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この記事は下記の記事の続きです。
法律と違って、このマニュアルから逸れても別に罰せられることはありません。ただ虚無に陥るだけです。もちろん結果的には罪を犯して罰せられた、という事実が起こるかもしれませんが、それはこのマニュアルが罰したのではなく、法律がそうしたのです。そう考えたときこのマニュアルは、インサイド・アウトの発想を応援しやすい。つまり、法律というアウトサイド(外部要因)で支配しようとすると、
法律で罰せられるのは嫌だからやめよう。
という、まさに韓非子の言った通りの心理状況(アウトサイド・インの発想)になるわけですが、このマニュアルはただ断固としてここに存在しているだけであり、『人が虚無に陥ったなら、それは真理から逸れた証拠だよ』と伝えているだけなので、
たしかにあの通りになったか。だとしたら自分次第で状況は変えられるということか。
として、インサイド・アウトの発想が『答え』なのだと暗に伝えることができます。『支配する法律』と『利用するマニュアル』の違いですね。このマニュアルは基本的に『真理に忠実』に書くことを意識していますが、真理というものはそもそも、人間を直接罰することはありませんよね。ただ断固としてそこに存在しているだけです。
法や権力や宗教等の『強制的な矯正』に『支配』されるのではなく(アウトサイド・インになるのではなく)、自分の意志でこのマニュアル(真理)を『利用(活用)』していく(インサイド・アウトになる)。人々がそういう主体的な人になることを応援したいということも、私がマニュアル作りに徹する理由の一つです。
『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうあります。
儒教は、徳や礼を重視し、法よりも慣習によって統治します。しかしそれは理想論で、現実には犯罪に対処しないといけません。そこで、法家の考え方も、取り入れた方がよい。秦は、法家を重視し、儒教を弾圧したために、十数年しかもたなかった。むしろ、儒教と法家の両方の理論を、あわせて国家を運営すべきだ。秦の統一帝国を継承した漢は、そのように考えたと思います。
儒教の考えは、徳による支配ですから、支配者がしっかり行動していれば、ほかの人々の行動も正しくなると考える。しかし、いったいどうやって正しくなるのかというプロセスの論理がなく、マニュアルもありません。法家は、法律といったかたちで、そのマニュアルを用意します。儒教と法家が結び付くことで、強力な統治のツールが生まれました。
少し余談となりますが、ここで出てきている『秦』とは今、この日本の若者のココロを掴んで離さない『キングダム』の舞台となる国のことです。
この物語は、秦の始皇帝がその座に就くまでの道のりを描いた物語。ONE OK ROCKの音楽が心に響きますね。私はこういう壮大な音楽や映画が好きです。また、このマンガも好きです。主人公の信は、『ドラゴンボール』の孫悟空、『ワンピース』のルフィと同じように、『純粋な野心』を持っていて、それが世の人々の心を引きつけるのです。彼らはまさにこの『リヴァイアサン』を全開にして生きているような男たちです。この信が、予告動画の最初の方でこう言うシーンがありますね。
先ほどのアリストテレスの言葉をもう一度見てみましょう。
実はこの漫画は、最初の方ですでに結末が発表されています。この信が奴隷の身分から、秦の大将軍に成り上がるのです。始皇帝となる嬴政(えいせい)と力を合わせ、上昇志向を燃やして駆け上がる。その過程を楽しむのがこの漫画の見どころなんですね。つまりは、アリストテレスの言う通りですね。人が主体性を燃やし、リヴァイアサンをいかんなく発揮すれば、最初に奴隷だったとかそうじゃないとかは関係ないのです。(私はフィクション、ノンフィクションを関係なく考えますので)
この映画は予想以上に見ごたえがありました。確かに戦は真理から逸れた行動。好ましい人間の姿ではありません。しかし、この時代は常に戦が絶えなかった。それが現実のことなのです。多くの命が無意味の血を流した。そんな世界を一掃するためには『中華統一』しかない。しかしそのために力づくの武力行使も必要だったという事実は、ただただ考えさせられるばかりです。いくら机上で考えてばかりいても、事件が起きているのは『会議室』ではない。では、もし自分がこの時代に生まれたならどうすればよかったのか。そういうことを考えながら映画を観てみましょう。
さて、このキングダムは、始皇帝が中国を統一したときに終わる予定なのですが、しかし実際には終わった後の秦は少し雲行きが変わります。見事史上初の中国統一をした秦は、法家を重視し、儒教を弾圧したために、十数年しかもたなかった。つまり、法律だけでも駄目、儒教だけでも『よくわからない(目に見えない)』から駄目、ですから秦の統一帝国を継承した漢は、これらを統合して考え、最強の統治ツールを作ろうとしたわけです。
ここに『マニュアル』と出てきましたね。法律のことをそう呼んでいるわけです。しかし私が言うマニュアルは『真理そのもの』のことを指すので、法律とは違います。逸れても罰されることはありません。ただ、虚無に陥るだけです。
私はこの参考書を読む前に『マニュアル』という言葉を思い浮かべました。ですから、これに影響されてそう言ったのではありません。それに、法律と違って真理は罰さない。人間を通して罰することはありません。人間は、間違えますからね。私が最初の方に言った言葉を思い出してください。
私はその『強制的な矯正』をするのにふさわしいのは、『恒久的に未熟な人間』ではないと考えています。
このあたりが韓非子や中国と考え方が違うところです。つまり私が言いたいのは、
『人間の主体性を応援するマニュアルが欲しい』
ということなのです。そしてそれはアウトサイド・インの発想を促す『法律』や『宗教』ではない。そう考えると儒教に近いようにも思えますが、全然違います。私は孔子ほどの大学者になるつもりはありませんからね。ただマニュアルを作り上げたいだけです。
『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうあります。
とは言え、過ちを犯した者に対して死刑、追放、全財産の没収といった現世の罰を科す、という原則にソクラテスは反対を唱えない。ただし、罰が公正に下されることが条件である(『ゴルギアス』470C)(中略)ブッダとイエスも、罪を犯した者に罰を与えることは必要だ、との考えを表明している。この先で論じるように、愛、赦し、そして慈悲は、ブッダとイエスの教えの柱とも呼べる概念であるが、正義の役割とその帰結である罪人への罰を否定するものではない。しかし、二人が考える罰は、人間が作った法律の厳格な適用を必ずしも意味しない。(中略)そして、人間と人間が作った法律にとっては罰に値すると思われる行為も、神の目には必ずしもそうは映らない。
先ほど『人間を通して罰することはありません。人間は、間違えますからね。』と書きましたね。これはこの引用を受けて書いたのではありません。このページは2か月にわたって強化しているので、つぎはぎ的に補強されています。この本にはまさに『人間の作った法律にすべてを任せない』というブッダとイエスの考えが見られますね。そしてソクラテスも同じことを言います。
だと。しかしソクラテスはその法律によって無実の罪なのに死んだわけです。法律は確かに必要。しかし、ソクラテスは悪法に殺され、儒教を弾圧して法家を重視した秦が、十数年で滅んだ。ここからわかるのは、
法律は確かに必要だ。だが、”重要”ではない。何しろ、法律は恒久的に未熟だ。なぜなら、それを作る人間が恒久的に未熟だからだ。
ということなのです。
日本のある弁護士がこう言っていました。
この姿が本当に人として在るべきなのか、首をかしげざるを得ません。例えば、『サマーウォーズ』、『バケモノの子』等を作った細田守監督の映画『未来のミライ』では、子供が自転車に乗ろうと何度も転んで奮闘する姿を、親が陰からひっそりと、『愛する』姿を見ることができます。ここで言う愛は、子供の主体性を見守ることです。手助けをしてしまったら、子供が自立できない。すべての子供を持つ親は、この愛について熟考したことでしょう。
人が人にできることというのは本当に『強制的な矯正』でしょうか。それを選択することによって失われ、埋没するものはないのでしょうか。例えば大金を払ってダイエットの講習を受けたとします。それで短期間でダイエットが出来たとします。しかしそのうちリバウンドしたとします。では、このダイエットは『成功』ですか?
『7つの習慣』にはこうあります。
私たち夫婦も無意識のうちに、個性主義的な解決策を息子に対して押し付けていたのだった。私たちは、子供が良い行動をしたり、あるいは良い成績を取ったりすることで、社会的な評価を得ようとしていた。そして、そうした尺度で見ることの息子は完全に不合格だった。つまり、良い親でありたいという気持ちが強すぎたために、息子に対する気持ちや見方が大きくゆがんでしまっていた。息子を助けたいという気持ち以外に様々な事柄が、私たちの行動や態度に影響していたのである。
(中略)私たちは深く考え、自らの信条を鑑み、祈った。やがて息子の独自性が見え始めた。そして、彼にはたくさんの可能性が秘められていることを発見した。私たちは心を落ち着かせ、彼の邪魔にならないようにし、彼が自分の独自性を表現できるようにしようとした。親としての極めて自然な役割は、息子を肯定し、愛し、尊び、彼の成長を楽しむことだと理解した。
(中略)月日が経つにつれて、息子は静かな自信に満ち始め、自分のペースで花を咲かせた。社会的な基準からしても、学校においても、友達との関係においても、そしてスポーツにおいても、目を見張るほどの成長を見せた。それは、通常考えられる成長の速度をはるかにしのぐ急ピッチなものであった。何年か経ち、彼はスポーツでは州のベスト・プレイヤーに選出され、学校ではクラス委員に選ばれ、非の打ちどころのない成績表を持ち帰るようになった。そして、誰とでも気さくに明るく接することが出来るようになった。この著しい成長は、単に周囲の要求に応えようとした努力の結果ではなく、息子が自分本来の姿を素直に表現した結果だと確信している。
マニュアルというより、私が作ったものなど未熟だから、厳密に言えば『真理』ということです。私の作ったものには落ち度がたくさんあります。時間をかけて少しずつ穴を埋めていき、強化していることを考えても、私の作ったものに依存するべきではありません。
例えば私が太陽を見ながら、太陽の絵を描くとします。プロフィールにある動画を見ればわかりますが、私の模写は中々のものです。しかし、確実ではない。落ち度があります。私の絵を通して『太陽がどのようなものか』を感覚的に掴んでもらいたいのです。(ちなみに私がもし一枚の絵に時間をかけるなら、より実際に近い模写ができます。)
しかしこの最強の統治ツールを使っているはずの中国ですが、皆さんはどういう印相を持っているでしょうか。もちろん、中国人には大勢の良い人がたくさんいます。それは間違いなく冒頭で断っておかなければなりません。私も以前中国に行ったのですが、その時に私の周りにいた人たちは皆とても良い人でした。とても仲良くなりましたよ。
ただ、印象はどうでしょう。やはり荒んでいますよね。私は以前、中国へ一週間ほど行きましたが、そこで当然、現地の国の人たちと同じように生活をしました。私が行った『深圳(しんせん)』という場所は、中国出身の人からすれば全然都会であり、発展しているということでしたが、私はその街で、日本では考えられない光景をたくさん目にしました。
等々、衝撃的な光景が広がっていました。ですから、日本で中国人がたまに騒ぎを起こしますが、中国ではそういう行為は当たり前なんでしょうね。まるで日本にいる不良中国人と言われる人たちが大勢いる、そういう印象を持ちました。不良交友ではないはずのそのビジネスパートナーの相手の社長は、
と真顔で言っていましたが、やはり日本の治安と一緒に考えることはできなさそうです。衝撃的だったのは『死体を無視してそれを横切る人々』の映像ですね。中国のそういうニュース映像を見たとき私が思ったのは、
日本人ほど命を大切にされていないなぁ
という感想でした。逆に日本はどうでしょうか。旧皇族・竹田家に生まれ、明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰氏の著書『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』にはこうあります。
日本人は世界最良の客
また、次のような調査結果もある。世界最大級のオンライン旅行会社のエクスペディアは、平成21年(2009)に、世界のホテルマネージャーに対して、各国観光客の国別の評判を調査した『エクスペディア・ベストツーリスト2009』を発表した。これによると『ベストツーリスト』(最良の観光客)に選ばれたのは日本人で、しかも3年連続であるという。調査は欧州、アメリカ、アジア太平洋の地域別で集計され、日本人はすべての地域で1位に評価された。
更に日本人は下記の項目で1位に選ばれ、その他すべての項目でほぼ上位に入っていて、2位の英国人の52ポイント、3位のドイツ人の51ポイントを大きく引き離し、71点の総合評価を得ていたようです。
また日本が東日本大震災で余計な犯罪を増やさなかったことを見て、世界中の人々が『何て誇り高き民族なのだ』として、絶賛したことがあります。さらに、電車事故で、ホームと電車の間に落ちてはさまった人を助ける為に、その場にいた人々が協力して電車を押して動かし、命を助けたというニュースを受け、『日本がまた世界を驚かせた』として、大きな話題となったこともありました。
アメリカは、
イタリアは、
香港は、
ロシアは、
タイは、
世界中の人々が、その『日本人の固い絆と高潔な精神』に敬服し、畏敬の念を抱いたのです。とにかく日本人は『命』を大切にしていて、それ故にまじめで、サービス精神(奉仕の心)があり、利他的で、人を優先でき、だからこそ自己犠牲ができ、きっちりしていて、繊細なモノづくり等の仕事に長けているということでしょう。私はこのニュースを見たとき珍しくもすぐに保存しましたね。いつかどこかでこのことを話す日が来るだろうという気がしたのです。
では、日本の『最強の統治ツール』は何でしょうか。もう一度『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』を見てみましょう。
日本は『和の国』と言われるが、『なごみの国』と表記してもいいだろう。『和』の精神的気質が日本人を日本人たらしめている。『和』とは主体性を堅持しながら他と強調することを意味する。日本は縄文時代から、家族の和、地域の和、国同士の和、大自然と人類との和など、様々な次元における『和』を大切にはぐくんできた。ゆえに、日本の家庭には笑いが絶えず、農村は豊かで国は栄え、国際社会と良好な関係を保ちながら、大自然との調和を実現してきた。いずれも出発点は『和』の精神文化であって、これは日本の大きな特徴の一つである。
とても重要なキーワードが出てきましたね。『『和』とは主体性を堅持しながら他と強調する』ということです。日本は第四次川中島合戦や長篠の戦いのように、損耗率の高い大規模な合戦はありましたが、それはあくまでも軍人同士の戦いであり、民間人が攻撃の対象となることはありませんでした。結果論的に応仁の乱等で民間人が犠牲になることはあっても、民間人を殺戮の対象にするという発想はあまりなかった。この理由は天皇が民を『大御宝』として大切にしてきたことや、日本人が古来から育んできた和の精神が無益な争いを排除する効果を発揮してきたと著者は言っています。
民は天皇の宝である、という考え方。
確かにこの『他者を思いやる』気持ちが前提である『和』の精神が日本人にあるということは、先ほどの震災や事故の際の例を考えても、うなづける話ですね。そして世界中の人がその考え方に対して驚嘆し、畏怖と称賛の念を抱いているのです。
おそれおののくこと。
称賛だけではなく、なぜ『畏怖』の念を抱いているかというのは、例えばこの本にもある『イラク人の日本人に対する感想』からも浮き彫りになります。彼らは日本と言って思い浮かべることは、SONYでもトヨタでもなく、『明治維新』だと言います。多くのアラブやアジアの国々が国を破壊され、植民地化されたなか、日本だけは独自の力で近代化を達成し、国を守り、有色人種の中で唯一列強に加わることが出来たことに、畏怖と称賛の念を抱いているわけです。
巨大なロシア帝国に戦争を挑み、世界最強といわれたバルチック艦隊を撃破したことは驚きの一言。また、結果的には負けたがあのアメリカに攻め込んだのは後にも先にも日本だけだった、というのは、世界中の人々の目を丸くしたわけですね。アメリカの文化人類学者ルーズ・ベネディクトは、『菊と刀』という著書の中で、『
