第19の黄金律
『この世に価値のない人間などいない。いるのは価値がわからない人間だけだ。』
人間は皆、ダイヤモンドだ。いや、それ以上の価値があるのだ。
同じ的を射た偉人(12人)
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同じ的を射た書物
17冊 |
背の高い人と、背の低い人間がいる。背の高い人間は、背の低い人間ばかりいるところでは、『でくの坊』と呼ばれ、背の低い人間は、背の高い人間ばかりいるところでは、『チビ』と呼ばれる。では結局、どちらが有能で、どちらが無能なのだろうか。
答えは、『どちらも有能で、どちらも無能になり得る』である。
背の高い人間は、低いトンネルをくぐる競争を求められたとき、背の低い人間と比べて、圧倒的に不利な状況を味わうことになる。背の低い人間は、高い場所にある物を競争を求められたとき、背の高い人間と比べて、圧倒的に不利な状況を味わうことになる。だとしたら、背の高い人間が高い場所にある物を取り、背の低い人間が低いトンネルをくぐり抜けて協力すればいいだけだ。
また、イギリスの哲学者、アダム・スミスは言った。
『水に何の価値があるのか?』と思う人は、ダイヤモンドに価値を見出しているのだろう。確かにそれは高値で売れる。だが、この世から水が無くなったとき、ダイヤモンドをいくら大量に持っていたところで、そんな石ころでは人間が生きていくことが出来ないことを思い知るだろう。
『ダイヤに何の価値があるのか?』と思う人は、水に価値を見出しているのだろう。確かに人間は水がなければ生きていけない。だが、この世から水が枯渇さえしなかったら、ダイヤモンドやお金さえあれば、それと引き換えにいつでも新鮮な水を補給することができるだろう。
『エネルギー不変の法則』というものがある。木が燃えたら、確かに木の物質的なエネルギーは消える。だが、燃えて気体になった熱エネルギーはそのまま空(宇宙)に放出され、宇宙のエネルギーの総和は、結果として変わらない。その真理を突いたのが、『エネルギー不変の法則』だ。 つまり、この世にある一切のものは、害虫(と人間が思っている虫)だろうが、石ころだろうが、排泄物だろうが、全て同じエネルギー共同体なのだ。
その害虫が担っている役目はないのか。石ころはどういう資源に生まれ変わるのか。思い出で土を家に持って帰ることはないのか。排泄物は肥料に、あるいはエネルギー源になることはないのか。ここまで考えたら、もう優劣がどうだとか、関係なくなってくる。人間も同じだ。適材適所だ。それがわからない人間は、人に教育をする資格はない。
わかりやすいイメージ・ヒント
弓使いが後方ではなく前方にいる。剣士が前方ではなく後方にいる。それは本当に『適材適所』だろうか。
100年に一度の傑物が船長をやる海賊船がある。だが、彼は剣を使えない、狙撃の腕がない、航海の技術がない、造船の技術がない、古文書が読めない、医療行為ができない、音楽を奏でられない、料理が出来ない。だから仲間が必要だ。
人間の評価など最初から当てにならない
下記の黄金律にも書いたが、そもそも、人間の評価など最初から当てにならない。
つまりこういうことだ。『赤信号、みんなで渡れば怖くない』
だが、赤信号は『とまれ』だ。
正しいのは『人間の意見』ではない。『真理』だ。真理を語る人間は正しく見えるが、実際はその人間が正しいのではなく、真理が正しいだけだ。そうなると、真理を語らない人間など、話にならない。
例えば、言うことを聞かない人間に、こう語ってみるといい。
『俺が正しいんじゃない。俺が言ってることが正しいんだ。例えば、人は絶対に死ぬ。それに何か文句があるか?』
もちろん、ここまで偉そうな言い方をするなら、余程その答えが真理だという確信がなければならないが、もしその確信があるなら、相手の批判など怖れず、断固としてそれを貫くべきである。とにかく、人が自分と違う意見を持っているからといって、真理を味方につけている人間は、その態度を変える必要はない。いやむしろ、変えてはならないのだ。
蕭何の武功
