、私が伸ばしていくべき専門知識ということですね。iPS細胞や相対性理論が『興味の蚊帳の外』にいる人にとっての『RASの除外対象』であるように、私が突き詰めた難しい話も今後、同様の扱いをされるでしょうが、私はそれに関係なく自分の専門知識をどんどん伸ばしていくべきでしょう。山中伸弥がノーベル賞を獲ったのは52歳ですから。35歳の私はまだまだ基礎・土台作りの時間です。
では逆に、人が『システム2』を起動しなければあり得なかった事例を紹介しましょう。滅多にないことなので私の周りでは1つしかありません(『システム1』の話はまだまだあるのですが、これ以上書くと方向が変わってしまうので…)。
我々が引っ越し作業のような仕事を請け負っていたとき、私と部下はその日、その依頼主の3階建ての家の3階から、ベッドを解体して外に運び出す作業をしていました。1階の玄関から入るとお経のような声が聞こえてきて、玄関には靴がたくさんあったので、どうやらその家の1階は、そこにいる主人のような60~70歳くらいの女性が僧侶のようなものを務める、仏教に関する何らかの施設なのでしょうか。
私が3階にあったウォーターベッドを解体していると、その人が部屋に来て、挨拶をしました。私は必要以上の会話はしませんから、淡々と仕事をしていると、あちらの方からそのベッドに関して、
と冗談交じりに言ってきたので、
と笑いました。実は、ウォーターベッドの解体と処分は2万円ほどかかるので、安いものではありません。私としては、当時どこも大体請け負っていないか、請け負っていたとしても3万円かかるという情報があったので、それよりは安くしたつもりですが、私としてもこれは高いと思いながらやっていたわけです。
また、買うのはもっと高いですよね。ですからその人のその一言は、『高い買い物をして、高いお金を払って処分して、全く、なんで私がこんな目に遭うんだ!』という意味が込められているのですが、それを嫌味なく、冗談交じりに言うあたりがとても『粋』で、妙に男らしくて面白い人だと思ったので、普段愛想笑いすらしたくない私が、声を出してそう笑ったのです。そこは浅草だったこともあって、粋な江戸っ子魂が備わっていたのでしょうか。
そのあとも淡々と作業をし、分解して外に出します。『養生なし』で作業をしていた私は、一つ一つのパーツを丁寧に外に出すことが求められています。引っ越し作業ではなく、パーツレベルに分解するので養生はしないのです。
壁や床に張るビニールの壁紙みたいなもの。物が当たっても傷つかないようにする簡易的なバリアのようなもの。保護シート。
しかし、その家は階段が狭く、また、パーツも長いので、気を緩めたら壁にぶつかって傷つけてしまいます。そこで私は部下に、
と、強めの口調で言いました。相変わらず私は人からどう見られても関係ないので、その部下が、それだけ強い口調で言わなければ意識を強く持てない人間だと知っているため、誤解されるかもしれないけど、それよりも大事なのは『家を傷つけてはならない』ということだから(弁償することにもなるし)、そう言ったわけです。それまで場を支配していたはずのその女性は、いきなり私がその場の中で部下に声を荒げたので少し驚いた様子でしたが、何も言わずに目線を逸らし、少しニコッとしました。
無事に運び終わり、帰ろうとすると、その女性がやってきて、我々に『お小遣い』をくれました。なんと、私と部下、一人ずつにくれたのです。そういう人は滅多にいません。後で確認したら、2,000円も入っていました。つまり彼女は、『孫の面倒で散々な目に遭ったのに、私と部下に追加で4,000円も払った』のです。
私がそれを受け取れないと拒否すると、頑なに渡そうとしました。これ以上拒否すると気持ちを拒絶することになることがわかり、私はそれを受け取りました。彼女は我々に合掌し、私も深々とお辞儀をし、その場にとても神聖な空気が流れました。彼女はドアを閉めるギリギリのところで、
と、こちらに聞こえるように言いました。私はお客さんでこんなにも思慮深い人を見たのは初めてでしたね。私の母の例を思い出してもわかるように、私と部下の関係を『不愉快だ』と捉えることもできた中、彼女はそこにあった『本当の愛』を見抜いたのです。口調はきついが、部下と、一応はその家のことも考えて、私が損な役を請け負った。その心意気を買ってくれて、彼女は我々に感謝してくれたのだと推測できます。
私も養生をしていないので、損な役は請け負い切れていなかったのですが。後、今の私ならそのお金の半分以上、あるいは全部を使い、ドリンク等を買ってその家の前に置いて帰ります。
これは、彼女が『システム2』を起動しなければあり得ないことでしたね。やはり、彼女が日ごろから思慮深く生きているということが大きく影響したのでしょう。私はこの事例を通して、
さすがブッダということか。
と、彼女の背景にあった存在の大きさを身に染みて理解しました。
宮崎駿はあまり多くを語らない人です。あるとき『風立ちぬ』の製作現場を映したある映像に、宮崎駿が『多くを語らない理由』が垣間見えるシーンがありました。スタッフの一人が主人公の声優のイメージを発言したのですが、作者である宮崎駿が抱いていた主人公の印象とは、全く別のものだったときのやりとりです。
ハキハキと会議を進めるそのスタッフはもちろん『やり手』なのでしょう。しかし、だからといってその人が、『知者』であるということにはなりません。『どこか飛行機オタクっぽくて内気な性格』と捉えたやり手のスタッフ。彼女には『システム2』を起動するだけの思慮深さがなかった。同じ作品に携わっていて、主人公の性格をはき違えてしまうなんて、さすがに宮崎駿も少し残念だったでしょう。
主人公の二郎が『賢すぎて多くを語らない』と把握していた宮崎駿。だとすると当然、宮崎駿は『システム2』を起動できる男ということになります。彼は、『システム2』を起動できるからこそ、二郎が『システム2』を起動できる男なのだ、ということが理解できたのです。そしてそのスタッフは、『システム2』が起動できないから二郎の性格を見誤った。
宮崎駿、高畑勲らとスタジオジブリを支えてきた名プロデューサー、鈴木敏夫は言いました。
朝に出した命令を夕方にはもう改めること。 方針などが絶えず変わって定まらないこと。
彼の場合は『システム2』が『当たり前すぎる』ことで、常時モードが『システム1』の人はついてこれないんですよね。彼の話でもう一つだけわかりやすい例があります。あれは『風の谷のナウシカ』の時の話ですから、もう35年前の話です。インタビュアーの斉藤由貴が、