』という表現をしています。日本人が失敗し、恥をかき、誇りを失う結果になるぐらいなら、切腹によって自ら自決する。そういう思想と行動は、欧米人から見て不気味であり、ある種の恐怖心があった。
日本は世界で唯一核爆弾が落とされた場所です。そのことについては深く言及しませんが、こうしたことも日本が世界から畏怖と称賛の念を抱かれていることがわかります。戦争に負けて、核を落とされて致命的なダメージを負っても、GDPで世界2位の経済大国に駆け上がるその精神力は、さすがと言わざるを得ないということかもしれません。このあたりのイメージに関しては、『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』、
アメリカ目線で描いた映画『終戦のエンペラー』を観るのがいいでしょう。厳密にはアメリカ目線というより、ダグラス・マッカーサー等を軸にしたアメリカ目線をしっかりと用いて、日本人の考え方も尊重しながら、両者を平等に見ることができる映画です。
山本五十六、東郷平八郎あたりを軸として考える戦争問題と、松下幸之助、本田宗一郎、井深大、盛田昭夫らを軸として考える経済成長。このあたりを真剣に考えたとき、日本がどのような国であるかというイメージが浮かぶようになります。
ただ、これと同時に読むべきなのは半藤一利の著書、『昭和史』。ここには、この『戦争』があった昭和の時代について書かれています。著者は、40年単位で移り変わる日本の情勢を分析し、昭和という時代をこうまとめています。
日露戦争直前の、いや日清戦争前の日本に戻った。つまり50年間の営々辛苦は無に帰したのです。昭和史とは、その無になる為の過程であったといえるようです。
どんな理由があるにせよ戦争というのは、正当化するべきものではありませんからね。そしてその経済成長についても、見るべきなのは五木寛之の『大河の一滴』にある、この一文です。
※当時の行政官の告白…『自分たちは分かっていた。あの工場が有明海に有毒な汚染物質を流しだしていたことは、当然のように理解していた。けれど、その時点では止めることが出来なかった。なぜかというと、それは当時の日本が飢えていたからだ。食糧増産のためには、農村に科学肥料を送る必要があった。もしもあの時点で汚染を恐れて工場の操業を止めていたならば、日本の復興は二十年ほど遅れていただろう』
そういう意味では、その半藤一利による日本のノンフィクション書籍を映画化した『日本のいちばん長い日』も観たいところです。海外の映画『パール・ハーバー』等は真実と違った姿が描写されたことが問題になりましたが、その信憑性ということで言えば、半藤一利の監修したこの映画は、安心感が違います。日本を代表する名優たちが熱演するこの映画は、日本人なら『原爆ドーム』同様、一度目を通すことは避けて通れないかもしれません。
以前六本木ヒルズの『ジブリ博物館』に行ったとき、書斎コーナーにこの『昭和史』がありました。半藤一利と宮崎駿は対談もしていて、同じレベルの見識を持っていると言えます。
しかし、『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうあります。
日本人は、ひとくちで言えば、宗教を”軽蔑”しています。”苦しいときの神頼み”という諺があります。宗教を信じるのは『弱い者、『女こども』、『病人』…と相場が決まっていて、立派な大人は宗教とは縁がないものということになっています。(中略)日本人は宗教を軽蔑しているくせに、宗教について無知です。滑稽なことです。学校でもどこでも、宗教のことを学ぶチャンスがないからなのですが、何とかすべきです。
百聞は一見に如かずです。まずはWikipediaの『世界宗教』の分布図を確認したい。
大雑把に説明すると、
ということになります。そして『薄ピンク』が『shinto』とありますね。『神道』です。ただ、この画像ではなぜか色が変化してしまっていてわからないのですが、当然この薄ピンクというのは日本だけです。日本がなぜこのように独特に進化し、世界から見ても異彩を放っているかということは、『ガラパゴス化』現象で考えられるように、島国であり、他国と関わらないように生きてきたということもありますし、この『神道』も影響しているでしょう。
開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。しかし神道には『天皇を崇拝する』という考え方が根底にある。天皇の祖先とされる『天照大御神』が最高の神格を得ている。
ジブリ映画で言えば、『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』などが八百万の神と関係があります。
[天岩戸神話の天照大御神(春斎年昌画、明治20年(1887年))]
孔子のこの超訳記事でも書いたように、孔子はこう言っています。
『自分の先祖の霊でもないのにペコペコ頭を下げて拝むのは、信心深い行為をしているのではなく、あわよくばご利益を得ようとの下賤な行為だ。』(為政第二-二十四)
『葬儀は、形式を整えるよりは、心から哀悼の意を表すことが肝心だ』(八?第三-四)
『死者の身内は哀しみで食事も喉を通らないほどなのだから、そのそばでは、パクパクものを食べるのは控えた方がよい』(述而七-九)
これは私と同意見です。ですから私も自分の『無宗教という宗教』を貫き、たとえ実の妹の結婚式であっても、結婚式には参加しませんでした。そしてこれから亡くなるであろう身内の葬式にも行くつもりはなく、また、寺や神社を見学しに行くことがあっても、むやみに祈りをささげることは一切しません。
その代わり儒教(孔子の教え)では、親が亡くなれば3年間は喪に服すことが必要だと説いています。とにかく、心底から人を敬うということはどういうことか、ということを熟考すべきであり、安易な形式上の行動は無礼だということですね。
『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうあります。
幕府は、布教して信者を増やすなど一切の宗教活動を禁止しました。そのかわり檀家制度をつくて、僧侶の収入を保証しました。葬式さえやっていれば、生活に困らない。そういう環境を用意し、僧侶を堕落させようとしたのです。これが効果をあげ、民衆は僧侶を尊敬しなくなりました。
日本人の『宗教や神に対する無知ぶり』には私は違和感を覚えますが、その背景にはこうした歴史が関係しているとも言えそうです。開国した明治の時代に、日本は世界から『宗教の自由』を求められました。
しかし日本は苦肉の策として『神道は宗教にあらず』という政府の公式見解を出しました。そうすれば、キリスト教徒や仏教徒にも天皇崇拝を強要できると考えたのです。やはり日本というのはどこか『狂気』じみた一面を持っていますね。過剰な愛国心が過激な人間を生み出しているし、神道以外の宗教を受け付けない様子は、先ほどの映画『沈黙-サイレンス-』等でもよく見ることができます。『神風特攻隊』等もここに関係しているでしょう。
しかし昭和天皇は『かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。』と述べていて、彼らのやった行為を否定するとともに、彼らの命を尊びました。
確かにかつての日本にはそのような狂気さが垣間見えたかもしれません。しかし当然、日本人にあったのは狂気だけではない。その他の優れた要素もあったわけです。例えば先ほどあったように、『天皇が民を『大御宝』として大切にしてきたことや、日本人が古来から育んできた和の精神が無益な争いを排除する効果を発揮してきた』ということ。このあたりは日本人の長所と言えるわけです。
先ほどの本には『宗教のことを学ぶチャンスがない』とありましたが、確かにそれはその通りです。テレビでも池上彰さん等、ごく少数の人しかこれに触れない。タブー視しています。ただし、以下のデータを見てください。
これは、日本にある『神社、寺、コンビニ』の数です。2017年の話で、そのうちコンビニの数ももっと増えるかもしれませんが、しかしまだまだコンビニよりも寺院の方が数が多い。どこにでもあるはずのあのコンビニよりもはるかに多く、そこら中に寺や神社があります。ですから、確かに表面的には日本人は宗教や信仰について学びませんが、実は心底ではその存在が『神聖なもの』であることを知っています。何しろ、そこら中にその『神聖っぽいもの』があるわけですからね。物心がついたときからすでに身の回りにこういう場所があって、そこが『どういう場所』なのかを知っていきます。
『道の真ん中は神様の通り道』だとか、『お辞儀を二回する』とか、『安産祈願ができる』とか、いろいろなことを教わり、そこが神聖な場所であり、むやみに近づいてはいけないということを知っていきます。これを考えると、日本人という要素の『絵の具の色』には、無意識に『神聖』を表す色が盛り込まれているのかもしれません。
尊くておかしがたいこと。清浄でけがれがないこと。
確かに日本人は宗教を学ばないからこそ無意識に軽蔑し、軽んじているからこそ神仏習合をし、結婚式ではキリスト教系、葬式では仏教を取り入れ、お参りや初詣には神社に行き、自分の先祖の霊でもないのにペコペコ頭を下げて拝み、あわよくばご利益を得ようという安易な行動を取ってしまっています。
神も仏も一緒くたに信じること。
しかし、『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』にはこうあります。
日本が二千年以上国家を営んできたことは世界史の奇蹟に違いない。その歴史がいかに長いかは、他の国と比較するとわかりやすい。日本に次いで長い歴史を持つ国はデンマークである。デンマークは建国から千数十年が経過したが、それでも日本の半分以下である。第三位は英国で千年にも満たない。中国に至ってはまだ六十年程度の歴史しかない。ロシアはソ連邦崩壊でできた新しい国である。
国は崩壊したり統合したりを繰り返しますから、中国等は長い歴史に見えて、厳密には浅いという考え方ができます。まあそれでも私は『中国の歴史』というのは孔子がいた時代、あるいはっもっと前からと考えますけどね。それは色々な解釈がある。
しかしとにかく、どう考えても日本という国の歴史は長い。それは事実なわけです。そう考えると、この歴史ある日本に古くから蔓延している『神聖さ』というのは、今もなおこの島国で生きる人々の根底に、『絵の具の一つ』として存在していて、それが日本人から発するある種の高潔さに影響していると言えそうです。
日本人はどうしてああも高潔なんだろう(白い色を出せるんだろう)。
それからこの日本の高潔さには『アニメ』の影響も大きいと考えています。このアニメも日本が生んだ世界に誇る文化であり、世界中に日本のアニメファンは大勢いますからね。我々も子供のころは誰もがアニメから影響を受けたはずです。
もちろん彼ら以外の漫画家やアニメーターに思い入れがあるという人もいますが、ここでは代表して彼らをピックアップします。彼らはアニメや漫画を通し、人々の心底に『愛、希望、夢、友情、正義』の『種』を蒔きました。宮崎駿はこう言い、
手塚治虫はこう言い、
やなせたかしはこう言いました。
彼らは作品を通して人々に『啓蒙』してくれたのです。例えば宮崎駿は、
とも言いましたが、彼らは間違いなく作品を作るときに『選択と分別』をしていて、その軸にあったのは『善悪と是非』。まるで、道を逸れようとする人が現れたときや、目の前に困った人がいたとき、
その道は間違ってるんだよ(ダサいんだよ、悪は結局最後に負けるんだよ)
困った人がいたら手を差し伸べるんだよ
と教えてくれたのです。私は彼らの貢献も日本人のこの『神聖さ』に大きく影響しているとして、評価するべきだと考えています。
ちなみにアンパンマンの作者やなせたかしはクリスチャンであり、パンをちぎってあげるあの愛は、キリストの愛がモチーフとなっていると言われています。それを表面上に出さず、暗に伝えるあたり、彼からは真の愛を感じますね。何の抵抗もなく見れますから。アンパンマンは『妖怪ウォッチ』が出るまでは常に『好きなアニメランキング』で1位を取っていました。
このような背景もあり、日本人にはどうしても『畏怖と称賛』の両方の念を抱くことになるのでしょう。確かに、良いところと悪いところがあります。それはどの国に目を向けてもそうですが、日本も当然例外ではないということですね。祖国を想うことはいいのですが、特別視してはいけません。人間にとっての本当の『祖国』とは『地球』ですからね。
2019年5月1日から日本は『令和』時代を迎えますが、これに対して在米ジャーナリストの飯塚真紀子氏は、世界の様々な反応をまとめました。
英・デイリーテレグラフ:
日本の新時代の元号を決めるのに、伝統を打ち破って、中国の書ではなく日本の書を使うという判断は、安倍保守政権の国粋主義的傾向と結びついているように見える。
米・CNN:
“多くの学者が、令和の意味や安倍首相の説明にすっきりしないものを感じている”と話している。新しい元号は、日本の政治の右傾化を映し出している。和という字は、徳仁皇太子の祖父、裕仁天皇時代の昭和の和と同じだが、その文字を選択したのは、安倍首相が、日本の戦争という過去について、ポジティブな論調を推し進めようとしているからだろう。
新元号について、
と皮肉を言い、揶揄する人もいたようです。もちろんこれは『令』と『和』の意味を短絡的かつ断片的に独自解釈した、この人の独断と偏見が混じったあまり信憑性のない意見ですが、あまり日本を褒めてしまうと『右傾化』扱いされますからね。マイケル・サンデルの著書、『これからの「正義」の話をしよう』にはこうります。
日本は、戦争中の残虐行為への謝罪にはもっと及び腰だった。1930年代および40年代に、韓国・朝鮮をはじめとするアジア諸国の何万人もの女性が日本兵によって慰安所に送られ、性的奴隷として虐待された。1990年代以降、日本はいわゆる『慰安婦』への公式の謝罪と損害賠償を求める国際的圧力の高まりに直面して来た。1990年代には、民間の基金によって被害者への支払いがなされ、日本の指導者たちもある程度の謝罪を行ってきた。しかし、2007年になってから、当時の安倍晋三首相が、慰安婦の強制連行の責任は日本軍にはないと強弁した。それに対してアメリカの連邦議会は、慰安婦の奴隷化への日本軍の関与について日本政府が公式に認め、謝罪することを求める決議をした。
しっかりと『闇の部分』にも目を向けなければなりません。例えば、iPS細胞を生み出しノーベル医学生理学賞を受賞した山中伸弥と、トップクウォークの存在を予言しノーベル物理学賞を受賞した益川敏英の対談から生まれた本『『大発見』の法則』にはこうあります。
山中『日本人は直線型思考の民族で、よほどのことがない限り、いったん入った会社は辞めないし、奥さんを途中で変えたりもしない。それと違うことをすると『人生の落後者』のように思われ、自分でもそう思ってしまいます。ところが、アメリカで暮らしてみると、回旋型の人生を送っている人がたくさんいます。たとえば、ベンチャー企業を興して失敗した場合、日本人だと 『もうだめだ』とお先真っ暗みたいな気持ちになって立ち直れない人が多いですが、アメリカでは『ベンチャーを興して潰した』という経験自体が『すごい経験をした』と評価されます。(中略)益川『直線型の日本の場合は、たった一度のつまずきによって、人生が大きく変わってしまうんじゃないかな。そこで挫折感を感じてよそに行ったら、それだけで自分が人生の落後者のように感じています。
これは、日本人に『リヴァイアサン性』が足りないことを意味する話になっています。自他にダメージがあるくらいなら、何もせずじっとする。日本人のその性質を『奥ゆかしい』と表現できるシーンはありますが、やはり足りないのは主体性であり、リヴァイアサン性。離婚をするのがいいとかそういうことではなく、日本人は確かに揶揄されたような気質を持っていることは確かですからね。
ただ、私は日本をえこひいきするような考え方の人間ではありませんが、戦争はさておき、単純に先ほどの世界の人々の日本人への反応や、独特の文化、世界レベルのサービス精神やものづくりの能力、強い経済力等に関する事実を客観視したり、あるいは自分の肌で感じる感覚を総合評価しても、この日本に対してあまり悪い印象は持っていません。アラブの春でカダフィ大佐が群衆に囲まれて血まみれになっているのを見たときは、ギャップを感じましたね。私はそこまで自分の国や為政者に対して不満を持っていないからです。
他国にはもっと過酷な環境を強いられている人が大勢います。インフラすら整っていないところもある。メキシコの家は窓に鉄格子がある。強盗が入るからですね。しかし日本は治安の良い地域なら、むしろドアの鍵が開いている。そんな平和で豊かな国に不満を持つのは、いささか贅沢としか言えません。
ジョン・レノンはこう言っていますが、