ある日の『PRESIDENT』にはこうあった。
蕭何の武功
古代中国の大帝国、『漢』の高祖となった『劉邦(りゅうほう)』の天下取りを助けた三羽ガラスは、軍師の張良(ちょうりょう)、勇将の韓信(かんしん)、そして蕭何(しょうか)である。
彼らの職務を現代風にいえば、張良はさしずめ企画室長で、韓信は営業部長、蕭何は総務部長であろう。劉邦は皇帝の位について、論功行賞を行ったとき、『最高の功績は蕭何にあり』とした。これにたいして功臣たちは一斉に不満を表明した。
ある者は、
『私たちは戦場に出て体を張って闘ってきました。そうやって城を落とし、敵を倒したからこそ、天下を平定できたのではないでしょうか。それにひきかえ、蕭何は一度も戦場にでたことがなく、城を一つも落としたことがない。敵将の首を取ったこともない。それが私たちより功績があるとはどういうことでしょうか。』
と言い、またある者は、
『私たちは知略を尽くして敵を攻め落とす方法を考えました。戦争に勝てたのは私たちの戦略があってからこそ』
と言った。つまり、営業の人間は
『汗水たらして駆けずり回り、売上を上げたからこそ、会社が発展したのだ』
と言い、企画の人間は
『企業戦略を策定し、宣伝も考え、会社の持つ戦力を100%以上に働かせたからこそ、会社の発展があったのだ』
と主張したわけである。それにひきかえ総務の人間は何をしていたのだ、会社の中に座っているだけで、何の利益も生み出していないじゃないか、という言い分である。そういわれれば総務担当の人間はこれといった大きな手柄はない。得意先の開拓をしたわけでもないし、営業キャンペーンを指揮したわけでもないし、新商品を開発したわけでもない。 それでは何の仕事もしていないのかといえば、そんなことはない。裏方で目立たないけれども、営業や企画の社員たちが存分に働けるように、職場環境を整え、さまざまな雑用をしているのである。
劉邦が、『蕭何に最大の功績あり』としたのは、この『裏方の地味な仕事』が天下平定になくてはならないものだったことを知っていたからである。 劉邦は、ライバル項羽(こうう)と足かけ五年の戦いの末、勝利を握ったが、初めのころは連戦連敗だった。
ところが、それでも屈することなく闘い続けているうちに、流れが変わり、ついには項羽を破ることができたのである。この大逆転を呼び込んだのは、負け続けながらも弱体化せずに挑戦し続けたからである。そして、劉邦が不死鳥のように挑戦し続けられたのは、後方から蕭何が絶えず兵員と物資を補給していたからである。
この蕭何の補給のおかげで、劉邦は戦闘に敗れても破れても、態勢を立て直して項羽に挑むことができたのだ。 いかなる勇将、猛将も、またいかなる戦略家たちも、蕭何の途切れることのない補給なしには大きな功績を上げることができなかったわけである。
営業や企画、そして開発の仕事は華々しい成果が上がるので、傍目には目立つが、それだけが企業を支える仕事ではない。その陰で、キチンと帳簿をつけたり、必要な人員、必要な資金、必要な物資を調達することもまた、企業にとっては重要な仕事なのである。こういう裏方で、地味ではあるけれども、コツコツと仕事をしていくことも、高い評価を得る要因となろう。 目立たない仕事であるけれども、腐らずにコツコツやれる人間は、出世の階段を着実にあがっているのである。
人には『向き、不向き』というものがある。自分はどこの座につくのが相応しいのか。自分の能力を見極め、そこに徹することが最重要である。このとき、一見地味と思われる『援』である蕭何が、戦にて一番の報酬を得た。『援護など大した功績ではない』と口を揃えた他の者たちは、だからこそ、君主の位置にいないのだ。
ヒット主義の罠
Web制作やSEOを学んだ者で知らない者などいない『ロングテール』という言葉を初めて世に知らしめたワイアード誌の編集長、クリス・アンダーソンの著書、『ロングテール』にはこうある。
ヒット主義の罠