と聞くと、彼はこう言いました。
その後もそのような哲学的な話を進めていくのですが、斉藤由貴の瞼は半分閉じてしまっていましたね。
何言ってんだろうこいつ
彼が有名になったのはこの作品以降ですから、この時はこれくらい思われていたかもしれませんね。しかし当時から彼はこう言っています。
『アメリカのサバイバル映画なんかによくありますけど、 廃墟が累々としてて砂漠になっている。 そこに人が生きているわけ。…嘘だと思うんですね。土をね、本当にダメにしたら、人間生きられないですよ。人間が生き残っているっていうのは、実は自然が回復するとかそういうことがあって、植物が残ってくれているから人間が生きられるんであって、ぶっ壊しても自然が回復してくれる(って思ってる)ところがね、 日本人そのものだなって。』
宮崎駿は、中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』を読み、風が吹き抜けるほど感動して、植物から目が離せないようになります。屋久島や白神山地に取材をしに行き、 それが後に『風の谷のナウシカ』、『天空の城ラピュタ』、 『もののけ姫』という名作を生み出すきっかけになったことは有名です。
日本テレビで放映された『スタジオジブリ物語』にはこうありました。
映画中盤、地下世界に落ちたナウシカたちが、『腐海』の本当の意味を発見する場面は、見る者に深い感銘を与えた。『毒』を放つものが、実は『毒を浄化』していた。この斬新な世界観に影響を与えたのは、『水俣病に関わるニュース』だった。水俣湾は、水銀に汚染され、死の海になった。魚を食べられないので、漁民は漁をやめた。数年経つと、この湾には、他の海では見られないほど多くの魚がやってきた。岩にはカキがいっぱいついた。海中の泥を調べてみると、独自に進化した驚異の細菌が発見された。(有機水銀分解菌)水銀を浄化する能力を身につけていたのだ。これらの事実が宮崎に大きなインパクトを与えたのである。
『風の谷のナウシカ』のあの『腐海』のモデルは、人間の環境汚染問題を解決した『有機水銀分解菌』だったのです。つまり、植物が人の後始末をしてくれていたのです。それに気づいた宮崎駿は、そのことを何としても世に伝えるべきだと思い、あの作品を作ったんですね。彼がどれだけ『システム2』を使いこなす人物かということがよくわかる逸話となっています。多くの人は『システム2』を使いこなせないから、いまだにこの実態に気づかずにあのアニメを見ているんですよ。
というよりも先ほど言ったように、スタジオジブリや宮崎駿に関してRASが『必要な情報』だと判断しないだけ。そういう人は他の『自分の興味があること』であれば、きちんと『システム2』を起動して考えます。例えば電車好き(オタク)が、電車の色々な情報を知っているのは、『システム2』を起動して熟考を楽しんだからですね。ちょっとジブリファンの熱が出ちゃいましたね。
しかしこれで、沈黙している壮大な大自然から大きなものが得られる人には、『システム1』の自動思考モードに依存している人は存在しないということがわかりましたよね。
『システム2』を起動し、そこで高度な結論を算出する人間が滅多にいないということは、いくつかの事例を見て見えてきました。そして、もう一つここに付け加えたい話があります。慶應義塾大学医学部精神神経科、准教授、村松太郎の著書、『『うつ』は病気か甘えか。』にはこうあります。
日本の裁判には、大岡裁きという伝統がある。江戸中期の江戸町奉行、大岡忠相の数々の裁きに由来する。決して法の論理は曲げず、公正で、しかし人情味のある裁定。特に有名なのは落語にもなっている。『三方一両損』だ。
左官屋が三両入った財布を拾う。入っていた印形から、落とし主は大工だとわかったので届けに行ったが、大工は落とした金はもう自分の物ではないと言って受け取ろうとしない。左官屋は左官屋で、金欲しさに届けたのではないからと言って受け取ろうとしない。訴えを受けた大岡越前守は、自分の懐から一両出し、
『正直な両人に、二両ずつを褒美としてつかわす。二人とも三両懐に入るところを二両となったのだから一両の損。奉行も一両出したのだから一両の損。これ呼んで三方一両損なり』
で無事解決。理屈と人情を絶妙の比率で融合させ、人々にさすがお奉行様と言わせる裁定。
では話をまとめてみましょう。
当時の『一両』は、今で計算すると4万円~40万円と幅広いが、大体このあたり。
左官屋は、『貰えるはずだった三両ではなく、二両だけ貰ったので、一両の損』。大工は、『元々あった三両が二両になったので、一両の損』、奉行は、『ただ一両支払っただけなので、一両の損』。そして奉行がこう言ったわけです。
やはり『システム2』を起動し、そこで高度な結論を算出する人間が滅多にいないことがわかりますね。この奉行がもし彼らよりもお金を持っていると仮定した場合、この人は、人の上に立ち、お金を人よりも持つだけの資格があると誰もが納得しますね。これぞ孔孟教の『義利合一』というやつです。彼は『義』を重んじながら『利』を得ている。こういう人が人間の理想です。
そして残りの二人も『粋』ですねえ。こういう人たちもなかなかいませんね。
しかしこの事例からもわかるように、やはり『システム2』を起動できるという人は滅多にいないんですよね。つまり、マキャベリも韓非子もナポレオンも、このあたりの『人は常にシステム1の状態で、楽をして生きている』という事実を知っていたのです。そしてそれは的を射ています。しかし、中にはそうじゃない人もいますよね。そして、そういう人が一生『システム1』のモードからギアチェンジできないとも断言できません。私が言いたいのは、
ということなのです。
例えばその男女の例で言うと、『子供だから(20代だったけど)』ということも関係しています。子供は大人になりますからね。彼らを一生『システム1』止まりの人間だと決めつけてはいけない。
ちなみに、
と考える人がいたとしましょう。確かに人というのは『何に興味を持つか』ということで人生が変わります。例えば、孔子、キリスト、ブッダ、ソクラテス。あるいは、マザー・テレサやガンジーは愛や宗教、真理や神について『システム2』を起動して深く掘り下げ、生涯をささげたため、お金は持っていませんでした。しかしスティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツ、ウォーレン・バフェット、ウォルト・ディズニーといった人たちは、お金やビジネスについて深く掘り下げ、生涯をささげているため、お金を得ることが出来ました。