この国のように、総理大臣と天皇がいるケースだと、いくら総理大臣等の為政者たちに不満を持っても、『本当の日本のドン』は無傷で威厳を保っているという状態があるわけです。私も平成の天皇・皇后には一切不満を持っていません。持ったこともありません。彼らのことを攻撃しようと思わないのは彼らが人格者だから(威厳が保たれているから)ということ、そして彼らの周りにいる権力者が、無言の圧力をかけていることの2つが関係しているでしょう。この2つの要素はとても大切です。やはり人間というものは、
彼は人格者だから容易には話しかけないでおこう
と主体的に考えることもできますが、
彼の権力に逆らうと損失が大きそうだから近づかないでおこう
として反応的に考えることも大事です。つまり韓非子の言った通り、アウトサイド・インの人間はとても多いのです。やはり最初の発想だと、
だけど人格者だから許してくれるかな。話したいな。
という具合に、自分の独断と偏見で答えを出してしまい、知らぬ間に一線を越えてしまうということがあります。全ての人の精神が熟達しているわけでもないし、礼儀も常識も善悪も是非も、完全体がなんであるかという判断はできないのです。そこで、そのような強力なアウトサイドがあれば、
あの権力に逆らうと損失が大きそうだから近づくのはNGか。一定の距離を置くのが正解のようだ。
という発想が生まれ、結果的にそこに考え方の違う人間同士で『和』が生まれます。先ほどの本にはこうあります。
和して同じない君子の生き方
(省略)和は妥協して同化することではない。『論語』に収録されている次の孔子の言葉は『和』の真髄を見事に言い表している。『君子は和して同ぜず小人は同じて和せず』孔子は、『和』とはすなわち、自らの主体性を堅持しながら他と強調することで、それこそが君子の作法であると説く。それに対して『同』とは、自らの主体性を失って他に妥協することで、およそ君子の作法ではなく、小人のすることだという。
この『和』というものは、先ほど考えた『最強の統治ツール』の大元である孔子の考え方が真髄を捉えています。しかし、その孔子の教えが根底にあるはずの中国が実際に『統治』出来ているかということは、先ほど考えたとおりです。人数が多いということも関係しているでしょう。近い将来世界の人口は90億人になりますが、そのほとんどがインド人と中国人の増殖ですからね。
例えばテレビ番組等における『スタジオの観客席の拍手』ですが、人数が100人いるときと、50人のときとでは、一人一人の叩く拍手の音が違うと心理学者は言います。人数が多くなればなるほど主体性が減るんですね。
まあ誰かがやるだろ…
として、人任せになる。それに、警察等の『統治する側』の手も回らなくなる。私も中国に行ったときに感じたのはそれでしたね。インターネットの世界に近いような、『何かが行き届いていない』という、そういう無法地帯のような雰囲気を味わいました。
強力なアウトサイドだけでも人は『同』に甘んじる。しかし、インサイドだけに任せてしまうと未熟な人やわからない人もいるので、知らぬ間に一線を越えてしまい、『和』が作られない。インサイド、アウトサイドの両方がバランスよく整ったこの日本という国は、リヴァイアサンを譲り渡した自分の国のトップ(為政者)に不満を覚えても、もう一つのトップ(天皇)には文句は覚えないため、革命を起こしてまでして国の『平和』を取り戻そうとは思わない。そうして結果的に『和』が保たれ、この国は平和を維持できているのかもしれません。
北野武は震災に対する対応で世界中から日本が称賛されている中、空き巣に入った日本人のニュースを受け、
と生放送のニュースで言いました。しかし、それに対する苦情は思ったよりなかった。むしろ、『よく言った』という声が多かったと言います。彼ら空き巣は間違いなくここで言う『同』に甘んじた人間。自らの主体性を失って、他に妥協したわけですからね。日本人がこうも心底で尊重している『和』というものは、『神道と天皇』の問題を根底に抱えているからこそインサイド、アウトサイドのバランスが整い、あり得ているのかもしれません。
それに比べて中国は、恐らく刑罰で人をどうにかしようという、『十数年で滅んだ秦の国』の時の考え方が、まだ抜け切れていないようにも見えます。もちろんそれは中国だけじゃなく、先ほどの世界の反応を見ればわかるように、多くの国の人がその対象になるでしょう。我々日本人はあのような事例を受け、
別に人助けは当たり前じゃないかなあ
と思いますよね。しかし、この『主体性』と『和の精神』というのは、世界から見たら当たり前のポテンシャルではないのです。命を大事にし、他を思いやり、和を重んじて、主体的に生きる。もちろんすべての日本人にそのポテンシャルはありませんが、全体的に日本人というものは、世界から見ると『誇り高き民族』なのです。以下の動画は、スティービー・ワンダーが震災後の日本人に向けて送ったメッセージです。
日本語訳も動画の概要欄にあります。一部を紹介しましょう。
日本の力と忍耐強さは、地震と津波の影響を乗り越えるということを私は信じています。本当に、日本人の方々の勇-気と品位には心を打たれます。今、世界中の人々が、祈りと希望、そして、夢を日本の方々に託しています。最も礼儀正しく、美しい-国の方々へ。 私は、あなた方と共にいます。あなた方を愛しているから。
ヘミングウェイは言いました。
我々が窮地に品位を保つことができ、勇気を燃やして『和』を大切にできるのは、世界に誇れるポテンシャルと言えそうです。『十数年で滅んだ秦の国』は、一体なぜそうなったのでしょうか。そこにあったのは『強力なアウトサイド・イン』の図式のように見えます。
孔子の言葉の超訳記事に以下のようなものがあります。
その中で私は『モンテッソーリ教育』について触れています。ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズは大学を中退しました。マイケル・デルも同じです。ヘンリー・フォードなど小学校にすら行っていないし、エジソンなどは小学校をたったの3か月で退校させられている。グーグルの創業者のセルゲイ・ブリンと、ラリー・ペイジは、スタンフォード大学の博士課程を休学した。田中角栄に本田宗一郎に松下幸之助に、この世に名を遺す稀代の逸材たちは皆、学歴などにこだわっていません。
モンテッソーリ教育とは、マリア・モンテッソーリという医師が実践した教育法で、自立していて、有能で、責任感と他人への思いやりがあり、『生涯学び続ける姿勢を持った人間に育てる』ことを根幹に置くのだといいます。グーグルを創業した二人、セルゲイ・ブリンと、ラリー・ペイジはこの教育を受けていた。この記事に書いたように、まさに日本のこの東大生の彼らには、面を食らう教育法。彼らがやってきた『詰込み』とは逆なのです。
この当時、大学の世界ランクは以下の通りでした。
大学の世界ランクトップ3
東大は32位でした(京大が35位)。実は、ノーベル賞を取る人間の多くは、世界人気大学のランキングの圏外にあるような大学に多いといいます。詰め込んで、詰め込んで、詰め込むことを徹底した『エリート』たちは、確かに無能ではありません。しかし、本当に『有能な人間』とは、どんな人間でしょうか。
先ほどの超訳記事の大元の孔子の言葉はこうです。
『質実剛健な者は、頭でっかちな優等生よりも遥かに仁者に近いものだ。』
中身が充実して飾り気がなく、心身ともに強くたくましいさま。
人間にとって重要なのは『アウトサイド(外部要因)』なのか、『インサイド(内部要因)』なのか。そういうことを考えさせられる言葉です。そしてリヴァイアサンというのは質実剛健でなければ操れなさそうですね。心身ともに強くたくましくある(インサイドが強くたくましくある)ことが求められているのです。
『令』というのはたしかに『いいつける。命じる。いいつけ。』という意味もあります。たしかに過剰な天皇崇拝による右傾化は懸念すべきであり、日本人の中にはたしかに『同』に甘んじ、主体性を失い、『その他大勢の一人』になったり、他人の顔色をうかがい、『対人恐怖症』になる人がいるのも事実です。それは、強力なアウトサイドへの期待と羨望に心を支配され、質実剛健の意味を忘れたことが原因で起こった衰退、退廃と言えるかもしれません。
日本人独特の精神病。他の国にはない。
しかし戦争が終わり、昭和天皇から平成天皇になって、この国に『天皇崇拝の国』という印象を覚える人はどれだけいるでしょうか。『日本人の心底に天皇という黒幕(権力者)がいる』と思われていた時代から、今は『日本人の心底に天皇という平和のシンボル(権力者)がいる』ようになった。『過剰な天皇崇拝』から、『穏やかな天皇への尊敬』になったことで、日本は長所たる良い面を伸ばすことに集中でき、『和を重んじる』民族へと進化したのかもしれません。
あるいは元々あった『和を重んじる』という良いポテンシャルだけが目立つようになった。
『令』という言葉の意味には、『よい。りっぱな。』という意味もある。『他に誇れる立派な和の精神を持つ日本』は、この『令和時代』を誇りに思い、自分にしか咲かせることが出来ない花を咲かせるべきです。そしてその令和に無事に繋いだ、平成の30年間を見事に『平和のシンボル』として使命を全うしてくれた平成天皇・皇后には、感謝の気持ちを覚えないわけにはいきません。日本人は、令和の時代に大いに希望を抱いていい。自信と誇りを持って自分の道を歩いていきたいですね。
間違ってはいけないのは、今が『最高到達地点』だと盲信しないことです。『違う』のですから。いくら平和で豊かな国だといっても、別にこの国は『国家のモデル』でもなければ、日本人も『人間の模範』でもないのです。私の経験談は読みましたよね。あれはすべて日本人ですからね。日本人は別に完璧ではない。まだまだ上があるんですよ。
日本人の脳は世界的に見ても高く評価されています。しかし、その日本人に匹敵する、あるいはそれをも上回ると言われる人たちがいます。先ほど、『リヴァイアサンとならなければ、輝かない時代』とありましたね。リヴァイアサンとは、『自らの生存を目指し、利益を図り、そのためには他人を犠牲にすることを厭わない』という、そういう人間が本来持っている猛獣性。動物が声を荒げて威嚇し、野性的に見えるとき、私たちはその動物にリヴァイアサンの片鱗を見ているわけです。
そこにある『生存』、『生き残る』、『生き延びる』というキーワード考えたとき、彼らほど注目に値する人々はいません。『ユダヤ人』です。ユダヤ人の歴史は迫害と耐久の歴史。あらゆる危機に際して、そこから逃れ、生き延びてきました。迫害を受け、世界中に散らばったユダヤ人は、そこで主体性を持って生き延びるしかなかった。
まだまだ上があると言ったのはこのユダヤ人のことではないですよ。『上を目指せる』という意味でした。
彼らは皆ユダヤ人であり、世界で一番ノーベル賞を取っている人種は、ユダヤ人です。人種というか、ユダヤ人というのは『ユダヤ教を重んじる』人で、キリスト教徒なら『クリスチャン』、イスラム教徒なら『ムスリム』と呼びます。ここで考えたいのはユダヤ人のあまりにも目立つ善い特徴の部分。もし悪いところがあるとしても、その話は今は一切関係ありません。
アインシュタインもユダヤ人だと言う人がいますが、冒頭に書いたように彼の親がユダヤ人だっただけで、彼自身は無宗教でした。したがって、葬式も無宗教の信念に従って、たったの12人で行い、牧師の説教もなく、花や音楽も控えられました。
過酷な環境で生きるしかなかったはずの彼らには、『だからこそ』身についた、強靭な精神力と主体性、そして圧倒的なファイナンシャルインテリジェンスがありました。
お金に関する知識。資産と負債の違いの見極め方や、『浪費、消費、投資』がなんであるかと言うことに対する知識。
京都大学在学中に国家公務員上級試験、司法試験に合格し、同大学を首席で卒業後、現経済産業省を経て弁護士になった、ユダヤ人の石角完爾の著書、『ユダヤの「生き延びる智慧」に学べ』にはこうあります。
図々しく、傲慢であれ
(省略)ユダヤ人は奇想天外な人々の集団だ。シナゴーグで食事をしている時に一匹の蜂が舞い込んできた。この蜂を殺さずに窓から逃がす方法についていきなり全員が議論しだした。そして蜂の飛行能力をジェット機に置き換えるとアメリカが誇る最新鋭戦闘機の何倍になるかにまで議論は発展した。日本人なら『そんなことはどうでも良いじゃないか。スープが冷める』となるところを食事に手を付けずに議論に熱中する。
この話を聞くと彼らには『主体性』があることがわかりますね。そして優先順位が何かも理解しています。つまり、本来別に、蜂は放っておいてもどこかへ行くのです。人間が議論をする必要はない。しかし彼らは蜂が入ってきたという事実を見て、食事中という休憩の最中に、日頃から考えるべきだったはずのテーマを思い出した。この事例はたまたま蜂を目にしたからこういう話ですが、違うケースならまた違う話をしている。そこに着目しなければなりません。常に物事を最適化する、今の状態よりもいい状態が何であるかということから、目を逸らさない。つまり、『上昇志向』があるのです。
しかし日本人を含めた多くの人は、その時間は食事中であり、『ホッとできる時間』。『システム2』を常時モードとしているか、『システム1』を常時モードとしているかということが露呈する瞬間です。彼らは『システム2』が常時モードとして当然だと考えるから、そのようなひょんなきっかけから、自分たちがより良い状態になるための道を模索し始めました。
何かいい手はないかなあ…
ということを常に考えているからこそ、こういう現象が起きるわけです。人間にとっての優先順位は何か。そういうことを真剣に考えて来たからこそ、彼らは過酷な環境の中でも生き延びることができた。むしろ大きな結果を出せたのです。彼らが場当たり的で、今日を生きるだけの日銭を稼いで何とか命を繋ぐというだけの発想しか持てなかったなら、誰かの奴隷や従属者となり、飲み込まれ、彼らが生き残る(ユダヤ人が生き延びる)ことはなかったでしょう。
一方、『システム1』を常時モードとしている人たちは、なるべく『システム2』を起動したくない。だからそういう時は、
スープが冷める(せっかくの自分へのご褒美の時間が台無しになる)
と考えるわけです。危機感がない彼らは、強力な地盤の上に生活していると考えています。ですから、焦る必要はない。まるで、大富豪の家庭に生まれた子供が、何も危機意識を持たずとも一生楽をして生きていけると『油断』するその現象のように、別に自分がそうして主体的に生きなくても、誰かがやってくれるか、あるいは別に自分の人生に特に影響はないと考えるのです。
その蜂が人を刺す蜂だった場合、放っておいてもいいということにはなりません。しかし、(放っておくと蜂に刺されるぞ)という『システム1』が自動思考した恐怖を(そんな可能性の低いことよりも今考えるべきなのは)といった具合に『システム2』が途中から上回った。そういう事例だと考えることもできます。
本にはこうもあります。
『フッパー』という言葉がある。イディッシュ語で、図々しさ、厚顔無恥、無遠慮、傲慢、到底考えられぬほど肝が据わっているといった意味だ。外からイスラエルを訪ねた人々はフッパーに出くわしてたいてい面食らうが、そのうちにこれが国中どこにいっても府中に診られることなのだと悟る。ユダヤ人の国家的特質は宗教的にはユダヤ教であるが、民族としてのクライテリア、つまり判断基準はユダヤ教の宗教だけではない。もう一つ挙げるとすれば、この『フッパー』があると言える。
例えば、イスラエルの軍隊の兵士はもちろん上官に従うが、その前に上官が間違っていると思えば率直に自分の意見を述べて反論し、議論して最良の方法を求める。もちろんこれは軍隊に限ったことではなく、学校、企業、官庁で教師に意見する学生、上司に抗弁する部下、大臣に対して反対意見を述べる事務官といった光景として普通に見ることが出来る。イスラエル人は積極的に意見を言うのが当然であり、逆に消極的な姿勢でいれば脱落する危険を子供のころから体験として学んでいる。
この『フッパー』というのは『リヴァイアサン』と様相が似ています。日本人の場合は先ほど揶揄されたように、主体性を失って『同』に甘んじたり、人目を気にしすぎて『対人恐怖症』という日本人独特の精神疾患にかかったりするわけですが、人間にこの『フッパー』や『リヴァイアサン性』があれば、そのように殻に閉じこもって潜在能力を埋没させることはなく、むしろ持っている能力を最大限に発揮できる。
図々しさ、厚顔無恥、無遠慮、傲慢、到底考えられぬほど肝が据わっているといった意味。ユダヤ人皆にある特徴で、すべては生き延びるために身についた能力。『省エネモード』でいることが許される甘やかされた環境で育たなかった彼らは、逆にその能力をすべて使い切るだけのエネルギーが求められた。そうした背景も、彼らにこのフッパーが身についた理由の一つだと言えるでしょう。
例えば彼らはこのフッパーによってこの世界の形も大きく変えています。『インテル』のマイクロプロセッサ戦争で大勝利を収め、コンピュータは小型化と高速化を加速させていくのですが、イスラエル・チームはインテルの社内外で『インテルの命の恩人』と呼ばれています。彼らがフッパーを発揮しなければ、この世は今よりももっと不便だったのです。
ユダヤ人によって建国された国。近年は、ハイテク産業の拠点として世界の経済動向に大きな影響を与える存在へと急成長している。
インテル・イスラエルの創立者ドブ・フローマンはこう言っています。
『リーダーのゴールは異論反論を奨励するという身で、摩擦を最大化することにあるべきです。組織が危機に陥っているとき、摩擦のないことこそが実は大きな問題なのかもしれません。つまり、摩擦がないのは、努力して起こそうとしている変革が本質的なものではないか、あるいは反対意見が姿を隠してしまっている、という意味かもしれないのです。』
(上)の『人は本当に『超人』になれるのか』にて、ユニクロことファーストリテイリング社長の柳井正のこの言葉を載せましたよね。
彼らの意見は一致しています。主体性を失って『同』に甘んじたり、人目を気にしすぎて前に出られなくなるのは、間違いなく潜在能力が埋没している証拠です。本来、人が持っている能力を最大限に発揮できるなら、間違いなく誰もが目を見張る大きなことを成し遂げることができます。
吉田松陰もこう言いましたが、
むしろフッパーのような図々しさ、頑固さがなければ、何事も推進することはできない。このあたりのテーマを考える際にうってつけの事例があります。あの日本航空(JAL)が破綻したとき、現代の経営の神、稲盛和夫は、その再建を買って出ました。しかし稲盛は最初、傲岸不遜に腐敗しきったJALの幹部に『反抗』され、こう言いました。
彼ら幹部連中は最初、外部から来た彼が気に食わなかったらしい。あの仏の様な稲盛が、会議室でそう怒鳴り散らしたというのだから、よほど彼らの心は腐敗していたのでしょう。そしてだからこそあの会社は破綻し、そして彼がそこに呼ばれたのです。彼は、社員一人一人に魂を吹き込み、そして企業は息を吹き返しました。『アメーバ経営』、そして『稲盛フィロソフィ』です。
大企業の圧倒的な規模に生まれる隙を無くすために、部署ごとの『細部』を、企業を構成する『一つの細胞』だと考えて、その細胞に、主体性を与えて、管理させる。これによって、細部が活性化され、結果として全体の息が吹きかえった。
稲盛和夫が京セラで培ってきた経営哲学。
ドブ・フローマンの言葉を思い出してみましょう。『組織が危機に陥っているとき、摩擦のないことこそが実は大きな問題なのかもしれません』。この時のJALは間違いなく大企業病に陥っていて、完全なぬるま湯につかっていました。そこに稲盛和夫が『カツ』を入れに来たわけです。彼ら内部の人間では出来ないこと、つまり『摩擦』を起こした。エレベーターを使わず階段を使わせたり、そういう無駄な『浪費』をやめ、そしてその浪費を当たり前だと盲信する彼らの考え方そのものにテコ入れをしたのです。
そして『アメーバ経営』を導入し、5人ほどのグループを一つの『会社』に見立て、それぞれの主体性を煽った。つまり先ほど言った『潜在能力の埋没』をなくすために、『同』に甘んじていた大勢の社員に、『和』が何であるかを教えたのです。『和』とは、自らの主体性を堅持しながら他と強調すること。そうして彼らの埋もれていた潜在能力が最大限に発揮され、JALは再建されただけではなく、むしろ『V字回復』したのです。
売り上げのグラフがVの字になること。急激に下がっても、また踏ん張って戻すと『V』になる。(折れ線グラフ)
フッパーという言葉の意味には『図々しさ、厚顔無恥、無遠慮、傲慢』という意味も込められています。しかし、『上官が間違っていると思えば率直に自分の意見を述べて反論し、議論して最良の方法を求める』その姿勢もフッパーが関係しているとなれば、稲盛和夫にあったのもこのフッパーだったということになるでしょう。逆にフッパーがない人というのは、摩擦を恐れ、『同』に甘んじ、最良の方法を『システム2』で考えれば見つかるかもしれないのに、それを見つける責任を放棄し、『その他大勢の一人』に甘んじる人のことを指します。
『他に誇れる立派な和の精神を持つ日本人』と、『日本人以上に主体性を発揮して生き延びたユダヤ人』。この2つの民族は、中国の『華僑』と並んで『賢い人種』だと世界から評価されますが、その特性から学べることはとても大きいと言えそうです。
私もここに挙げた人たちとは比べてはいけませんが、『フッパーのようなもの』の塊だと言っていいでしょう。私は部下と一緒に食事をするとき、部下が『勝手に娯楽モードに入ったら』、そこから説教を始めますからね。目に入ったものをすべて人生や仕事につなげて話をし、その時間が有意義なものにしようとします。時には目の前の食事が冷めても、数時間話をするときもある。彼も彼とて有意義にしたいからこそ『馴れ合いの時間』を求めるのですが、私がいつも言っているのは、
ということです。彼が吃音症で会話の9割は私がしゃべらなければいけないという事情も関係しているでしょうけどね。私が喋らないとその場が彼の吃音症の影響で『シーンと黙り込んで暗い雰囲気』になります。私がそんな雰囲気に甘んじるわけはないので、彼と一緒に過ごして10年以上、いまだかつてその雰囲気に流され、一緒になって暗くなったことなんて一度もありません。後で説明しますが、私は『ポジティブビッグバン』ですからね。
だから、どうせ私が喋らなければいけないならということで、ありとあらゆる話をするわけです。その話の内容はもちろん、アニメの話もするし、真理の話もするし、多岐にわたります。どれかを選んでいたら10年も話は続きませんよ。というか、一見すると厳しそうに見えても、彼と一緒にトレッキングをしたり、アスレチックをやったり、バーベキューをしたり、庭園を見たり、ゲームをしたり、あらゆる遊びを一緒にやりますからね。そういう時間があるんだ。それ以外のところで中途半端な馴れ合いをやるわけがないのです。
そういう『会話をする必要がない』場所ではもちろん遊びを優先しますから。また、こんな彼と10年以上も一緒にやり続けていること自体が一つのエネルギーですからね。普通、企業というのはどれだけ優秀な人材を集めるかということがカギになってきます。以前『カンブリア宮殿』では、四大(東大、京大、早大、慶大)出身者『よりも』、主体性のある人間が欲しいということで、そういう人材を育成している学校に人を獲りに行くという特集をやっていましたが、私はそれと真逆のことをやってるわけですからね。そりゃあ『アウトサイド(外部要因)』がおろそかになりますよ。
ただ、私は目の前にあるエネルギーに屈しませんから。彼を首にして楽になるなんて思いません。彼がうちで働く意思がある以上、それをしたら私の器が知れますからね。病院とか、滝行とか、ありとあらゆる彼への指導・教育・矯正は考え、これからも考えていきますが、どちらにせよ目の前のこの問題を見て見ぬふりして前に進むほど、堕ちてはいませんよ。
彼を絶対に治すか、あるいは彼のような人間がいても絶対に一流の結果を出してやる
ただただそういうエネルギーが燃えるだけですね。拝金的に一人で生きているときに、もうすでに散々稼ぎましたから。ただ、その時のお金は散財して当然もう無いし、振り返ってみても自分は全く人に誇れるような生き方をしていない。三流以下ですからね。私は彼のような問題を背負いながら、必ず一流になります。ここに必要なエネルギーも、私はこのフッパーに似たものだと考えているのですが。
日本のドラマで言えば『踊る大捜査線』の青島刑事、また、『ストロベリーナイト』の姫川刑事、『HERO』の久利生検事などを見るとわかりやすいでしょう。また私は見ていませんが『半沢直樹』も、
上を目指す!
やられたらやり返す。倍返しだ!
と言っているということはフッパーがあるでしょう。彼の説明には『曲がったことを誰よりも嫌う。それ故に上司の反感を買ってしまうことが多いが、部下からの信頼は厚い。』とありますから、ここに出たキャラクターと共通するところがありますからね。とにかく、自分が正しいと思ったら『力』に屈することなくひたすら前に進む。そういう人にこのフッパーはあると言えます。
私は今までいろいろな仕事をしましたが、職場の上司ともめなかったことは一度もありません。まだ20歳前後のときなどは一切言うことを聞かずに自分のやり方を貫くわけですから、
このように言われることは当然のようにありましたね。また違う会社でも、
と言われました。
何言いだすかわからない、という時の状況は、その上司よりも上の人間と一緒にいて、私が納得のいかない顔をしていたことから、それを察知して上司がその場をお開きにした、ということ。
それは、このサイトで孔子、ソクラテス、ブッダ、キリストを含めた世界の偉人と対話していることからも見えてくる事実ですよね。私は心で、
こと人間の心や人格の話のことで言うなら、彼らぐらいしか相手にならない
と、半ば自惚れにも似た自信を持っていたことから、一流に値しないような人の意見はすべて認めてきませんでした。務めた会社を辞めている理由はすべて、『上司や会社に不満があったから』ですからね。ですから私にもこの『フッパーのようなもの』の性質はあると言っていいでしょう。
ただ、23歳で起業したので、あまりこの性質によって会社で摩擦を起こし、大きな結果を導き出したということはありませんでした。それに近いところまではいきましたけど。後は、堂々と『俺にはフッパーがある』と言えるくらいの結果を出すだけですね。事例が事例だけに、結果が伴ってないといけないっぽいので。
ただその起業も、先ほどとは違う会社で納得が行かなくて辞めるとき、それまで私が完全に辞めないと思い込んでいた上司たちの中の一人が私を引き止めて、勝手に起業の手伝いをしてくれたんですけどね。私が『辞めて誰と一緒にやっていくのか』と聞かれたとき、知人の名前を言ったら、
といって、ライバル企業の名前を出してきて誘導尋問しようとしてきたので、ライバルに取られるとでも思ったのでしょう。全くの見当はずれでしたけどね。ただ知人と一緒にやろうかと思っていただけなので。でもそのおかげで相手が勝手に好都合の話を持ち掛けてきたのでそれに乗りました。その後その上司は、また違う上司(その人から見て部下)に、
と言われましたから、その人のその会社での体裁等も気にしていたのでしょう。私は一度決めたことは絶対に曲げませんから、もう一人の上司が、
等と言って説得しようとしていましたが、すべて断固として無視しましたね。私が忠誠を誓ったら忠実ですから、それまでの私の忠実な態度を見て説得できると思ったかもしれませんが、私は常に心では誰にも屈しないと考えている人間なので、当然そういう誘導や説得その他には一切応じませんでしたね。
とにかく私はそうして自分から燃やしたエネルギーが飛び火し、少し大きなエネルギーになったので、その時改めて、
『チャンスは待っていても来ない。自分から掴むものだ。』
という言葉の意味も理解しました。その最初のエネルギーのおかげで作れたエネルギーがあったということは確かですから、私はこのフッパーという性質がいかに大切かということを理解しているのです。
とにかく言えることは、人間に求められているのは『主体性』であるということ。たしかにその主体性を持つと、時にフッパーやリヴァイアサンのように『自らの生存を目指し、利益を図り、そのためには他人を犠牲にすることを厭わない』というエゴイズムにも似たちょっぴり凶暴なエネルギーを身にまとうことになります。
自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式。
半沢直樹は知りませんが、青島刑事も姫川刑事も久利生検事も、その性格がゆえに組織には向いておらず、正義は貫くことができても、上に行くことはできませんからね。左遷されたりして羽をもがれ、暴れないように『羽目』をつけられる結果になります。場合によってはこういうことにもなるでしょう。しかし彼らは別に『エゴイズムに支配された利己的な行動』は取っていませんよね。
フッパーやリヴァイアサンを『使いこなす』ことが出来れば、必ずしもエゴイズムに支配された利己的な行動は取らない。ここに出てきたインテルのイスラエル・チームや稲盛和夫がやったことを考えればわかるように、彼らは結果として自分の利益も得たかもしれませんが、それ以上にその他の人々に大きな貢献を果たしましたよね。このフィクションのドラマのキャラクターたちも、同じように自分を犠牲にして、大義を果たしました。
我々はインサイド・アウトの発想を落ち、人生に主体性を持ち、フッパーやリヴァイアサンを『使いこなす』ことで、潜在能力の埋没を防ぎ、それ故に生き延びることができ、同時に、大きな結果を出すことが出来るのです。もしかするとこの凶暴性の高い猛獣を召喚することの代償を払い、自分の何かを犠牲にすることもあるかもしれませんが、人が大義を果たすこと以上に重要なことがあるのか。挙げたようなドラマを観た人ならこのことについて考えるとき、心に響く何かがあるかもしれません。
タバコ、アルコール、麻薬、恋愛、暴食、買い物等、人が依存症になる対象はいくつかあります。その中で、『クレプトマニア』について特集したある番組がありました。
万引きがやめられない病気。
ある40代の女性は、子供もいる、逮捕もされた、刑務所にも入った、そういう『強力な矯正』があったにもかかわらず、クレプトマニアを脱することができません。どんなに強力な『強制的な矯正』があっても、自分を律することができない人もいるのです。
ここに関係しているのは『ドーパミン』等の脳内に放出される報酬系物質(快楽物質)です。先ほど挙げたタバコ等の依存しやすい対象は、すべてこの報酬系物質が関係しています。私の部下も間違いなくこの報酬系物質に支配されていると言っていいでしょう。『脳と心のしくみ』によれば、ネズミで実験すれば、死ぬまで永久に『押すとドーパミンが出るボタン』を押し続けますからね。とても強い依存性があるのがこのドーパミンなのです。
私はこの報酬系物質に支配された状態を『ジャック(乗っ取られた)』と呼んでいます。
という風に諭すわけですね。最初のころの部下はそれすらも受け入れず、大変でした。今はもう私の言うことを聞きますけどね。しかしそれは『聞かないと大変なことになる』という恐怖が植えついただけで、心底の部分ではどう思っているかはわかりません。
このドーパミン(オピオイド)等の報酬系物質は実は厄介で、一時的に爆発的な快楽を得ることから、そこが虚無と正反対の位置であることを錯覚させます。しかし、麻薬をやった後に廃人と化し、人間関係を破綻させ、あるいは逮捕される場合、そこに訪れるのは虚無です。また、依存体質になることも虚無を生み出す悪循環です。
先ほどリヴァイアサンの話のときに『猛獣使い』の話をしましたね。そうした『力』を手に入れた人間は、猛獣使いにならなければならないと。そうじゃないと逆にその猛獣に飲み込まれ、あるいは乗っ取られ、我を失い、暴走してしまうわけです。これについて私は下記の記事で『サーカスの猛獣と猛獣使い』というたとえ話を用いて、こう書いています。
『ドーパミン、ノルアドレナリン』とは、『サーカスの猛獣』だ。要は、羽目を付けて行動しなければならない。いわゆる『羽目を外す』というこの『羽目』というのは、元々馬を制するために口に噛ませる『馬銜(はみ)』が語源だ。
の事である。その、羽目を外すという行為は、馬の野性を暴走させることを意味し、また、羽目をきつく締めあげるという行為は、馬を無意味に衰弱させることを意味する。
サーカスの猛獣は、厳しくしつけられ、鍛えられているからこそ、観衆の面前で人々に喜ばれるパフォーマンスをすることが出来る。だが、彼ら猛獣のコントロールを失ったら最後、猛獣たちはそこにいる団員はおろか、観衆たちを次々と襲ってしまい、大惨事を引き起こしてしまうだろう。
そこでカギとなるのが、
だ。この猛獣使いがいるからこそ、猛獣(ドーパミン、ノルアドレナリン)という『不安定なエネルギー源』の均衡を保つことが出来るわけだ。そう考えると、あがり症やうつ病の人が、そのセロトニンが不足しているという状況を、すぐに飲み込めるはずだ。
以上が、記事に書いた内容です。興奮するとドーパミンが出て、不安になるとノルアドレナリンが出る。人の脳内に目を向けるとこういうことが起こっています。それを安定させる『猛獣使い』の立ち位置にあるのがセロトニンという脳内物質。あがり症もうつ病も、なりやすい人はこのセロトニンの量が少ないことがわかっています。
SSRI等の抗うつ薬の正式名称は、『選択的セロトニン再取り込み阻害薬』。つまり、セロトニンがなくなってしまうのを『阻害』して、何とか脳内にセロトニンが出るようにするわけです。
そう考えると、ブッダや孔子、ソクラテスといった人格者はこの『セロトニン放出のプロ』だとも言えるでしょう。どんなに状況が過酷であっても、脳内にセロトニンを出せるなら心は平安になるわけです。例えばソクラテスは、どんなことを言われても動じなかったと言われています。
武田信玄の側近、快川和尚は、織田信長に城を焼かれるその刹那、そう言い放ち、禅を組みながら轟々と燃えさかる炎の中、潔く最期を迎えたと言いますが、脳科学的に言えば、リヴァイアサンやドーパミンといった猛獣を上手く扱いこなすためには、このセロトニンという『猛獣使い』が必要です。自分が猛獣使いになるという考え方ならば、このセロトニンはその自分を援護する『バリア』と言えそうです。バリアが出ている状態なら、たとえ火の中毒の中であろうとダメージを負わずに前に進むことが出来る。このようなイメージになります。