たしかに人が何に興味を持ち、何に時間を割くかということはそれぞれの意志に託されています。しかしイチローが国民栄誉賞を何度も辞退し、手塚治虫がイチローと同じようにこう言ったことを思い出しましょう。
彼らは『漫画家、野球選手』であるのにも関わらず、『同じ場所』にたどり着いています。そして必ずしも『漫画家、野球選手』が彼らと同じ境地に立つわけではないですよね。ということは、人というものはどんな舞台で活躍しようとも、どういう環境であろうとも、必ず『システム2』を起動して真剣に考えると、『真理』にたどり着くことになります。これは、真理にたどり着いていない人は、その舞台で大した活躍ができていないか、あるいはまだまだ伸びしろがあるということを意味しています。
また、人として漫画家や野球選手になることは義務ではありませんが、人として『人間と真理』について考えることは義務を通り越して『使命』です。したがって、この話に無関係であるという人は存在しないのです。例えば『38の黄金律』を読めばわかるように、彼らは全く違う舞台で活躍した人たちなのに、こうも意見が一致しています。このことについて気が付けないというのは、たとえあなたがどんな舞台にいようと、何に興味があろうと、『あまり好ましくない(もったいない)』のです。
『最小努力の法則』に支配されてはいけませんよ。言い訳は無限にあります。単純に能力が埋没して『もったいない』し、世界平和というあまりにも大きすぎる問題とそれへの責任にも関わってきますからね。車を運転するとき絶対に油断してはいけないように、人が『システム2』を起動することは避けて通れないのです。
『「脳にいいこと」だけをやりなさい!』
私たちの思考は常に”オン”の状態にあります。研究によれば、人は一日の6万個の物事を考えて、その95%は前日も前々日も考えていたことだといいます。同じレコードを毎日繰り返しかけているようなもの、もしくはiPodで同じ曲を連続再生するようなものです。問題なのは、その習慣的な考えの約80%がネガティブなものだということ。つまりはほとんどの人は一日に4万5千回、先の例に挙げたような後ろ向きの考えにとらわれているというのです。世界的精神科医で脳イメージングの専門家ダニエル・エイメンは、こうした習慣化したマイナス思考を『ANT(自動再生式悲観思考)』と呼んでいます。
この本にもその『システム1』に近いものについて書いています。『常にオンの状態にあるスイッチ』という説明の仕方なので、先ほどのイラストとは少しイメージを変える必要がありますが、この『自動再生式悲観思考』ということを考えると、やはりその常に考えている自動思考モードというのは、状態としてあまりよくない。しかも、その95%が前日も前々日も考えていたことで、そのうちの80%がネガティブなものだということ。その例として、
私は駄目な人間だ
夫(妻)に愛されていない
なんて馬鹿なことをしたんだろう
もうこの仕事はやっていけない
このような考えがあると挙げています。例えば、トラウマを抱えている人やうつ病状態にある人は、寝て起きただけではその状態から解放されません。そう考えると、人間はこの『ネガティブ自動思考モード』の強力な力に支配されがちであるということがわかります。先ほど私が『人はどうしても『嫌なこと』だけをピックアップしてその記憶に支配されがち』だと言いましたが、
というこの2つのパワーはとても強く脳に影響を与えます。これは、自分の意志でそれを『操作する』ような、そういう主体性がなければうまく回避できなかったり、使いこなせません。私は目の前で部下が10年以上この『ネガティブ自動思考モード』に支配されているのを見ていますからね。私という力強いアウトサイド(外部要因)のエネルギーがあっても、彼は永遠に『システム2』を起動し、ネガティブから脱却し、前に進むことはできません。
それは、30年見てきている母親らにも同じことが言えるでしょう。彼女らクリスチャンは、決して『信仰を持っている敬虔な人』ではなく、この『ネガティブ自動思考モード』からとめどなくあふれ出てくる『マイナスオーラ』に、宗教という慰めで蓋をしてその場しのぎをし続ける人なのです。全員とは言いませんが、私がこの目で何十年も見てきて、500人の偉人の言葉に触れ、500冊の本を読み、内省に内省を重ねて、そう判断するのです。
うやまいつつしむ気持ちの深いさま。特に、神仏を深くうやまい仕えるさま。
では一体どうすればこの『ネガティブ自動思考モード』から脱却できるのでしょうか。本にはこうもあります。
しかし、たとえ現在、ネガティブな考えをぴったりと貼り付けていて、警報システムが常に『オン』になっていても、その傾向を変えていくことは必ずできます。脳の神経系は柔軟で、新しいやり方を覚えることができるので、意識して考え方を変えさえすれば、脳の中にもDNAの中にも変化が起こるかもしれません。(中略)常に希望的観測をもとうとか、とにかく何でもいいから前向きに考えさえすればよいということではありません。必要なのは具体的対策を講じること。つまり古い思考回路をもった脳に、新しい考えかたを教えてあげることでしょう。『幸福』の中枢であるとされる大脳新皮質に働きかけて、ネガティブ・バイアスをなくし、原始的な警報システムのスイッチを切るのです。
先ほどとは少し違った画像を載せましょう。ちなみに『システム2』のスイッチを入れるというイメージ画像では、スイッチが縦についていましたので、今度は横の画像を選びました。今回考えるのはこの『ネガティブ自動思考モード』ですから、この原始的な警報システムのスイッチを切るというイメージを持つ必要があります。画像のように、人は常にこの自動思考モードがオンになっていますから、これを切ることが重要なんですね。
これを切ってしまっても、『脳の働きが止まって死んでしまう』ということは当然ありません。そんな風にロボットみたいに勝手に停止状態にはできませんからね。私は自身の経験から、この自動思考モードのスイッチを『操作する』という主体性がない人は、永遠にその場で足踏みをし続けることがわかっています。彼らの共通点は『現実逃避をする』ということです。一番ぴったりくる言葉は、『難しいこと、考えると煩わしいことは考えない』ようにしているということです。
私も幼少期から両親の信仰の問題に悩まされてきました。なんといってもその背景にあるのが『神』ですからね。あまりにも大きく、複雑で難解な問題を突き付けられた私は、これを解決して家族間にある不和を解消するまで、勉強だろうが何だろうが、何一つ進めることができませんでした。まさに、自分がそういう体験をしていたのです。しかし、心の底から、
ここから抜け出さなければならない
と強く確信したとき、私は無意識に本を手に取っていました。勉強など全くしていなかった私が取った本は『EQ こころの知能指数』、あるいは『脳内革命』という心理学や脳科学の本。それまで、心理学のしの字も知らず、むしろそうした分野を馬鹿にしていたような人間が、本当に自分を変えなければならないと確信すると、その手の本を読まずにはいられなかったのです。
本には私の言いたいこと、知りたかったことがたくさん書いてありました。人の意見を聞けない私は、本との相性が良かった。そうして読書して内省し、自分の心と向き合い内省し、自分の間違った考え方を少しずつ変えていきました。私は決してネガティブな性格ではありませんが、
自分は勉強をしてこなかったから勉強ができない
頑ななこの性格は一生変えることはできない
と思っていたのは事実で、それは客観的に見るとネガティブ思考そのもの。しかし、そんな『ネガティブ自動思考モード』のスイッチを切り、スイッチを『操作する』主体性を燃やした時、私は古い思考回路をもった脳に、新しい考えかたを教えてあげることができ、それを端緒として自己改革をすることができたのです。
物事の始まり。いとぐち。手がかり。
ちなみに私がこの世にある宗教問題をどう解釈し、克服したかということは、下記の記事でまとめました。32歳ごろですかね。これはあくまでも私の独自解釈ですが、しかしつじつまは合っている。たとえこれが真実でなくても、私の心底がこの考え方で納得し、心の虚無が晴れたのですから、私にとってはこれでいいのです。そして、もしこの見解が正しいのなら、この世にある宗教の多様性問題と、その間で行われるすべてのいざこざは解決します。つまり、世界平和実現の道が一気に開かれることになります。
固定知能観 | 自分の知能は固定されていて、もう成長しないと考えること |
拡張知能観 | 自分の知能は拡張されていき、どんどん成長すると考えること |
拡張知能観のことは話しましたね。勝手に自分の限界を決めないでください。私も学校の勉強が嫌いで自分の知能成長はストップしたと思いましたが、それは違いました。環境を変える、自発的に自分の好きな分野だけを勉強する等のことを工夫をすれば、自分の知能がどんどん拡張していくということが分かります。人は変われるのです。それを疑ってはいけません。
『システム1』や『ネガティブ自動思考モード』に依存することは、『固定知能観』を持って人生を生きているのと同じ。毎日考えるその95%は、無意味に繰り返し考え続けていること。そうしたことを繰り返す人に相応しい言葉は『成長』でしょうか。それとも『足踏み』でしょうか。自問してみましょう。私は『足踏み』だと心底から認めたとき、初めて人生を前に進めることができました。こればかりは自分で決めるしかないのです。
しかしとにかく、人は本当にアウトサイド(外部要因)の力に弱いですね。『システム1』でもってそれを早計に判断してしまうあたりも、いささか感心することはできません。さて、ここまで読んで、まだ『アウトサイド・イン』に依存したいという人はいるでしょうか。
外の環境が変われば自分も変わるという考え方。人はアウトサイド(外部要因)を重視し、あるいはそれに支配されることでしか生きていけないという考え方。
もしそうだというのなら、北朝鮮のような独裁国家で生きることに対し、何一つ文句を言ってはいけません。それとも、
という『お客様』のようなこと言いますか?困難なことはその他の要素に任せ、だけど自分こそは窮屈な思いを一切しない、もてなされる対象なのだと主張しますか?しかし残念ながらその主張をした段階でインサイド・アウトが重要だと言ってしまっています。ほどよくアウトサイド(外部要因)があるということは、後は自分で何とかするべきだ(インサイド・アウトであるべきだ)と言っているわけですからね。
よく考えればわかりますが、北朝鮮のような独裁国家は『アウトサイド・イン』の典型です。すべてを独裁者が支配(コントロール)するわけですからね。では彼らは幸せなのでしょうか。不満が一つもない?
Newsweek2018年3月23日号にはこうあります。
<平壌の政治の中心部の建物で政権打倒を呼び掛ける落書きが見つかり、北朝鮮は犯人探しや思想教育の徹底指示で大騒ぎになっている>
北朝鮮の首都・平壌で金正恩党委員長を批判する落書きが発見され、当局が捜査に乗り出した。平壌在住で中国を頻繁に訪れるデイリーNK内部情報筋によると、今月1日の午前4時頃、市内の4.25文化会館の建物の壁に金正恩氏を批判する落書きが発見された。当局は検問を強化し、保安署(警察署)は住民の筆跡調査にも乗り出した。北朝鮮において国家指導者は、公の場において言及する際には細心の注意を要するほど神聖不可侵のもので、批判したことがバレたら重罪は免れない。
(中略)北朝鮮の国民は、洗脳された「ロボット人間」ではない。制限されているとはいえ、海外の情報と接する機会も増えており、自分たちがどのような状況に置かれているかも知っている。だから、人々が金正恩体制に反感を募らせるのは当たり前なのだ。
参考
「金正恩を倒せ!」落書き事件続発に北朝鮮が大慌てNewsweek
不満はありますよね。当然。では日本その他の国はどうですか?北朝鮮ほどではなく、むしろ平和な国だと言われる日本。自由な国だと言われるアメリカ。その他世界中の国に目を向けたとき、そこでは本当に不満は一つもないのでしょうか。もし、どこに目を向けても不完全であるという印象を得るなら、それは人間が最高到達地点に達していないという証拠です。
上記の記事に『透明なドラゴン』という架空のエネルギーの話をしました。私は先ほどのような事例を通して、全くこの『透明なドラゴン』の実力を思い知るばかりですね。そこの記事に書いたいくつかの流行。例えば『PPAP』などは今どうなっているでしょうか。