クレプトマニアの女性は泣きながら言います。
私は『ネガティブブラックホール&ポジティブビッグバン』という言葉を創りました。部下の彼は、まさにネガティブブラックホールです。まるでブラックホールのように底知れぬネガティブさを持っている彼に対抗するには、同じくらい底知れぬポジティブさだけです。
つまり、ポジティブビッグバンとは、無から有を創造したビッグバンのように強力なエネルギー。私にはそれがあります。ですから、私を本気で怒らせたら大変なことになるので、彼は私が怒りさえすれば凍り付き、それ以上の一線を越えることはありません。しかし、だからといって彼の人格が改善されたわけではないのです。ここが重要なポイントです。
そのクレプトマニアの患者は『施設』という『アウトサイド(外部要因)』の力(エネルギー)を借りて犯罪を未然に抑止しようと努力しています。たしかに薬物依存症のための施設、駆け込み寺等を含めたこうしたアウトサイドは一時的な支えとして大切な存在です。しかし、結局はインサイド・アウトの発想にならなければ人は本当の意味で自立することはできないのです。
事実、クレプトマニアのための施設を取材した人がこう言っていました。『この施設に入ったからといって皆が皆、病を治せるわけではない』。
私の部下もこう言っています。
この言葉からは、私という『アウトサイド(外部要因)』の力(エネルギー)がどれほどのものかということ、そして、『だからこそ』彼が『インサイド・アウト』の発想がいつまでたってもできていない(アウトサイド・インに依存している)ということの2つがわかります。彼に対し、
という意見を言う第三者もいましたが、その類の人は大体少し我々の事情を知るといなくなりますね。このように、知人やそれぞれの親も含め、この『圧倒的な負』を見て見ぬふりをし、『触らぬ神に祟りなし』とする人は後を絶ちません。また中には、
という人もいましたが、私は恩師への恩を忘れないだけです。彼らは一流だった。このような『力』に直面したときに、それに決して屈さない強い心を、私に教えてくれました。また、森信三のような人間もいる中で、別にこれくらい普通でしょう。そして当然、彼に対する『愛』です。これが偽善なら10年も持ちませんよ。
また、私が持ちこたえられているのは『インサイド・アウトを推し続けているから』でもあります。『アウトサイド・イン』の発想が私にあれば、
私が何とかしなければならない
と思うでしょう。そうなると私にかかる負担が極端に重くなります。実は、私はうつ病にかかりやすいポテンシャルを持っています。うつ病というのはこういう性格の人がなりやすいと言われています。
うつ病になりやすい性格
私はこれらの条件に一致するのです。したがって、私は一歩間違えると心を壊してしまいます。しかし私は恐らくうつ病にはならないでしょう。(うつ病にならない)と思い込む人こそ危ないと言われますが、私は恐らくならない。今まで相当色々なことがありましたが、うつ病ではない違う方向に行きましたからね(それはそれで問題がありますが)。
つまり私は、確かにうつ病になりやすい要素を持っているのは事実ですが、それ以上に考え方に柔軟性があり、結果的に自分が崩れないように計算するところがあるので、人が思う以上に『タフ』なのです。この黄金律の重要性も知っていますからね。ちなみにこの記事には『排泄の必要性』についても詳しく書いています。
10代の頃からそれは意識していて、17歳のころ亡くなった父親が、ストレスによる肝臓がんだったということもあり、余計に意識するようになった。
『うつ 家族ができること』にはこうあります。
『巻き込まれ型のうつ』とはどんなものでしょうか。家族や身近な人は、うつの人と日常的に接しています。すると、『気分が落ち込んでいる』『強い悲哀感がある』『意欲がなくなる』といったうつの典型症状に接し続けることで、その症状に共鳴してしまうことがあります。自分の落ち込んだ気分やもの悲しい気持ちになり、否定的な態度で世界を見てしまうようになるのです。他者や物事に対する共感性が強い人は、特にその傾向があるようです。
私の柔軟性は人が思う以上にある。私は『ビッグバン』ですからね。これくらいの負の渦に巻き込まれるようなやわなエネルギーではない。だから私はこの『ピンチ』を逆に『チャンス』だと思い、思い通りにいかないこの不遇の状況を嘆くのではなく、自分の人格レベルを引き上げるための『教育実習(資格試験)』だと考えることが出来ているのです。
例えば15歳のときに強いストレスを感じ、『口唇ヘルペス』を発症しました。これは一度発症したら一生発症し続ける病気です。ただ、強いストレスやダメージを避け、休養を意識し続ければウイルスの暴走を抑止できます。私はこれを逆に利用し、一線を越える前に『意識的に休養する』技術を身につけました。私が人一倍『遊び(休養)』を大事にする一つの理由がこれです。これによって私は人一倍強いタフさを手に入れました。ピンチをチャンスに変えたのです。
それに、彼自身にインサイド・アウトが求められているように、私にもそれは同じことが求められていますから、彼という要素を前にし、どう立ち振る舞い、どう生きていくかは、私のインサイド・アウト(抱えるテーマ)でもあるのです。つまり、
まあ、最終的に自分の人生を決めるのは自分だからな。俺は自分が出来る最善のことをすることしかできない。後は本人次第だな。
として、『本人がインサイド・アウトの発想をするのがゴールだから、アウトサイド(外部要因)である自分は、出来ることと出来ないことがあり、確かに教師として責任はあるけど、それを果たしたら、最後の一歩は本人に任せるしかない』という事実を知っているので、人が思うより大した負担はないのです。
当然、制裁も加えますからね。それで採算はキッチリ合わせますので。私は偽善者ではない。
私はこう見えて厳しいですよ。以前、とある企業に対し、
と噂する人たちがいました。まるで遠い存在を話すかのような口ぶりに、私はどこかで違和感を覚えていました。するとやはり、自分がその立場になったら違和感の正体がわかりましたね。パイプ椅子なんて私からすれば甘い。私が本気で怒ればここには書けないようなことが起こりますよ。
恩師は言いました。
優しくなければ生きる資格はない。でも、厳しくなければ生きていけない。
私はその両面を忘れないように生きてきたつもりです。先ほど『人と争うのを嫌う』という要素がありましたね。それは確かにそうですが、実際のところは『本気で争うなら相手の息の根を止めなければならない』と思っているからですからね。中途半端な争いが大嫌いだということなのです。このあたりは私の完璧主義な性格がよく出ていますね。
もちろん私の息の根が止まってしまうこともあるでしょう。それだけ争いというものは本来『不毛』だということです。とにかく怒るときは殺す気で怒るということですね。だからなるべくなら怒りたくはないということです。ただ、『戦えない』と『戦わない』は違う。
アウトサイド・インの発想には限界があります。『これだけ強力なアウトサイド(外部要因)』でも限界があるわけですからね。まるで『北風と太陽』のように、どれだけ北風の勢いを上げたとしても、コートを着込むだけなのです。
太陽のように『本人が自分から脱ぐ(本人の主体性を仰ぐ)』ように仕向ける方がいいこともあります。これは孫子が主張した『風林火山』の極意でもあるのです。
それにそもそも、うつ病でもナルコレプシーでもクレプトマニアでもない彼を治す専門病院を見つけるのは難しいでしょう。
急に寝てしまう病気。例えば、話しているとき、歩いているときにもお構いなく眠ってしまう。だからヘルメットを被って外を歩く人もいる。(急に横になって倒れて頭をぶつけるから)
そして、たとえ専門施設を見つけたとしても、クレプトマニアのこの事例を見れば、重要なのはそうした一切の『アウトサイド(外部要因)』の力(エネルギー)ではないということがわかるはずです。
ある、私の心に響いた『駆け込み寺』の話です。話の内容的に、どこの国の話かということは伏せます。ここの住職は寺に来る子供たちのことを真剣に考えます。そして、親には説教をする。見ていて本当に熱意が伝わってくるし、事実、私はその住職を尊敬しました。しかし、ある時そこから巣立った少年が、学校でいじめられて自殺をしました。住職は嘆きました。
誰もがその住職に非などないとわかりました。しかし住職は死んでしまった彼に(もう大丈夫だ)と背中を押した自分を悔やみました。
少年は『慰め』を求め、駆け込み寺に入りました。確かにそれで彼は一時的に救われました。それは事実です。しかし『そのせいで』アウトサイド・インの発想が抜けず、そのアウトサイド(外部要因)を自分から取り外したとき、彼はまた元の自分に戻ってしまいました。彼の命と住職の名誉を大切に想いながらも、私は言わせてもらいます。彼がするべきだったのは、『インサイド・アウト』の発想だったのです。
しかし、この駆け込み寺のことを私は悪く言うことはありません。言う資格など私にはありません。医者も目の前で救えない多くの命を目の当たりにします。この駆け込み寺は、とても立派な存在だと断言します。
中国の『三教』は以下の3つの教えです。
ブッダの仏教、孔子の儒教。そして老子の教えた道教のことですね。ちなみに、仏壇に位牌を供えるのは、仏教ではなく、実は老子と神仙を祖とする道教のやり方です。実はこの老子は、詳しい生没年は不明で、紀元前6世紀頃に活躍したといわれる説もありますが、伝説上の人物として扱われることもあったり、複数の人物を統合させたという説があったりします。先ほど紹介した『孔子の教え』では、孔子が老子と話をするシーンがあります。しかし、唐の韓愈(768年?-?824年)は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定しています。
孔子が紀元前500年ごろに息をしていたのに対し、老子は紀元前6年ごろと、キリストと同じ年代に生まれた人として認知されています。しかし、紀元前100年ごろの記録もあったり、500年前に息をしていた孔子と接触していたりと、様々な話があり、定まりません。しかし私は別にそんなこと気にしません。これまで様々な世界の偉人たちの思想を用いて考えたのですから、彼の言葉も平等にここに並べて考えてみましょう。
老子はこう言いました。
これはこういう意味です。
『人の道理が自然に行われていた昔は、仁義という人為的な道徳は必要なかった。世の道理が失われたから、仁義をあえて唱える必要が生じた。』
ではわかりやすくまとめてみましょう。
真偽はともかく、この言葉を考えるとこのように、孔子の説いた『仁義』より先に『大道』があり、法律なんてもってのほかという時代があったということですね。
しかし老子は、儒教にある『人為』を否定し、『無為自然』を思想の根本に置いたということを考えると、孔子の後に生まれたと考える方が自然である。
人の手を加えないで、何もせずあるがままにまかせること。宇宙の現象は、人の生死も含めて必然の法則が支配していて、何事にも私意は入り込む余地がないという、一種の運命論のようなもの。
老子のこの考え方は、ディオゲネスのそれに似ています。ソクラテスを師と仰ぐアンティステネスの弟子、ディオゲネス。犬のような生活を送り、樽の中にひた暮らすその様子から『犬のディオゲネス』、『樽のディオゲネス』とも言われていました。師の教えを守り、物質的快楽を求めず、乞食のような生活をしたディオゲネス。ある日、そんな彼の下に、かのアレクサンドロス三世が尋ねます。ディオゲネスがあいさつに来なかったからです。大王は言いました。
するとディオゲネスはこう言ったのです。
かのハンニバル、カエサル、ナポレオンといった歴史上の人物から『大英雄』とみなされ、旧約聖書にも出てくるマケドニアの王、アレクサンドロス大王を前にして、その態度。しかし大王は、その帰り道でこう言ったというのです。
確かにこのような無欲を追求する生き方も、興味深いものです。アレクサンドロスのような群衆を最前線で率いて戦闘を繰り広げるような人間にとっても、そうした生活が『自然』で、『ストレスフリー』だと思えたことでしょう。ただ、老子の思想は『人が何をしても無駄だ』という『宗教的思想』に近く、孔子の説く教えは宗教ではないため、一般的に受け入れやすいのは儒教の方です。ですから日本人にも、
といった多くの儒学者(儒教を学ぶ人)はいますが、老子の道教思想はあまり浸透しませんでした。では私はこのうち誰の意見に近いかというと、『全員』です。そして同時に、全員とも違う。つまりこういうことです。
老子の言うように『人間本来の本分』を意識しますが、『本来の本分』という言葉の中には、『本来持つ力』、『モチベーション3.0』のような『可能性』が含まれているため、『自然に任せる、動物たちと同じように、同じ生命として無理なく生きる』という考え方ではありません。『上昇志向』が必要だと考えます。
孔子の言うように『仁義』や『徳』は重要だと考えますが、『支配者』だけではなく、すべての人にそれらが必要だと考えます。そして『法律』も必要だと考えます。
韓非子の言うように『法律』が必要だと考えますが、それ以上に『仁義』や『徳』が重要だし、『人間が本来持つ力』を最大限に引き出すための努力が必要だと考えます。そして私は人間に秘められた可能性を信じます。
先ほどの『世界がわかる宗教社会学入門』にあった内容を思い出しましょう。『儒教と法家が結び付くことで、強力な統治のツールが生まれました。』とありましたね。
『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうもあります。
法律と宗教
(省略)儒教にいう法律とは”統治階級が人民に下す命令”です。(中略)統治階級にとって法律は自分の支配の道具ですが、人民にとっては迷惑このうえないものです。(中略)一神教の法律観は、これと大きく違います。法律(律法)は神から発するもので、人間社会全体を拘束します。統治階級と一般民衆とは、神に対して連帯責任を負います。そこではじめて『法の支配』が可能になるのです。儒教は、法治(法の支配)ではなく人治(人の支配)が原則でした。社会主義中国が市場経済に移行しようにも、法の支配が実現しにくいのは、こうした背景があります。
私はその『儒教と法家が結び付き、強力な統治ツールを生み出す』ことは間違っていないと考えます。しかし中国(儒教)は、前述した孔子の考え『支配者がしっかりしていれば法律は必要ない』という考え方を見てもわかるように、統治者(政治家等の上に立つ者)に求めるものが大きく、それ以外の人を『違う目』で見ています。つまりそこに境界線を引いている。だからこそ統治階級にとって法律は自分の支配の道具ですが、人民にとっては迷惑このうえないものになってしまったのです。
また、ユダヤ教等の一神教の考え方も不完全です。法律(律法)は神から発するもので、人間社会全体を拘束します。その『拘束』という『強制的な矯正』は、人間のアウトサイド・インの発想を促します。また下記の記事に書いたように、『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうあります。
『旧約聖書』のなかにあるように、人は神との契約で律法を守ることになりました。ところが、その律法さえ守ればあとは何をやってもいいのだ、という考え方にしだいになってきます。ある意味ではマニュアル人間、管理された人間になってしまう。そのような時代のなかで、イエスは自由な生き方を主張しました。これは保守的なユダヤ教徒にいわせると、由々しき問題でした。
その当時は、ただひたすら決まりを守っていれば、あとは何をしてもよかった。金、金、金と追い求めてもよかった。また、律法さえ守っていれば、必ずご褒美を貰えたのです。お金持ちになれたのです。
マニュアル人間、管理された人間を生み出すとありますね。そして、『律法さえ守っていれば何をしてもいい』という歪んだ考え方をした人間を生み出す原因となってしまいます。
私は法律を『自分の支配の道具』と考えるのは間違っていないと考えます。しかしそれは、統治者だけでなく『すべての人』がそうであるべきなのです。先ほど載せた青い矢印の画像を見てください。矢印の方向が違う向きを向いていますよね。このような考え方は確かに『人に対する正当な評価』でしょう。
ブッダは言いました。
『機会は平等に。処遇は公正に。』
たしかに、寝てばかりいる『宰予(さいよ)』と孔子が同じ扱いではいけません。しかし、この考え方は同時に、人間の可能性を埋没させる発想でもあります。
人が今以上に(できない)と思い込んでしまうようなあらゆる要素は、取り除くべきではないでしょうか。また、『罰則する力』を持っている法律は、やはりアウトサイド・インの発想を促してしまいます。ですからここに、『インサイド・アウトの発想を促すマニュアル』も存在するべきだと考えるわけですね。