人は本当にこのドラゴンにひれ伏していますね。ドラゴンのなすがままになってしまっています。そしてひとたびこの気まぐれな透明のドラゴンが去った後は、そこにあるのは『焼け野原』です。何もかもを焼き尽くし、残っているものは何もない。当時、『わかりやすいステータス』を身にまとっていた私にはこの『ドラゴンの片鱗』があり、いくつかの人はそれにひれ伏していました。しかし、ひとたび私の背後からこのドラゴンの気配がしなくなると見ると、彼らは手の平を返すように、態度を変えたのです。
松本人志と吉本興業の取った強気な態度の背後にあったのも、この透明なドラゴンの気配でしょう。ここで言う透明なドラゴンは『流行』というより、『エネルギー』のことですからね。一流タレントと超一流タレントの背景にあったのもそうです。逆に超一流タレントはドラゴンがあまりにも大きく豪快なので、
足元でチョロっと動いてお宝を盗んでもばれないだろう
と判断され、ぼったくられたのかもしれません。さて、その記事の中に『リヴァイアサン』というドラゴンがいます。リヴァイアサンというのは、旧約聖書に出てくる海の怪物のことです。イングランドの哲学者、トマス・ホッブズは、この怪物をその著書のためのメタファーとして使い、このあたりの問題について言及しています。
[画像]
茂木健一郎氏の著書『挑戦する脳』にはこうあります。
『リヴァイアサン』の中で、ホッブズは、人間はもともと『万人の万人に対する闘争』の状態にあったとした。誰もが自らの生存を目指し、利益を図り、そのためには他人を犠牲にすることを厭わない。そのような『自然状態』は余りにも耐えがたいので、人間はそのもともと持っていた自然な権利を『政府』に譲り渡す。そのようにして形成された政府は一つの『リヴァイアサン』として自由に意思を決定し、行動するようになる。
つまり、人間には元々『リヴァイアサン』のような猛獣的なエネルギーが備わっていたが、それを野放しにすることは耐え難いと考え、政府に譲り渡し、自分の代わりに政府に『闘って』もらうようシステム化したわけです。『自分は闘いたくないから』ですね。
もともと自由で、あらゆる権利を持っていた人間たちが、『万人の万人に対する闘争』を避けるために、契約を結んで権利の一部をリヴァイアサンたる『国家』に譲り渡す。国家の秩序を成り立たせているのは『法』である。国家は法を定め、個人は法に従う。個人は、法に抵触しない限りにおいて、自由に行動することができる。一方、国家の行為については、そのような縛りがない。まさに地上に存在する唯一の『リヴァイアサン』として、国家は自らの行動を選択し続けるのだ。
つまりこういうことです。
9.11テロの首謀者とされるオサマ・ビン・ラディンをアメリカの特殊部隊が殺害したというニュースは、国家が『リヴァイアサン』であることを思い起こさせる『事件』だった。法律に基づいて処罰するのではなく、実力を行使して殺害しています。民主主義の新しい希望として登場したオバマ大統領が、ヒラリー・クリントン国務長官ら政府の要人が居並ぶ『シチュエーション・ルーム』で、その一部始終を遠隔モニターし、殺害の指示を出している光景を映し出した写真は、歴史的な一枚となった。
このビン・ラディン殺害の実際は、『インターステラー』、『オデッセイ』等に出演するジェシカ・チャステイン主演の映画『ゼロ・ダーク・サーティ』で見ることができます。ゼロ・ダーク・サーティ、つまり『深夜0時30分』。それは実行されました。もちろん、多くの犠牲を払いながら。
それと同時に観るべきなのはバットマンシリーズ『ダークナイト』、『ターミネーター4』等に出演したクリスチャン・ベイルが主演を務める『バイス』です。9.11の時、大統領だったのはブッシュ大統領ですが、実は陰の実力者が他にいた。
『事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ』というセリフがありますが、この話については、『現場』である前者と、『会議室』である後者の両方を観ることで更に臨場感がアップします(I×V=R)。
ここまではわかりましたね。そして著者は、
等の例を出し、『彼らはこのリヴァイアサンを自分のものにしている』として、一目置いています。
リヴァイアサンとならなければ、輝かない時代。『挑戦する脳』にとっての、新しい地平が開けつつある。自由が幻想だとしても、その空気なしに私たちの意識は一瞬たりとも機能し得ない。リヴァイアサンたをもたらすのは、個人の覇気などではなく、因果的決定論の下で脳の動作を条件づける様々な因子。私たちは『リヴァイアサン』を育む環境について、真剣に考えるべき時代を迎えている。
つまりここで言う『インサイド・アウト』というのは、『リヴァイアサンを政府や他者に譲り渡すな』ということであり、『もし譲るならその譲った相手が何をしても文句を言うな』ということなのです。アウトサイド・インの図式に依存するということはつまり、独裁国家のような理不尽な支配下の中でも文句を言ってはいけないということになるのです。そしてインサイド・アウトの発想ができれば、このリヴァイアサンの超絶的なエネルギーを自分のものにできます。
『ドラゴンボール』を知っている人なら『フュージョン』や『ポタラ』、ピッコロがネイルや神様等とやった『同化』をイメージしてみましょう。リヴァイアサン性を手放さず、それを発揮するということはあのようなイメージで、本来持つ力を最大限に発揮することが出来る(フュージョン等は別々の力の融合ですが)。
ただこれは私がドラゴンボールが好きだというだけの、独特の表現ですけどね。とにかく言いたいのは『もったいない』ということ。リヴァイアサンを手放すということは、大きな力を損失することを意味します。
フロイトはこう言い、
ゲーテはこう言い、
バーナード・ショーは言いました。
彼らの言葉を『人間の本質を言い当てた言葉』と解釈するなら、これらは韓非子の主張と同じことを指し示すものとなります。しかしそうではなく、これらの言葉が『人間のリヴァイアサンを揺り動かす啓蒙』だと解釈すれば、彼らは暗に人間の主体性を応援しているのです。
と言われてすぐにあきらめるような人間に、大切に育てた娘はあげたくありません。つまり、このような言葉を受けても、韓非子たちのような言葉を受けても、
何だと!?よーし、やってやろうじゃないか!