ここまで考えると以下の黄金律や言葉の意味が見えてきます。人間が強く強く求められているのは『克己心』。私はもう10年以上前から自分の子供には『克己』という言葉以外にはあり得ないと思っているほどです(実際にそうするかはわかりませんが)。
『弱い自分に打ち克つ』。それがこの世を生きるすべての人間に与えられた使命なのです。それはもちろん、前述したような様々な人々のことを踏まえた上で言っているのです。『プロスペクト理論』でノーベル経済学賞を取ったダニエル・カーネマンの著書、『ファスト&スロー』にはこうあります。
よく言われる『最小努力の法則』は、肉体的な労力だけでなく、認知能力にも当てはまるのである。この法則は要するに、ある目標を達成するのに複数の方法が存在する場合、人間は最終的に最も少ない努力ですむ方法を選ぶ、ということだ。経済学的に言えば、努力はコストである。そこでスキルの習得も、その利益とコストを天秤にかけて行うことになる。こんな具合に、怠け者根性は私たちの中にしみついている。
彼のその他の本やノーベル賞を取った『プロスペクト理論』や彼のいくつもの主張を考えると、人はやはり韓非子の言った通り、自分の損得に支配されて生きてしまう生き物だということをまざまざと思い知ることになります。ですから、とても厳しい戦いです。そんなことはわかっています。わかっていて言っているのです。
利益が得られるとしても、損失を被る可能性の方が高い場合、人はそれを避けようとする心理。人はとにかく、自分にふりかかる損をとても嫌う傾向がある。
しかし、『結果としてアウトサイド・インになってしまう』のと『最初からアウトサイド・インに依存する』のとではまるで意味が違う。私はそう信じて疑いません。結果はどうあれ、人はインサイド・アウトの発想を志し、人生を生きるべきなのです。『支配』されるのではなく、『利用(活用)する(自分のものにする)』のです。
以前二人の日本人がイスラム国(ISIL)によって殺害されたとき、友人だった池上彰さんが勇気を振り絞ってテレビに出て、教えてくれた『聖戦』の本当の意味がこの『克己心』だと知った時、目から鱗が落ちましたね。
なんだ。イスラム教の教えって、素晴らしいんじゃないか。
そう心から思えることができたのです。それに、韓非子の言う通りになってしまっているのであれば、『性悪説』を認めることになります。孔子に次いで儒教における重要人物と言われている『孟子』は『性善説』を唱えましたが、韓非子の師でもある『荀子』は『性悪説』を唱えました。
まずは『孟子と性善説』ですが、これは孔子の『忠信説』を発展させたものとされます。なお、今日『性善説』という言葉は『人は本質として善であるため、放っておいても悪を行わないとする楽天主義』という意味で用いられることが少なくありませんが、本来は正しくありません。以下に解説するように、孟子も朱子も、人の『性』は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、『聖人の教え』や『礼』などによることが必要であると説いています。
[修行して善で悪を追い出す]
この考え方は、孟子とほぼ同時代を生きた古代ギリシャの哲学者、プラトンの考え方に似ています。ソクラテスの弟子のような位置にいる人ですね。ソクラテスを考えるうえで極めて重要な人物です。プラトンも、『人間は善に生まれたが、成長と経験で悪に染まる』と考えた。
『荀子と性悪説』ですが、『人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり』(『荀子』性悪篇より)から来ています。ここで言う悪とは、『(人間は様々な意味で)弱い存在』という程度の意味であり、『悪=罪(犯罪あるいは悪事)』という意味ではありません(「弱い存在」である人間が、犯罪や悪事に手を染めずに一生を終える、という事もありうる)。
[外部から後天的に善を積み上げる]
参考文献『Wikipedia』
『世界の宗教(教養マンガ)』
ちなみに私はこの二つの説を受け、『どちらも正しくて、どちらも不完全である』という印象を得ます。更に言うなら、イギリスの経験論の父、ジョン・ロックは『人間は白紙で生まれる。つまり生まれつき善でも悪でもない』と考えましたが、それを受けた上でも私の解釈は以下の通りです。
この二つの事実が共存しているのが真実に近い。これらの表現の仕方は色々あります。
どんな言い方でもいい。こんなものはただの『日本語』です。
ドストエフスキーがこう言い、
シェイクスピアがこう言い、
アインシュタインがこう言い、
パスカルもこう言った様に、
人間の心には常に善と悪が混在していて、それらが常に心の中で主導権争いの為に闘いをしています。そして、その闘いに勝った方が優位性を得て、『悪が勝った』なら、その人間は荀子の言うように『利己』に走るようになる。『善が勝った』なら、その人間は孟子の言うように『利他』に尽くすようになる。
その『心の中の闘い』のことを、イスラム教では『聖戦』と呼ぶのです。本来、聖戦とはこのように人間にとって極めて重要な闘いのことであり、人を惨殺することを許可する考え方ではないのです。
アウグスティヌスが『悪は善の欠如した状態だ』と考えましたが、それに近いところがありますね。ただし彼はかなり宗教的思想の人なのでちょっと感覚は違います。
『柔訳 釈尊の教え 第1巻』にはこうあります。
[原始仏教『スッタニパータ』第一章第三節44番]
この項で釈尊は、本当は生活が苦しくても、それを自分の表面に滲ませているようではだめだとおっしゃっています。これは自分が苦しくても、虚勢を張ったり、見栄を張れ、貧乏を隠せ、と言っているのではないのです。『生老病死』、人がこの世に生きる限りは、必ず自分自身に不足が生じるような法則にできた世界なのです。(中略)それでも自分の顔に苦労をにじませているのは、その苦労に自分自身が負けているということです。
戦わなければならない。それが人間の『使命』なのです。
腸内には善玉菌と悪玉菌と日和見菌がいます。このうち、もし悪玉菌が優勢になると、下痢や便秘等の問題が起きます。ですから人は、常に善玉菌を優勢にするために『シンバイオティクス』を意識する必要があるのです。私はこれを知った時、重要なカギを見つけたような気がしました。いずれ書く『エネルギー』の記事で詳しく追及していきます。
確かに私はこのサイトを通して、幾人かの人を救うことが出来たようです。例えば下記のキリストの言葉の超訳で、
恐らく『出産』等のテーマについて悩んでいた女性の心を救うことが出来たようです。また私は人生の最深部にいるとき、ホイットマンのこの言葉や、
統合失調症だった叔父のこの言葉などを見て、心が救われた気持ちになりました。
『冬が来たなら、春が来る。』
慰めが嫌いなはずの私が、慰められた。こういうことが実際にありえたことを話さなければなりません。しかし、それでも間違えてはならないのは、これらは全て『戒め』であるということ。私はただ、キリストの言葉を通して真理を語っただけに過ぎず、ホイットマンもその他の言葉もすべて、真理が語られただけなのです。
間違えてはいけません。この世に断固としてあるべきなのは『慰め』ではなく、『戒め』なのです。『人間』が慰められることを優先する考え方は『自分本位』であり『人間本位』。それぞれがそれぞれの『慰め』を主張するからこそ、争いが起きるのです。忘れてはいけません。圧倒的な『戒め』によって慰められることがあるだけ、だという決定的な事実を。
『わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。』(マタイによる福音書)10章34節
知っていますか?『イエス・キリスト(救世主)』は、『イエス・ゼロット(革命家)』だったという一つの見解を。彼の呼び名は一歩間違えれば、イエス・ゼロットだったのです。蔓延していたユダヤ教の未熟な点を『更新』しようとしたわけですから、それは一理ある話ですね。彼にもまた『リヴァイアサン』の片鱗が見えます。当時の人からすればそれは片鱗どころではなく、彼がリヴァイアサンそのものに見えたことでしょう。何であれ、彼がとてもつないエネルギーを持った人だということには変わりはありません。
例えば人間の生活を便利にするために、土地を埋め立て、道路を作った。しかしその時、目に見えない多くの昆虫や植物、微生物の命を奪った。人間は言った。『ああ、これで便利になったね!』その姿は本当に人として正しいでしょうか。
このように可愛い虫の絵がなければ虫のことを好きになれない人間の『脳』にも問題がある。私の本音としても、虫は苦手である。
そう考えると先ほどのイチローの言葉というのは、極めて重要なキーワードだということがわかりますね。
『勇気を与えるとか、感動を与えるとか、よく聞くフレーズですけど、無理なんです。それは、目的にしてはいけない。結果としてそうなるに過ぎない。』
ですから『私が人にできること』は限られています。『慰め』ることはできません。そもそも私などは、今日も明日も遠い異国の地で理不尽に失われた命を無視して生きながらえる、単なる愚者でしかありません。
私は無力なのです。自分を優先して生きながらえ、虫が嫌いだと言い捨てる私は、単なる未熟な人間の一人にすぎないのです。私の言葉に依存すると、私がもし犯罪や不義を犯したとき、私の説得力や威厳は失われます。しかし、私が説いた真理には罪はないのです。委ねてはいけません。依存してはいけません。見るべきなのは、真理(愛・神)のみです。
そんな私は、ある角度から見たらやはり『志が高く、自由』というより『無責任』。それは認めます。しかし、その意識と同時に持っているのは、このたった一度の一生を悔いなく生き抜かなければならないという、強い意識。そしてそれは、世にいるすべての人がそうであったら最善なのです。私が『カラダ』について追及し、今まで以上に『ヒト』に対する専門知識を身につけていくのと比例して、私がここで見出した『真理』の価値が上がっていくことは、なんだかちょっと嬉しいですね。それらの真理は必ずここで考えた『主体性のあるエネルギー』を、力強く応援するからです。
法律でもない。宗教でもない。真理(愛・神)だけに目を向けて、最後の一呼吸が終わるまで、人は自分と戦い続ける使命を背負っているのだ。
すべての人々がそう考えるようになったとき、それが人間が最高到達地点に達したときではないでしょうか。自分のココロと全ての人々のココロが『虚無』に陥らないことに焦点を当てて考えれば、取り急ぎ『人間に通用する真理』が何かは見抜くことが出来るかもしれません。
アウトサイド(外部要因)の圧倒的な力はわかりました。しかし、だからこそインサイド・アウトの発想が避けて通れないのだとわかりました。アウトサイド(外部要因)に依存してしまうと主体性が埋没し、モチベーションが2.0に沈下し、多燃型の無責任な人間に成り下がってしまうからですね。人はインサイド・アウトの発想を持ち、『自分で真理を見つけ、それを道標にして人生を生きていく』ことが求められているのです。
『法律等のアウトサイド(外部要因)に統治(支配)してもらう』のではなく、『自分のインサイド(心)に目を向けて、真理を発見し、自律して生きていく』ことが求められているのです。
真理から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。
これがどういうことかを感覚的に理解するためにうってつけの映画は、やはり『チェンジング・レーン』です。あれが一番見やすいし、分かりやすいと言えるでしょう。しかし、その他にもいくつかの例を挙げてみましょう。『バイス』で主演を務めたクリスチャン・ベール、『ラ・ラ・ランド』、『ファースト・マン』のライアン・ゴズリング、そしてブラッド・ピットらが出演する映画、『マネー・ショート 華麗なる大逆転』です。これは事実を基に作られた映画であり、より注目に値する内容になっています。
あのリーマンショック、サブプライム住宅ローン危機の中で巨額の利益を上げた、ある男たちがいました。例えばオフィスにドラムセットを持ち込み、あり得ない大音量で音に没頭するメタル系の鬼才トレーダー、例えば若者に、常識に流されず、また、オーガニック野菜を食べるよう勧める異質の天才トレーダー。彼らは『妙な違和感』を察知し、その違和感に従い、いち早くバブル崩壊の兆しを読み取り、株式投資を上手にやりくった。この事件によって、何万という単位の世帯が、家を失い、路頭に迷い、虚無に陥りました。だから決してハッピーな話ではない。しかしこの男たちが、
このままでは虚無に陥る
と悟り、周囲の流れに同調・追従せず、自分の違和感に従って行動した結果、大きな虚無を避けることができた。それは事実なのです。この場合、もしかしたら『投資』や『金儲け』自体が真理と離れた行動かもしれませんが、孔子や孟子の言うように『義利合一』を理解し、富ながらも義を重んじることはできます。
次の新一万円札の顔になる渋沢栄一もこう言っています。
だからひとまずそれは置いておいたとしても、やはり、どこのシーンに目を向けても真理というものは存在しており、しかもそれは人の目に見えないがゆえに、人は時にその大きな力によって甚大な被害を被ります。
例えば天災です。冷静に考えたらわかりますが、天災は最初から決まっていることです。人間は、この地球の所有者ではない。地球は息をしているのだから、そこに勝手に家を作って住んだ人間が、その『たまにする地球のくしゃみや咳』によって影響を受けることは当然。人はこの地球に家を作り、会社を作り、家庭を作り、車を作り、社会を作った時点で、すでに地球の機嫌をうかがいながら生きることを強いられた『従属者』なのです。我々はそれを勝手に忘れてしまっています。
権力や威力のあるものに依存して、それにつき従うこと。
冒頭に書いたことを思い出してください。人はこうした『サイン』を頼りにして『真理』を見つけ、それに沿った生き方をすることを余儀なくされています。まるで、最新の車が物にぶつかりそうになると警告ブザーが鳴るように、それを頼りにし、道から逸れないようにするのです。私もなるべくその真理を見つけ、世の人に提供していきたいと考えていますが、一番いいのは自分自身のそのサインへの嗅覚・感覚を鍛え上げることです。
正直、この真理というものはあまりにも壮大かつ複雑であり、人間がその全容を理解することはできません。しかし、何となくの『違和感』を得ることはできるのです。そして近づくと心が『充足』し、逸れた後には確かに『虚無』となってそれを実感します。人間には、これに対する嗅覚・感覚を自分で鍛え上げ、悔いのない人生を探すことが求められているのです。元々法律だってこの世にはなかったわけですからね。
ですからこの『真理』というものも人間がこの生まれ持った『感じる違和感』を頼りにし、その嗅覚と感覚で『あぶり出し』、それを見極めるしかないのです。そして孔子、ソクラテス、ブッダ、キリストを含めた世の威厳ある人間たちは、その多くの真理の実態のあぶり出しに成功した人物だと言っていいでしょう。そして彼らがあぶり出したものが真理だったということは、2,000年以上もの時間を得てもいまだに威厳が失われないことを考えればうなづける話です。しかし彼らとてすべての真理は解き明かせなかった。
例えば上記の記事に『毒矢とブッダ』の記事があります。これについては、また違う参考書である『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうあります。
宇宙について非常に思弁的な質問をした教団の修行僧、チュラ・マールンカ・プッタにブッダが語ったものだ。『もしあながたこたえられなければ、教団を出ます』と修行僧は言った。ブッダの答えの要点は以下の通りである。もし毒矢で傷ついた狩人が、治療を受ける前に射手の名前とカースト、また矢の材料の木について知りたいと要求したら、治療の前に死んでしまうだろう。宇宙が永遠であるかないかは重要ではない。この狩人を救うには、まず矢を抜き、毒の性質を調べて解毒剤を見つけ、傷口を閉じるのが大切であるのと同じように、私は老い、病、死からの解放の方法を教えた。救いを求めているものにとって、思索で時間をつぶすのは役に立たない。
つまり、ブッダとて無限の命を持っていたら、恐らく宇宙のことまで知り尽くしたでしょう。彼にはそれぐらいのポテンシャルがある。しかし人間の命は有限です。限界がある。そうなると、優先順位をつけなければならない。自分だけが知を求めるなら、まずは健康であることが問われる。また、目の前で毒矢で死にそうな人がいるなら、まずやるべきなのはその人の解毒である。これは、人間に与えらた天分というものには『限界がある』ということを示唆した逸話となっています。
ここからもわかるように、ブッダが世に残したのは『完全な真理』ではありません。例えば彼が、『ブルーベリー、イチゴ』の話を生涯かけてしたとしましょう。しかし本当は時間がもっとあれば、『みかん、バナナ、メロン、リンゴ』の話もしたかった。いやそれだけじゃなく、その他のありとあらゆることも話したかった。でも時間がなかったからブルーベリーとイチゴの話に徹した。