と奮起し、エネルギーを燃やすことが重要なのです。私は先ほど挙げた北朝鮮の反発運動をした人々にも『リヴァイアサン』を感じます。人間は、モチベーション2.0が限界ではないのです。モチベーション3.0だからこそアウトサイド・インの図式に反発し、自分の人生の自由を主張するのです。アウトサイド・インの図式に甘んじている人は、まるで『お客様』です。それこそ『自分が特別な存在』だと思っている。しかし実際には『人任せ』で、リヴァイアサン一つ操ることが出来ない『未熟者』です。彼らはもてなされる対象などではなく、『戒められる対象』なのです。
子供はまさに未熟者であり、戒められる対象です。しかし子供に対して言う場合は『正しい方向を教えられるべき対象』とする方が正しい。壁にぶつかって困って泣いている子供を慰め、勇気づけることは必要。だが、それよりも『重要』なのは、正しい方向(解決策)を教えること。未成年だからといって罪を犯していいということにはならない。
また、北朝鮮のような『最初から独裁国家だった』環境で生まれた人に対しては、『人任せ』だと一辺倒に切り捨てることはできず、ある種やむを得ない。しかし注目したいのは脱北者やデモを起こすような人間の行動です。
トマス・ホッブズは言いました。
私はこの言葉を見たとき何も勉強していない状態だったので、解釈で、『『存在』がないのだ。だとしたら義も不義も、何もかもない。』と書いていますが、これはこの孔子や韓非子たちの『法と主体性』の話と照らし合わせると、こう解釈することができます。
『リヴァイアサンを国家に譲り渡し、法律を用意してもらう。それができないなら、孔子の言うように人間は主体的に生きるしかない。しかし、本来はそのような意識レベルの高い人間こそが理想の人間像であり、法律など人間が考えた規制の一つに過ぎない。その法律が出来てからこの世から犯罪や不義は消えたのだろうか。消えていないのならこの現状は人間の最高到達地点ではない。この世から一切の不義をなくすためには法などに頼らず、生きている人間全員が主体的に生きるべきである。』
法などの『強制的な矯正』に人間が頼らなくなったとき。それが人間が『最高到達地点』に達したときなのだ。実際の解釈はさておき、言葉だけを見ればそう解釈することもできます。
ただし、『では法律をなくせばいいのか』となると、恐らくすぐにそれをやるとこの世界に大きな亀裂が生じるでしょう。法律や宗教等の強制的な矯正が、韓非子の言うように人間を支えていることは事実です。ただ問題なのは、これをある種の『ドーピング』と考えたとき、本当に人間が自立するのは薬物依存をやめたときでもあるということです。
うつ病の治療は、『抗うつ剤』と『抗うつ剤+認知行動療法』で治療した場合では、後者の方が再発率が圧倒的に少ない事実があります。認知行動療法とは、『考え方の歪み』を治す治療。『考え方の最適化』と言ってもいい。つまり、『インサイド・アウト』の発想を促すことでうつ病の再発率は飛躍的に少なくなるのです。
ただし、リヴァイアサンを自分のものにし、自らの手でそれをどうにかしようと思うなら、気を付けなければならないこともあります。この世には無法地帯があることを知っているでしょうか。例えばそれは、インターネットの世界です。インターネットが登場する前と完全に普及した今を知る30代の私は、この世界が『現実世界とは違う異質なものである』と感じると同時に、『人間の本性を浮きだたせる世界』であると感じています。ゲームやオンラインの世界をディープに体験するなら、以下の映画を観るのがいい。スティーヴン・スピルバーグの映画『レディ・プレイヤー1』です。
『ゲーマー』、『サロゲート』、『サマーウォーズ』等、アバターを使ってオンラインやバーチャル体験をイメージできる映画はいくつかありますが、この映画がその最先端にあると言えるでしょう。そして、このテーマで最初に紹介するにふさわしい映画です。というのも、実はこの映画は少し『綺麗』です。本当はもっと禍々しい人間の本性というものがあります。例えば、
これらの多くの人が集まるインターネットの世界は、まるで無法地帯でです。匿名の人間が本名や実世界では言えないことを言いたい放題に言って、何の責任も取らない。もちろん、半分はまともな人だが、私の見る限り50%のユーザーは、無責任です。
子供が多いこともそういう印象に影響しています。
『2ちゃんねる』創始者のひろゆき氏は、彼らのことを『無敵の人』と呼び、こう語っています。
一昔前までは、社会的信用の無い人の発言力は居酒屋で騒いだり、雑誌に投稿したりする
ぐらいしかなかったので、社会的影響力が少なかったのですね。でも、現在はインターネットを使った犯行予告をすることで、警察官を特定の場所に動員 したり、飛行機を遅らせたり、警備員を走らせたりするぐらいの発言力が手に入ってしま わけです。彼らは、それなりの社会的影響力を行使できる状態にあるのですね。でも、欲望のままに野蛮な行動をする彼らを制限する手段を社会は持っていなかったりすっている るわけです。ちなみに個人的に、こういう人を「無敵の人」と呼んでいたりします。
無敵の人に命令系統があって、ボスを捕まえたら解決するってものでもないのですね。無敵の人が何かをしたら、無敵の人を捕まえて、一定期間だけ閉じ込めておくことは出来
ますが、一定の期間が経つと無敵の人は社会に戻ることが出来るわけです。んで、無敵の人は気が向いたときに社会を混乱させることが出来ますが、無敵の人が社会 を混乱させる前に無敵の人を止めることは誰にも出来ないんですよね。3回刑務所に入ったら死刑とか、野蛮な刑罰のような気がしますけど、こういったルール でも作らない限り、現状には対処出来ないんじゃないかなぁ、、と思う昨今です。
インターネットで犯行予告をして残忍な事件を起こした人を知っているでしょう。韓国では、こうしたネットの心無い書き込みのせいで自殺に追い込まれたタレントもいます。その『心無い書き込み』について思い知ることが出来る映画は、ディズニー映画『シュガーラッシュ・オンライン』です。
これはディズニー映画であり、全体的にもちろん子供が楽しめるようになっていますが、この作品は他のディズニー映画と少し違って、現代を生きる人間の心理状態をよく分析されて作られた映画です。Google、Facebook、pintarest、Instagram、Twitter、Amazon、イーベイ、youtube等はもちろん、現代を生きる人々なら皆心当たりがある情報が盛りだくさんで、子供から大人まで楽しめる贅沢な映画です。
主人公のラルフとヴァネロペは、ひょんなことからネットの世界で大きな借金を背負ってしまい、それを返すためにお金を集めることになります。そこで、動画サイト等を通し、『いいね』を集め、人気を得てそれをお金に変えるアイディアを教えてもらいます。運よく順調に事は進むのですが、しかしラルフがネットの世界の『闇』を覗いてしまいます。彼に対する心無い悪口がつぶやかれ、書き込まれているのを見てしまうのです。それも大量に。
そしてそのほとんどが当然『システム1』で感じた感想ですね。何も考えず、ただ自分がその時に感じたことをそのままつぶやく。それがインターネットの世界です。そして私の話で言えば、もっともっと前に出れば私のこの対象になるのです。そう考えると、あれくらいで文句を言っているくらいなら前に出ることはあきらめた方がいいということですね。あれを逆にハインリッヒ・ハイネの言ったように受け止めるくらいの度量が必要です。
こういうことが、『サマーウォーズ』や『レディ・プレイヤー1』には描かれていない、ネットの世界の『闇』の部分なのです。目を覆いたくなる、出来るなら見たくない。だから見て見ぬふりをする。しかし実際に起きてしまっている。それが現実なのです。そしてネットの世界の闇は、単なる悪口だけにとどまりません。今言った『サマーウォーズ』にも関係してきますが、ロシア・中国を拠点に国際化する凶悪なネット犯罪者たちの全貌に迫ったノンフィクション、『サイバー・クライム』にはこうあります。
日本企業に対してもDDoS攻撃を使った恐喝事件が発生している。一例を紹介しよう。ネット上でゲームサイトを運営する某企業に、ある日突然1通の脅迫メールが届いた。『今から攻撃を開始する。被害を受けたくなければ100万円払え。』ほぼ同時にウェブサイトが高負荷によってダウンする。典型的なDDoS攻撃の手口だ。(中略)『徹底して戦い抜いたことで社員の団結力が高まっただけでなく、顧客からの信頼も勝ち取り、売り上げ増加にもつながるなど、最終的には強迫に応じずによかった』と、この会社の社長は語っている。ただし、警察に被害届を提出したものの、書類の記入に時間を取られるばかりで、『サイバー空間の中では警察は頼りにならない』と感じたとも言う。
これは2011年に出た本ですが、少し前までの日本で考えると、警察ですらもこの手のネット犯罪に対して全く当てにならない状況が蔓延していました。
2004年8月 | 国内8省庁へのDDoS攻撃・攻撃元は不明 |
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2004年9月 | 小泉首相(当時)の靖国神社参拝に抗議し、中国から靖国神社へDDoS攻撃 |
2005年3月 | 外務省へのDDoS攻撃・攻撃元は不明 |
2005年4月 | オンラインゲーム『ファイナル・ファンタジー』『ラグナロクオンライン』にDDoS攻撃・攻撃元は不明 |
2006年6月 | 韓国から投稿掲示板『2ちゃんねる』へのDDoS攻撃 |
2006年9月 | 海外の複数の攻撃元から、日本銀行へのDDoS攻撃 |
2007年2月 | ドワンゴの人気サイト『ニコニコ動画』へDDoS攻撃・攻撃元は不明 |
2008年4月 | 韓国から『2ちゃんねる』へのDDoS攻撃 |
2008年12月 | 韓国から『2ちゃんねる』へのDDoS攻撃(フィギュアスケートグランプリファイナルで浅田真央が優勝した腹いせとみられる) |
2009年2月 | 韓国から島根県のウェブサーバーに対するDDoS攻撃・日本からの報道で韓国サイトも被害を受けた |
2010年2月 | 韓国から『2ちゃんねる』へのDDoS攻撃(キムヨナ選手の採点疑義関連) |
2010年9月 | 尖閣諸島沖中国漁船衝突事件への抗議を理由に中国から防衛省、警察庁のサイトにDDoS攻撃 |
膨大なトラフィック(アクセス)を使ってサーバーに高負荷をかけ、サーバーをダウンさせる攻撃のこと。そうなればWebサイトが一定期間使えなくなり、大きな混乱や、経済的なダメージを負う。
サイバー犯罪に全く無頓着だった時代は、まさにハッカーやサイバーテロリストたちのやりたい放題だったわけですね。もちろん、それは現在進行形で続いていることではあります。しかし、日本というのは平和であるがゆえに、このような不正問題に対する対策を考えていないのです。
youtubeというのは10年以上前、もっと『エロ』や『グロ』が当然のようにありました。人が死ぬような映像も簡単に見れた。Instagramも、ちょっと前までは普通に過激な映像が流出していましたよ。見てショックを受けるようなものがたくさんあった。人集め(金儲け、虚栄心を満たす)目的で過激なことをやっているyoutuberもどきの人が逮捕されたりする話もよく見ますよね。『フィギュアスケートグランプリファイナルで浅田真央が優勝した腹いせ』で攻撃を仕掛けてくる人がいるというのは、何とも残念な話です。そこにあるのは妬み、嫉みの稚拙な感情ですからね。しかしインターネットやオンラインゲームの世界ではそういうことは当然のように行われています。
私も『レインボーシックスシージ』というゲームをやっています。これは覚えることが多く、複雑で、長期間できるゲームなので、新しいゲームが出るまでの時間つぶしにもいいし、長い人は4年間ほどやっている人気のゲームです。例えば以下の動画は日本のチームが世界大会で善戦したときの動画ですが、ゲームの動画で急上昇1位を取っています。ジャニーズを辞めてこのゲームのプロになる人もいるくらい魅力があるゲームです。
確かのこのゲームも、8割ほどの人はまじめにやっています。サバイバルゲームのようなもので、人の闘争本能を燃やすことができ、これがなかなか楽しい。男には闘争本能がありますからね。戦争→サバイバルゲーム→ゲームという順番でその安全性も上がりますから。『eスポーツ』もこれからどんどん普及していきますからね。こういう世界もあるのです。
エレクトロニック・スポーツ。コンピュータゲーム(ビデオゲーム)をスポーツ・競技として捉える際の名称。
しかし残りの2割ほどはひどい。5対5のチームでやるゲームなのですが、ゲーム開始直後に仲間を撃ち殺したり、その死体を執拗に撃ち続けたり、次のラウンドで仕返ししようにも、徒党を組んでいて、違う仲間が後ろから撃ってきたりと、理不尽なことをしてくるユーザーがいるのです。その理由は『自分より強い』とか、『自分より弱い』とか、『何となく』とか、色々です。
これは言うなれば、戦争で味方に後ろから撃たれ、助けを求めるとその瀕死の状態の自分に更に執拗に銃で撃ち続けるようなものです。しかも恐らくは徒党同士で高笑いしている。戦争→サバイバルゲーム→ゲームという順番でその罪のレベルも小さくはなりますが、やっていることはそういうこと。とても理不尽なことです。
PS4ではそうですが、PC版となると今度は『ハッカー』の問題が出てきます。違法行為同然のズルい技を使って勝負をめちゃくちゃにしてくるのです。PC版で活躍するプロプレイヤーたちは、彼らに心底から殺意を覚えているような人もいるよですね。なぜそこまでしてゲームをするのか、輪を乱すのかわからないと口をそろえます。まさに無法地帯ですね。
子供が多いことも影響しています。
もちろん他のゲームでもそうでしょう。真面目にやろうとしても、そうじゃない人が必ず足を引っ張る。私も何度彼らに対して殺意を抱いたことかわかりません。まあ、私の10代の方がもっと悪かったので何とも言えませんけどね。ゲームの世界で暴れるくらいならまだ易しい。しかし皆が彼らのことを『害悪プレイヤー』と呼ぶのは、プレイヤーとしてやっている私もうなづける話です。
ちなみに何のゲームかは言いませんが、プロプレイヤーの中にもこの『死体撃ち』をする人がいて、その人の場合普段の素行も悪く、スタメンを外され、引退に追い込まれてしまいました。