それなのに、彼がブルーベリーとイチゴの話を生涯かけて行ったからということだけを断片的に見て、短絡的に解釈し、『彼はブルーベリーとイチゴの専門家』だと思ったり、あるいは『彼が伝えたブルーベリーとイチゴの話だけを特に重んじよう』と考えるのは間違っています。このあたりを誤解してしまうと、アウトサイド・インかインサイド・アウトかということが露呈しますね。
当然その考え方はアウトサイド・インです。物事の表面しか見ていない。しかし、自分の頭で考えることが出来るインサイド・アウトの発想ができる人はそうはならない。彼はまず自分の目の前で起きていた大きな問題に対し、それを優先順位の一番上に持ってきて、その解決策を熟考しただけです。彼が今もまだ生きていたのなら、彼は相当な物知りになっていますよ。それも『物知り』という言葉では収まりきらないくらいにね。彼はそういう男です。
ちなみにこの考え方の『2大注意点』はこうです。
2大注意点
例えば、私の両親はクリスチャンでした。しかし私はそうじゃなかった。彼らからしたら私の存在は邪魔。おとなしくクリスチャンになるか、家を出ていってもらわないと煩わしさの種でしかなかった。そして、私の行いが悪いとそこにつけこんで、
という雰囲気を全開に醸し出し、何が何でも私をクリスチャンにさせようと画策しました。それが彼らにとっての『最高のシナリオ』だからですね。しかし断言しましょう。私は当時から現在に至るまで、そして生きている間一生、クリスチャンになることはありません。ここに生まれるのは虚無以外の何でもありませんよね。このことについて熟考しましょう。
ちなみに昔と違って母親は今の私に何一つ文句が言えません。その理由は、私が『圧倒的な理論武装をしたから』です。それと同時に『落ち度のない生活』をしているからです。冒頭を思い出してください。『人は結果に反応する』とありましたね。人というのはそういうものです。私の本質そのものは、幼少期から何も変わっていないのに。
ただし、私がそうやって『圧倒的な理論武装』と『落ち度のない生活』が出来ているのは、私が何人たりともから意見をされたくないと思っているということと、そうした人の存在のおかげですね。
また麻薬や夜遊び等、束縛(制限)からの解放等によるドーパミン等の報酬系物質の放出も、当然真理とは無関係です。人はいじめた後、それがいつになるかはわかりませんが、そのことを思い出して後悔しますよね。もちろん、いじめられた本人も虚無に陥ります。したがって、この『2大注意点』を忘れないようにしましょう。
『真理から逸れると虚無に近づく』という具体的な例は、先ほどの記事にいくつか紹介しています。わかりやすく、
等、枚挙に暇がありませんが、2019年4月のテレビ朝日系『ロンドンハーツ』で、興味深い事例があったので紹介します。実名は出しませんが、テレビで放映されたこともあって、議論の題材に使わせてもらいます。芸人の『K』さんと『M』さんのいざこざについてを特集した回でした。その時のMさんの言い分はこうです。
彼は隠しカメラで撮られていることを知らずに、居酒屋でそのようにしてKさんの陰口を言っていました。彼の考え方は、まるで『無敵の人』や『害悪プレイヤー』と同じように見えます。その発言の意図には、『ばれなければ何してもいい』という要素があり、誰もがそれを傍から見ると、不快に思います。しかし彼は本気でそういう風に考えている。
確かに陰口を言い、外面を良くして、その人の前では愛想良くしていれば、そこで目に見えるトラブルは起きないかもしれません。つまり、『虚無が生まれない』ように思えます。では、その行為は『真理』と言えるでしょうか。そしてそこに真理はあったのでしょうか。Kさんは普段、陰で人の悪口を言わないということを、後輩芸人が語っています。そんなKさんが、そのMさんにだけは本気で怒っていて、
と言っています。そしてMさんも陰でKさんの陰口を言うわけですよね。だとしたら、お互いにあるのは『虚無』です。その虚無の憂さ晴らしをするように陰口を言ったのですから。この場合、二人が真理から遠ざかったことで虚無が生まれたのです。つまり、結局二人が心底で相手のことを悪く思っているせいで、直接言おうが、陰で悪口を言おうが、お互いの心には虚無があったのです。
どちらが悪いと言えば、両方です。Kさんが先輩なら、Kさんが率先して彼をリードして問題解決を促すべきです。彼は私から見てもそこまで人の上に立つ人間としてはまだ未熟。そのあたりにももちろん問題があります。そしてMさんもKさんだけのせいにせず、自分を改めるべきです。また、彼の言った『結局言うんだったら、両方同じ『悪』』という考え方は間違っています。教育の神、森信三がこう言っているように、
たとえ相手にその時は伝わらず、その場が納得のいく形にならなくても、相手に意見を言わなければ、一生問題が解決できない。陰で悪口を言うのは、Mさんが『臆病』だからです。面と向かって意見をすることができないから、陰でコソコソとするのです。しかし、陰で言ったってなにも解決しません。ですから、直接言うことと、陰で悪口を言うことは決して同じではない。そして直接言うことは『悪』ではないのです。
彼らは結局根本的な問題解決が出来ず、完全な和解はできませんでした。先ほど言った『チェンジング・レーン』というのは、このあたりを非常にわかりやすく描写している映画です。なぜ人は虚無に陥るのか。どうすれば真理を見極められ、『和』を見出せるのか。やはり、まずはこの映画を観てその感覚をつかむのが一番いいでしょう。
また、映画で言えば先ほどの『ドン・ジョン』も非常に参考になるでしょう。性的な話になりますが、しかしそれはとても重要なこと。何しろ、SEXや自慰行為によって人はオーガズムを感じ、『虚無から離れる』感覚を得ます。では、虚無から遠ざかるほど真理に近づくのであれば、これらの行為に『真理』があるということになるでしょうか。以下の画像をご覧ください。この画像は、2012年のハーバードビジネスレビュー誌に掲載された、『人が幸福を感じる時』を図式化したものです。
円の大きさが『普段考えている量』を表す。右にあればあるほど、『幸福度』が増す。SEXは、異次元の場所にあるのがよくわかりますね。冒頭で報酬系物質『ドーパミン(オピオイド)』の話はしましたが、SEXが人間に与える快楽がどれほどのものかということがよくわかるはずです。実は、裏テーマとしてはSEXの近辺に『アルコール、麻薬』等も挙げられます。以下の画像は、『飲酒に麻薬効果がある』ことを発見した研究結果のニュース記事です。
『気持ちが良い』と感じるということは、脳内に麻薬と同じような報酬系物質が放出されているということ。 よくニュースで『覚せい剤でSEX』というキーワードを聞くときがありますが、それに溺れた彼らは皆、この『圧倒的な快楽』に身を乗っ取られ、道を踏み外してしまったのです。先ほどのクレプトマニアの時に書いたメモ、そして『2大注意点』を思い出してみましょう。
このドーパミン(オピオイド)等の報酬系物質は実は厄介で、一時的に爆発的な快楽を得ることから、そこが虚無と正反対の位置であることを錯覚させます。しかし、麻薬をやった後に廃人と化し、人間関係を破綻させ、あるいは逮捕される場合、そこに訪れるのは虚無です。また、依存体質になることも虚無を生み出す悪循環です。
2大注意点
麻薬をやること、浮気や不倫をすること、これらの行為の最中には脳内に『圧倒的なドーパミン(エンドルフィン、オピオイド)』が放出されていて、そこが虚無と正反対の位置であることを錯覚させます。しかし、それらの行為の延長線上には何があるでしょうか。『虚無』ですよね。そう考えたとき、その行為が真理かそうじゃないかということは、この2大注意点を軸に考えると見えやすくなります。
ドン・ジョンは最初、自慰行為でしか快楽を覚えられませんでした。美女を見つけてはナンパし、肉体関係を求めますが、それでも自分の心の『虚無』は晴れません。結局は自慰行為に至り、彼の中ではそれが『真理』かのようでした。牧師にもそれを正直に告げ、罪を洗ってもらえるし、毎日は順調かのように思えました。
ある日最高の美女が見つかって、彼女と結婚しようと考えました。しかし彼女と時を過ごせば過ごすほど、彼女の実態が見えてきました。彼女はまるで自分の思い通りに行かない人。むしろ、自分を操って思い通りの人間にしようとしてくるのです。それを知った時、彼はまた自慰行為に走ってしまいます。
やっぱり自分の思い通りに行くのが一番だ…
人間と向き合い、人生を生きていれば、自分の思い通りにいかないことは山ほどあります。そのたびに自分の世界に逃げ、殻に閉じこもって現実逃避すれば、確かに『楽』かもしれません。しかしそれには限界がある。人間は思っているほど馬鹿ではない。自分の心は『何が正解か、何が自分に足りないのか』をよく知っているのです。そうやって現実逃避を続けていれば、心底にある『虚無』がいつまで経っても晴れず、まるで毒針に刺されるかのごとく、チクチクと自分の心身を蝕んでいくのです。まるでその『虚無』が、自分に足りない『何か』を教えてくれるかのように。
そして彼はある日、ある女性と出会います。彼女と彼はすぐに肉体関係を持ったので、彼は彼女に対してある種の軽蔑の目を向けていました。しかしあるとき彼女が夫を亡くしたことを知ります。彼女と一緒にいて楽だと思ったのは、彼女が彼に多くを求めなかったから。しかし彼女が多くを求めない理由を知った時、彼の心に変化が訪れます。
そうして彼は、少しずつ愛を知っていきます。そうして彼は 『愛のあるSEX』を知ったのです。その時、ようやく彼の心底にあった『虚無』は晴れました。彼が『愛(真理)』に近づくことが出来た瞬間です。彼は最初この年上の女性を『オバサン』扱いしていました。しかし、最高の美女だと思った『アウトサイド(外部要因)抜群の美女』は、肝心のインサイド(中身)に癖があった。彼は知ったのです。愛(真理)はインサイドにあるのだと。
この映画は一見するととても低俗に見えますが、私はこの映画の根底にあるものが人間にとって見て見ぬふりができない重要なテーマだと理解し、この記事で推奨することにしたのです。
では今度は麻薬について考えてみましょう。1950年代から活躍し、ジャズ界のジェームズ・ディーンと言われ、あのマイルス・デイビスと肩を並べた伝説のプレイヤー、チェット・ベイカーの人生を描いた実話に基づいた映画『ブルーに生まれついて』です。彼はヘロインに手を出してしまった、麻薬中毒者でした。しかしあるとき、その自堕落で無責任な生き方が仇となり、マフィアに襲撃され、トランペットが吹けない体になってしまいます。その時付き合っていた女性は彼を支えました。
彼は、その人と結婚して幸せな人生を送るために麻薬をやめて、体を治療し、プロプレイヤーとして生計を立てていこうとします。彼は努力を重ね、何とか実力を元の位置にまで戻しました。しかし、人生を決める大舞台で、彼はどうしても麻薬のことが頭から離れなくなります。麻薬をやめるということは、彼女との間で固く固く約束したこと。つまり、麻薬に再び手を出すことは彼女との結婚が破断することを意味します。
あと一歩で自分の夢と大切な愛の両方が手に入ります。そして彼女は都合上行けない予定でしたが、何とか無理をして彼の演奏する舞台に駆けつけました。彼の演奏を聞く彼女。彼女の眼からは涙がこぼれています。それは、彼の演奏が最高のものだったからではありません。長い間彼に付き添ってきた彼女だからわかったこと。その演奏は、彼が麻薬をやっているからこそ奏でられた心がない演奏だったのです。
もう一度『2大注意点』を観てみましょう。
2大注意点
真理から逸れれば逸れるほど虚無に近づく。
しかしそれは、この『2大注意点』をクリアすることが条件なのです。この映画のエンディングにあったのは、何とも言えない虚無。この世にある闇と誘惑、人間の弱さ、そして麻薬が生み出す禍々しい力の絶大さを思い知ることになります。彼は麻薬をやった向こう側に、自分の求める『答え』があるのだと錯覚してしまいます。麻薬の力を借り、それとセットではじめて生まれるものがあると。しかしそれを追い求めた延長線上にあったのは『光』ではなく『虚無』だったのです。
今考えたのは、こういう『人間の心を強く惑わすまやかし』です。人間は、これらを扱い、これらを考える時は必ず『システム2』を起動させなければならない。それを避けて通ることはできないのです。そうしなければ必ずこの圧倒的な『アウトサイド(外部要因)』の力に支配され、気づいたら真理から逸れ、虚無に陥っているでしょう。
私が『カラダ』について理解を深め、より『ヒト』について理解できるようになり、発信の資格を持てるようになったとき、私はもう一度『ココロ』の編集作業に入ります。その時、ようやくこのサイトは私の『達したい領域』に達するはずです。そうなれば、これらの真理を少しでも多く皆さんに伝えられるでしょう。そう。当然ですが、このサイトはまだまだ発展途上であり、私が『達したい領域』の半分にも満ちていないのです。真理というものはあまりにも複雑で、壮大。アインシュタインが相対性理論という真理を見つけるのに生涯を懸けたように、あれほどの天才が生涯をかけなければ見つけられない真理もありますからね。
そもそもこのサイトは現時点でも1万ページありますが、その一つ一つのページすべてに全身全霊をかけると、1ページにつき1日かかりますから、1万÷365=27で、30年くらいかかりますからね(このページだけでも2か月以上修正と更新の作業をしました。関連リンクの作成と映画鑑賞を入れるなら5年です)。人生は有限ですから。どうしても優先順位をつけるしかないのです。しかし、私が生きている限りやりますよ。
山中伸弥がノーベル賞を受賞したのは52歳、稲盛和夫が稲盛財団、京都賞、盛和塾を立ち上げたのも52歳。それまで私はあと17年もありますからね。まだまだ私に必要なのは圧倒的な基礎・土台を積み上げる時間です。
まあもちろん、その領域に達したところで『終わり』ではないですけどね。人間には永久に終わり(完成するとき)は来ません。それが真理であり、『恒久的に未熟な人間』だと言った理由なのです。だけどそれがいいじゃないですか。永遠に自分の上に未開拓領域が存在する。もしそうじゃなかったら、私はとっくに生きがいを失い、死んでますよ。その領域こそが、人に無限のエネルギーを与えるのです。
私にできることは限られています。しかし松本人志は言いました。
これからも私が出来ることの最善を尽くしていきます。皆さんはどうか、『支配』されるのではなく、『利用(活用)する(自分のものにする)(主体的に生きる)』ことを念頭に置いて生きてください。自分も含めた誰かが『虚無』に陥ったら、それは真理から逸れた証拠ですよ。人間はこの『サイン』を道標にして生きていくしかない、いや、『生きていくことが出来る』のです。私に言えるのはそれだけ。後は自分で考え、自分のものにしてください。
動物にはこのサインを感じ取るセンサーがない可能性が高い。だとしたらやはり人間は地球のリーダーなのです。リーダー(指導者、案内人、責任者)がやるべきなのは何か。それを熟考し、人生を内省し、古代の偉人たちから受け継いだこの神聖な魂の灯を、より完全な形に強化させ、未来に行けば行くほど世界が明るくなるように貢献できたなら、彼らの命を尊ぶことになり、また、我々は心底から『命を使い切った』と言えるようになるのです。
早くに亡くなった命があります。意志を持つ前に、成熟する前にこの世を去った運命があります。彼ら、彼女らは人生を全うしました。そして、命の尊さを我々に教えてくれました。彼ら、彼女らはまた違った形で、『命を使い切った』のです。そのような命を尊ぶためにも、『まだ生きている』すべての命は、その残りの命の日数で、やるべきことを考えたいですね。
大丈夫。あなたはきっとなれる。無知の知を知り、『真理(愛・神)』を味方につけ、『同』ではなく『和』を作ることができる、主体的で、自燃型な、モチベーション3.0の超人に。そうして質実剛健になったあなたは、『システム2』を起動して、『真理(愛・神)』の輪郭を見つけ、上昇志向を持ち、フッパーとリヴァイアサンを思うように操り、インサイド・アウトの発想で、この人生でその命を使い切ることができるのです。アファメーションが大事です。あなたは特別な存在なのです。忘れてはいけません。我々はたった一度の人生を生きているのです。
さて、ここからはいよいよ結論に向かって話をまとめていきます。人間は一体どのようにして生きていけばいいのか。それを具体的に考えていきましょう。
確かに老子の言うように、自然に身を任せて生きるのも一つの手です。今でも少数民族はそのような生き方をしていて、案外そういう人たちの方が平和に、病気とは無縁で生活できていたりします。例えばイヌイットの人たちは肉ばかり食べます。朝昼晩と、肉、肉、肉です。『科学でわかった正しい健康法』にはこうあります。
肉しか食べないイヌイットは我々より健康である!