ここで言う『殺意』とはもちろん『殺してしまいたい』ということではありません。心をかきむしられ、とても嫌な思いをするけど、ただそれだけでなすがままであれば、相手だけが憂さ晴らしができ、自分はネガティブの闇に堕ちるだけです。ですから、それに歯向かってやる、負けてたまるか、という気持ちが大事であり、殺意という言葉を使った方がその闇に『対抗』できる、と考えるからそう言うだけですね。このエネルギーを燃やせない人は、ゲームを辞めてしまいます。それじゃ相手の思うつぼですからね。
なんていう暴言も普通に飛び交う世界ですから。子供が多いですからね。まるで『学校』のようです。そういう相手には不撓不屈の精神で挑まなければなりません。ハッカー問題も、運営側やユーザーが断固としてそれを許さない態度を持ち続けることで、いくつかの対策が生まれてきました。このあたりは警察が断固として犯罪者の思うつぼにさせないようにするのと同じようなことでしょう。
ここで出てきた『殺意、暴力的なゲーム、憂さ晴らし、闘争本能』に関して首をかしげる性格穏やかな人がいるかもしれませんが、最後の記事まで読めば違った見解を持てるようになります。
最近になってようやく掲示板やネットに書かれた書き込みを消すことが出来る動きも見られてきました。youtubeにも規制が入り、きわどい動画を上げている人はBANされたり、消されるようになりました。このゲームにも少しずつ害悪プレイヤーに対する対処法が出来てきています。
動画を削除されること。あるいは動画チャンネルごと削除されること。
しかし、それでもそうした事件はなくならないでしょう。事実、規制が入ってもその網をかいくぐって彼らは害悪を続けています。彼らのことを『無敵の人』だと言ったひろゆき氏の発言は常にきわどいものがありますが、完全否定することはできないのです。まあ厳密に言うと『無敵だと思い込んでいる人』ですけどね。しかしたとえそうだとしても、思い込みや勘違いで人が死ぬこともありますから。それを脅威だと考えることは避けて通れません。
かつて、ネットでは堂々と『合法ドラッグ』が売られていて、援助交際も自殺ほう助も、当然のように行われていました。いじめによって人も死ぬ。違法行為をあっせんする。サイバーテロで多大な損害を与える。害悪プレイヤーが人の心を虚無にする。インターネット黎明期から見てきた私は、まさにこの世界は無法地帯そのものであるという印象を持ってしまいます。
インターネットというのは日常に未解決問題を抱えていて、心が鬱屈としている人ほど暴走しやすいものです。卑屈になり、人を羨んでしまうような人は、自信がないゆえにこう考えてしまいます。
もし自分に力があったら…
そういう人が『無敵の人』になると暴走してしまうわけですね。暴走してしまう理由は簡単です。『力を持つにふさわしくないから』です。つまり、まだその力に慣れてないんですね。それを入れる器も整っていない。だから持て余してしまい、暴走させてしまいます。それが『暴言』であり『暴力』ですね。
子供はまさにその対象ですね。
そういうことがよくわかる映画があります。『クロニクル』です。この映画の主人公も、やはり子供です。
もし自分が彼と同じ環境で生き、同じ立場にあり、同じ出来事が起きれば、我々は彼のようにならないと断言することができるでしょうか。
とにかく、韓非子が今を生きていたらきっとこう言うでしょう。
ブッダはこう言いました。
『人間の欲望というものは、たとえヒマラヤの山を黄金に変えたところで満たされることはない。』
私もこの一部始終を見ていて、つくづく人には規制が必要だという印象を受けます。それは事実なのです。私はこのインターネットの世界というのは、人間が『疑似無法地帯体験』をした(する)場所のように見えます。
無法地帯だったらどうなるんだろう?
そうした好奇心から彼らは暴走し、そして人が死ぬまでに至り、社会現象を巻き起こし、結局は法律(規制)によってその暴走を抑えた。韓非子やマキャベリやナポレオンは、とても鋭い的を射ているのです。しかし、私はそれに腹が立っている。私はこれを人間の最高到達地点だと認めません。
確かにアンディ・ウォーホルの言うような時代がやってきました。しかし、リヴァイアサンを操る能力がないのにそれを安易に召喚してしまう子供のような人がたくさん出てきてしまったことは、我々に再度リヴァイアサンを召喚(所有)するリスクとデメリットを教え、我々に保守的な発想を植え付けてしまっています。
賢いyoutuberたちは、失敗をしながらもそこから学び、時間をかけてリヴァイアサンを操る術を身につけています。しかし中には致命的な失敗をしてニュースを騒がせたり、逮捕されることもあります。彼らにはこの猛獣を操ることはできなかったのです。
これだけは民衆に言いたい。このことだけは、肝に銘じて覚えておいてほしい。為政者であろうと指導者と呼ばれようと、支配者の存在しない社会は、あったためしはないのである。(マキャベリ『政略論』)
人が『力』を持ってしまったらどうなってしまうか。そういことがわかるのは人が『無敵の人』になったときだけではありません。例えば『お金』です。経済学の巨人と言われたガルブレイスは、1636年のチューリップ狂の経験以来、 何も変わらないある法則を見極め、こう言っています。著書『バブルの物語』にはこうあります。
『個人も機関も、富の増大から得られるすばらしい満足感のとりこになる。これには自分の洞察力がすぐれているからだという幻想がつきものなのであるが、この幻想は、自分および他の人の知性は金の所有と密接に歩調をそろえて進んでいるという一般的な受け止め方によって守られている。』
『自分および他の人の知性は金の所有と密接に歩調をそろえて進んでいる』。つまり人というものは遥か昔から、
人の知性と所有するお金の量は、比例しているんだ!
と考えてしまうということです。自分は選ばれた人間であり、人の上に立つ人間。その証拠として自分の手元にこうしてお金があるのだと、人はそう考えてしまいがちになります。人がお金によって自分を見失うことが観れる映画はたくさんあります。『ゲティ家の身代金』、『モリーズ・ゲーム』、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』、『Wizard of Lies』そのすべてに目を通したいところです。この4つの映画はすべて実話だからです。
そんな中今回取り上げるのは『プリティ・ウーマン』、『HACHI 約束の犬』のリチャード・ギアが主演を務める『キング・オブ・マンハッタン 危険な賭け』。
事業は順調。幸せな家庭もある。そして、『愛人』もいる。何もかも順調なはずでした。自分にはこれだけの要素の中でうまく立ち回れる才能と才覚がある。自分は選ばれた人間なのだ。自分には特権が与えられているのだ。心底でそう考えていた彼は、ある時、その運命の歯車を大きく狂わせる事故に遭います。このままではまずい。すべてが終わってしまう。そんな時彼はこう思った。
そうだ。昔世話をしたあいつに金を払って身代わりになってもらえれば…
彼はそこでもお金で自分の思い通りにしようとしてしまいます。これはまさしく以下の黄金律を見事に突いた映画。『力』を手に入れる資格がない人間がそれを得ると、人はその力を制御できず、暴走させてしまいます。リヴァイアサンを自分で使いこなす際に気を付けなければならないのは、自分がその『猛獣』の『猛獣使い』になれるか、その鍛錬をしてあるかということです。
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