イヌイットに会ってみたい。数十年前からイヌイットの存在そのものが、健康業会をいら立たせてきた。北極圏の酷寒のなか、彼らはほぼ肉、魚、脂質しか摂取しないという食生活を送っている。野菜はゼロに近い。果物もゼロに近い。炭水化物もゼロに近い。1日のメニューはこんな感じ。
- 朝食 肉
- 昼食 肉
- 夕食 肉
だからこそ、現代の栄養学の世界ではイヌイットの存在が厄介な問題となっている。こんな食生活を送っているのに、イヌイットが健康だからだ。摂取するカロリーの約7割を脂質からえているにもかかわらず、複数の観察研究が、僕たちの心臓と比べて、イヌイットの心臓のほうが健康であることを示したのだ。
レオナルド・ディカプリオやブラッド・ピット、トム・クルーズ、マドンナ、カルロス・サンタナ、などの有名人は加齢を抑えるためにも肉食はしていないそうです。獣肉には動物が排泄するはずだった老廃物を含んでいるので、それによって老化が進んでしまうからですね。
しかしイヌイットの人々は違います。全く矛盾する話です。しかし事実は断片的ではなく、正確に理解することが重要で、実はイヌイットの人々は動物の、
そのすべてを食べるのです。ですから、脳や肝臓、あるいは骨に含まれているビタミンをしっかりと摂取していて、血も飲み干します。ビタミンA、E、そしてB群のすべてが肉には豊富に含まれているので、とても健康でいられるのです。そしてそれだけじゃなく、恐らく彼らの体内いる腸内細菌等も関係しているでしょう。日本人が急に彼らの真似をすればいいというわけではないはずです。彼らは長い間『自然と共生』し、『自然な生き方』をしてきたからこそ、『不自然な問題』と無縁でいることができている可能性が高い。
例えば、上記の記事に書いた、
の話を見てみましょう。上の二つの人々は『ニキビとは無縁』の人生を生きていて、アーミッシュの人にはアレルギーがありません。それは、彼らは『古くから伝わる自然な生き方』に沿って生きているからなのです。例えばアーミッシュの人々の生活の特徴をまとめてみましょう。
彼らはこのような200年前(昔)から変わらない『自然との共生』を意識した生活を守ってきました。これが彼らをアレルギー知らずの健康な心身の源なんですね。こういった事実を俯瞰的にみると、『自然からかけ離れれば離れるほど、不自然な影響を負う』という図式が頭をよぎります。
私はこのあたりの問題に関しては、人間はまだまだ改善の余地があると踏んでいます。インペリアル・カレッジ・ロンドンで生物学の学士号と修士号を取得したのち、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンおよびロンドン動物学協会で進化生物学の博士号を取得したアランナ・コリンが2016年に書いた『あなたの身体は9割が細菌』では結局、『人は、抗生物質等の使用によって寿命を延ばす代わりに、腸内細菌のバランスを崩し、21世紀病を増やした可能性がある』ということについて触れています。
アトピー性皮膚炎、消化器トラブル、心の病気等。
しかし彼女は同時にこうも言っています。
自動車が電気自動車になり、エコハウスのような考え方が徐々に蔓延しているように、人は『最適な生き方』というものを現在進行中で模索中です。そんな中、老子の言うように最初からもっと自然に身を任せれば、不自然な結果は起きない。そういう発想も頭をよぎります。
ただ、老子の考えるそれは、『上昇志向』の否定。だとすると懸念するべきなのは、『モチベーション3.0』という潜在能力の埋没です。ダニエル・ピンクの言うように人の初期設定(デフォルト)は、もっとレベルの高いものです。
つまりその逆で、積極的に自発的に行動するようにプログラミングされているはずなのです。老子の発想をしてしまうと、この可能性が埋没してしまいます。また、老子のそれは『不可知論』的な発想に似ています。
ものごとの本質は人には認識することが不可能である、とする立場のこと。
足るを知ることはいいのですが、探究心があり、上昇志向があるからこそコペルニクスやガリレオが天動説が間違いだと気づき、ニュートンが万有引力の法則に気づき、アインシュタインが相対性理論を見出し、コロンブスが新大陸を発見し、マゼランが船による世界一周計画でこの地球が大部分が水に覆われた球体であることが証明し、リンカーンやキング牧師らが人の間に差別がないように奮闘し、ガーシュインは世界的作曲家となった。
それだけではありません。この虚無たる世界を彩るために、映画、漫画、音楽等の様々な作品を生み出すクリエーターたち。自らの限界に挑んで挑み続けるアスリートたち。彼ら、彼女らの生きざまを見て我々は生きる勇気や大きな感動をもらえるのです。
『インディ・ジョーンズ』、『ジュラシック・パーク』を作ったスティーブン・スピルバーグの『リンカーン』を観れば、彼のようなエネルギーを燃やす人間が必要だったということがわかるでしょう。彼は『大きな犠牲』を払い、人に尽くした。また、黒人差別について考えるために観るべきなのはこれだけではありません。『デトロイト』、『マルコムX』、『グローリー/明日への希望』等、たくさんありますが、私が紹介したいのは以下の映画。
『アメリカン・ギャングスター』、『ドクター・ストレンジ』のキウェテル・イジョフォー、『プロメテウス』、『スティーブ・ジョブズ』のマイケル・ファスベンダー、『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』、『アベンジャーズ/エンドゲーム』のベネディクト・カンバーバッチ、そして言わずもがなのブラッド・ピットが出演する『それでも夜は明ける』。
この映画の原作は1853年発表の、1841年にワシントンD.C.で誘拐され奴隷として売られた自由黒人ソロモン・ノーサップによる奴隷体験記”Twelve Years a Slave“(意味:12年間、奴隷として)。つまり、実話に基づく話です。黒人たちがどういう扱いを受けたかを知るためにはこの映画を観るのがいい。『リンカーン』と合わせて観るべき映画です。
人間は動物と違って上昇志向を持てる。それなのに、その能力を使わないでそのままにしておくのは何かを『浪費』している気がするし、どこか『無責任』にも見えます。老子のそれは、『暴力を振るう可能性がある腕力を捨てろ』という発想に似ています。たしかに、なまじ腕力があるから男は女性に手を上げる。力の暴走を抑えられないなら、力を持つ資格はないというのはわかります。
ただ、すべての人が暴力をふるうわけではない。中にはその持っている力をしっかりと抑制し、支配する人間もいるのです。子供、老人、女性が持てない重い荷物を持つ時、男の腕力は役に立つのではないでしょうか。そしてそれは男の腕力だけではありません。映画『ブレイブ・ワン』を観てください。
今にも結婚しそうなある幸せなカップルが、ある日公園で暴漢に襲われます。男性は死に、犬は連れ去られました。運よく一命をとりとめた女性が目を覚まします。
この事件の加害者は警察に逮捕されませんでした。こういうことはよくあるとでも言うかのように、淡々と流れていく日々。この映画のキャッチコピーはこうです。
あなたはジョディ・フォスターを許せるか?
これ以上人間の規範意識が揺り動かされる映画を、私は他に知りません。詳しくは映画をご覧ください。彼女は一体どうすればよかったのでしょうか。もし自分が理不尽な暴漢に遭っても、無抵抗を貫くべきでしょうか。動物が、動物同士で争い、肉を喰らい、食虫植物が虫を捉えて餌とするのが当然のように行われている中、その時、自分の身を守る護身術や腕力は実力を発揮するべきなのではないでしょうか。それともこの男性のように死ねばいいんですか?
何が正しくて、何が間違いなのかを判断する意識。例えば、見渡しのいい広大な土地で、明らかに誰もいない場所で信号が赤のとき、人はその信号を守るべきだろうか。ルールや法律は『人のため』にできたのであり、『ルールや法律のため』に人が在るのではない。
また、『リヴァイアサン』の話でビンラディン殺害の話をしましたが、紹介した映画『バイス』では、最後にブルース・ウェイン演じる『副大統領(バイス・プレジデント)』であるディック・チェイニーが視聴者にこのようなことを問いかけるシーンがあります。
正確にはこういうセリフではありませんが、これを観て視聴者はこう思い知ることになります。
たしかに自分がこの立場だったらどうすればいいのか…
誰かが『やるべきこと』をやらなければならないときがある。それが現実なのです。それはテロだけじゃなく、戦争で考えてもそうです。観るべきなのは以下の2つの映画です。『ダークナイト』、『インセプション』等でメガホンを取ったクリストファー・ノーランの映画『ダンケルク』。
これは『現場』です。そして『会議室』として観るべきなのは、『レオン』、『ダークナイト』に出演したゲイリー・オールドマン主演の映画、『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』です。
吃音症の時に説明した『英国王のスピーチ』を観ていれば、更にこの奥行きも深くなります。また、『ヒトラー最期の12日間』を観ると、ヒトラー側のイメージもできるようになります。
誰かがやらなければならない。やらなければやられてしまう。そういうシーンが、人生にはあるのです。自分だけが力を捨て、自然に近い生き方をしようとしても、その他の人がそうじゃない以上、こういう事件や事実に直面することは避けて通れません。リヴァイアサンを操るためには、確かに『召喚士』としての能力が必要です。その資格がない段階でこの猛獣を召喚するのは危険です。しかし、人はこの混沌とした無常の世を生きていこうと思うなら、この猛獣を操る能力を身につける必要があるのです。
老子は確かに『小国寡民』を理想郷としました。しかしもうすでにこの世はそうではない。近い将来人口が90億人を超えることはすでに決まったも同然であり、人の数が増えれば増えるほど違った考え方が増え、そのような事実や対立も増えるというもの。
住民が少ない小さな国。国が乱れることなく治まる小国寡民が自然な姿だと老子は言いました。
それに、この小国寡民を考えたときに非常に興味深い映画があります。『シックス・センス』のM・ナイト・シャマラン監督、『ジュラシック・ワールド』のブライス・ダラス・ハワードが演じる『ヴィレッジ』です。(これだけ公式動画がないのでいずれ消えるかもしれません)
私はいまだにこの映画の本質をしっかりと理解している人を見たことがありません。多くの人は『サスペンス』や『ホラー』の類だと考えていて、中には『ファンタジー』だと捉える人もいるようです。CMにも影響されたでしょう。広告というのは普通、大勢の人に見て貰うために打ち出すものですからね。しかしこの映画はそういう類の映画ではないのです。
広告とは、そこにある実質という唯一無二の価値を、より多くの価値観の違う人間に理解してもらうために行う、情報のカスタマイズです。つまり、この映画は深すぎるのです。ですから多くの人はそれを理解できません。でもこれは映画ですからね。莫大な費用がかかっています。キャストやスタッフへの報酬もあります。そこで、CMを少し『面白おかしく』する必要があります。すると、映画館に興味本位で足を運ぶ人が増えます。それで一応興行収入は作れます。しかし、あまりにも内容が深すぎるため、何を言いたかったのかよくわからないまま、消化不良的にこの映画を観終わる人が多いのです。
例えば先ほど挙げた『バイス』のもう一つの予告動画を観てみましょう。この動画からは『大勢の人を呼び込みたい』という意図が伝わってきますよね。
彼の仕事は政治家であり、主な業務は政治。それは多くの人にとってとても退屈なもの。ですから、それをいかに面白おかしいものだと思ってもらえるかが集客に響くわけですね。
この映画は予告動画だけじゃなく、本編でもなるべく楽しんでもらえるように工夫がしてあります。
例えば、宮崎駿は何度も『引退する』と言っていますが、実際にはしていません。彼以外にもレオナルド・ディカプリオなどもそうでしたが、そう言われると、
え、じゃあ見なきゃ!
となりますよね。宮崎駿は『鈴木さんと一緒じゃなきゃやってこれなかった』と言っていますが、スタジオジブリには鈴木敏夫という名プロデューサーがいて、彼が広告も含めた金銭的な問題はすべて請け負っています。
ユニクロを運営するファーストリテイリング社長、柳井正はこう言いますが、
人集めというのは時に『誇大広告』スレスレのことをやらなければならないものです。ここだけを見ればとても軽薄で拝金的に見えますが、人を熟知していくとこうした結果にたどり着いてしまうんですね。広告とは、そこにある実質という唯一無二の価値を、より多くの価値観の違う人間に理解してもらうために行う、情報のカスタマイズです。『良いもの』を作ればそれだけでいいというわけではないというのが、この世の仕組みなんですね。
スタジオジブリが『集客のための広告戦略』として『引退シナリオ』を使っているのか、あるいは本当に一つ一つの作品の命を懸け、次の作品などもう考えられないくらい燃え尽き、その時は本当にそう思ったのかは定かではありませんが、結果的にその一連の流れは大きな集客につながっていて、『千と千尋の神隠し』は日本映画の興行収入で圧倒的1位をいまだにキープし続けています。
日本映画興行成績ランキング
1 | 千と千尋の神隠し | 2001年 | 308億円 |
2 | 君の名は。 | 2016年 | 250.3億円 |
3 | ハウルの動く城 | 2004年 | 196億円 |
4 | もののけ姫 | 1997年 | 193億円 |
5 | 踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ! | 2003年 | 173.5億円 |
6 | 崖の上のポニョ | 2008年 | 155億円 |
7 | 風立ちぬ | 2013年 | 120.2億円 |
8 | 南極物語 | 1983年 | 110億円 |
9 | 踊る大捜査線 THE MOVIE | 1998年 | 101億円 |
10 | 子猫物語 | 1986年 | 98億円 |
というか上位にあるのはジブリ映画だらけですね。ちなみに『千と千尋の神隠し』は『日本らしさ』が盛り込まれていることから、海外で人気があるように思えますが、アメリカでは『ポケモン』、『ドラゴンボール』の方が上で、この作品は8位となっています。
さて、ここからは映画を観た人しかわかりません。この村(ヴィレッジ)に住む人々は、過去に理不尽な形で家族を失っています。まさに、ブレイブ・ワンのジョディ・フォスターのような事件を経験したのです。そして、子供たちの未来のために、そして自分たちの心の平安のために、お金持ちの力を借り、小さな村を作った。そしてそこで子供が生まれます。子供たちはその村がこの世界のすべてだと思っています。
村を出たら化け物に襲われる。そういう伝説を作り、大人たちは子供たちの『好奇心』を抑制します。それで何とかこの村の平和は保たれてきました。私はあえて、老子の理想としたこの小国寡民の批判はしません。しかし、『国が乱れることなく治まる』はずの小国寡民システムは、実際にはどう機能するか。それをこの映画を通して体験してみましょう。
では一体どうすればよかったのか?この大人たちは子供たちの未来や可能性を奪った?彼らにこんなことをする権利はない?子供を理不尽に殺されたから、二度とそうならないように防衛することは、間違っている?
後は自分で考えてみましょう。そして、最後に子供が取った行動にも注目です。もしこの映画の意味が分からなかった人も、私のこの話を聞いた後に観れば、見えなかった部分が見えるようになります。私はクリスチャンの家庭で生まれたからたまたま分かったのです。私の親とて、私のことを守りたくてクリスチャンを勧めたのですから。
そしてこの『クリスチャン(キリスト教徒)』というキーワード。それはこの映画『ヴィレッジ』にも関係してきます。また、もしこの映画が『フィクション』だということに引っかかるというのなら、『ハリーポッターシリーズ』のエマ・ワトソン主演『コロニア』を観るといいでしょう。
ピノチェト軍事独裁政権下でナチスの残党パウル・シェーファーと結びついた拷問施設「コロニア・ディグニダ」の実態を描いた実話(ノンフィクション)です。監督のフローリアン・ガレンベルガーは、9歳のときに学校でこの「コロニア・ディグニダ」のことを習い、そこで起きていたことに怒りを覚えたことが映画化を決意した理由であると語っています。
この拷問施設は『宗教施設』でもあります。ここにいる人たちも同じようにキリスト教を人々の生活の中心に持ってきて、『小国寡民』のようなモデルを理想として、世間から隔離して生きているわけです。ただし、ヴィレッジとはどこか様子が違います。確かにあの映画もこれと同じように小国寡民をベースにした人々の生活を観ることができますが、決定的に違うのはこれが『実話』ということと、そして『一度入所したら二度と出られない』ということ。
実際には、40年間で脱走に成功した人間の数は、わずか5人。
『ヴィレッジに戻りたいと思った子供』と『この施設には二度と戻らないと誓って脱走した人』。この差は余りにも大きい。老子の言う小国寡民システムは、『国が乱れることなく治まる』はずですよね。しかし人の数を少なくすることで『統率しやすくなる』と考える人間が出ることは避けられない。つまり、もしこの『コロニア』のようなことが起きてしまったら?実際に、カトリック教会の聖職者たちがやっていたことはすでに確認していますよね。人がそのような『サンクチュアリ(法のない聖域)』で特権を乱用し、越権行為に走らないと過信することはとても危険なのです。
すべての人がああしたヴィレッジを作ることはできません。今の世でディオゲネスのように樽の中で生活をすると『浮浪者』と呼ばれるようになります。国民の三大義務を果たさないなら、人としての権利も大きく剥奪されます。自分たちだけが平和に生きられればいいというのも、どこか考え方として妙です。ブッダや孔子はこう言いますが、
インターネットをやめたって、自分たちだけが小さなヴィレッジで隔離された場所で生活したって、世界には自分たち以外に大勢の人たちがいる。その人たちはどうなってもいいんですか?自分たちだけが綺麗に生きていればそれでいい?ジョディ・フォスターが演じた彼女だって、最初はそう考えていましたよ。
私との人間関係が不和になっている人は大勢いますが、私はその人たちが地獄に堕ちればいいとは思っていません。『システム2』を起動し、私との人間関係を再考し、もし自分が間違っていると思ったなら、歩み寄ってほしいと考えています。一つ言えるのは私からはもう決して歩み寄ることはないということです。それまでは私が歩み寄ってましたから。
それに、人が『統率しやすい小国寡民システム』に目を向けたとしても、そこがこの『コロニア』のようにならないとは断言できない。どこかの『小国』には必ずこうした問題が起きるはず。この世に人間がいる限り、それを小国にしても大国にしても、問題は起き続けるのではないでしょうか。
それに、たとえ小国寡民をベースとして生きて、自分のエネルギーを抑えたとしても、どちらにせよ人間の好奇心や探究心は止めることができません。それはヴィレッジの話や、実際の子供たちを見ればわかることです。また、下記の記事にある『空飛ぶ機会』を読んでもわかるでしょう。彼らに悪気はないのです。男はただ、空を飛んでみたかっただけなのです。その延長線上に悲惨な戦争があるということまでは、考えることはできなかったのです。
トマス・ホッブズの言う『リヴァイアサン』のことを考えても、人はもっともっと主体的に、エネルギッシュに生きていい。ニーチェの言うように、既存の価値に囚われずに新しい価値を生み出す人間を意味する、『超人』になるべきなのです。小国寡民の世界が実現不可能、かつ『単なる理想郷』でしかないこの『人がいる世界』を生きていくためには、むしろそうした力強いエネルギーが求められるのではないでしょうか。それはもちろん、アレクサンドロスや、ヒトラー、スターリンのような人間になるということではありません。それは『暴力』ですからね。
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