(省略)エンタテイメント産業が得た教訓は明らかだ。人々が求めるものを与えよ、である。人々がニッチなコンテンツを求めているのなら、それを届けなくてはならない。そしてヒット作やスターに多額のコストをかけていいのか考えなおすようになると、新しい市場では商品や参加者が動機の在り方が以前と違うようになった。
物事を白か黒かーヒット作か失敗作かーはっきりさせたがるのは人間の常だ。でももちろん世界はもっと曖昧で混乱に満ち、偶然に左右される。商品も同じで、大半がヒット作でも失敗作でもない。
ほとんどの商品がそこそこの売れ行きであることを僕たちは忘れがちだが、音楽から洋服まで大半のものがせいぜいちょっと売れる程度で、ほとんどはヒットとは言えない。それでもなぜか存在しているのは、ヒット商品の経済だけが経済ではないからだ。僕たちはごく一部だけを見て産業全体を判断する傾向があるけれど、ヒットはあくまでも例外的なもので、主流ではないのである。
たとえば、ハリウッドの経済はインターネットの動画の経済とは違うし、マドンナの収入の期待値はクラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーと同じではない。またディズニーの要望で著作権保護期間の延長を承認した議会は、曲線のてっぺんにだけ味方していたことになる。
おかげでディズニーにとっては嬉しいだろうが、アメリカにとっては必ずしもいいおとではない。デジタル・ファイルのコピーや動画の送信技術を規制する法律もそうだ。いかんせんテールにはディズニーの様な陳情活動をする人がいないので、ヘッドの意見ばかりが通ってしまう。
不足時代の発想をしている為に犯しやすい勘違いをほかにもいくつか挙げてみよう。
- みんなスターになりがたっている
- みんな金のためにやっている
- 売れなければ失敗
- 成功とは大衆受けすること
- DVDしか観てもらえない作品は二流
- 自費出版本はクズ
- インデペンデント系とはプロ失格のこと
- アマチュアは未熟の別名
- 売れないのは質が悪いから
- いいものなら売れるはずだ
ただし、『なぜこのような誤謬を起こしてしまうのか』ということについては、極めて注目に値するべきである。『蔓延している何か』がそうさせたのだ。そのエネルギーを過小評価することがあってもならないことを、肝に銘じるべきである。
私は絶対に価値ある人間であり、私には私のできることがある
実に50の職業経験と、世界40か国の旅を経験した有川真由美の著書、『遠回りがいちばん遠くまで行ける』にはこうある。
人は思った通りの人になる。自分をどんなふうに扱ってきたかが大切
(省略)(※面倒を見てくれていた子守のおばあさんが)だれよりも早く平仮名を覚えた、本当に木登りが得意ねえ、とてもよく気が利く子だわ…と、だれも気付かない点を褒めてくれていたのです。おかげで、私は密かに『自分は特別な人間なんだ』と思っていました。たとえ、人よりも劣っている部分があったとしても、『人は人、自分には自分の良さがある』と。
よく、『私なんか…』と口にする人がいます。『私なんか太っているから』『私なんか年だから』『私なんか稼げない女だから』『私なんか絶対、無理』というように。自分を『人より劣った人間』として扱っていれば、実際にそんな人になり、それにふさわしい現実をつくり出します。自分自身に対しても失礼です。
(中略)まわりの人や、世界中の人が『あなたはダメな人間だ』という言動で接したとしても、自分だけは『私は絶対に価値ある人間であり、私には私のできることがある』とつぶやきながら進みましょう。かならず、そうなりますから。人との単純な比較は、のびのびと生きようとする力を邪魔します。『人は人、自分は自分』と自分の道を歩き、自分を信頼している人がいちばん人生を楽しめ、輝くことができるのです。
自分の命の価値を信じよ。そしてそれを最後の一呼吸が終わるまで、微塵も疑うな。
もっと『寛容』になる
2006年に『ニューズウィーク』誌日本版にて『世界が尊敬する日本人100人』に選出された、曹洞宗徳雄山建功寺住職、増野俊明の著書、『心配事の9割は起こらない』にはこうある。
もっと『寛容』になる
十人十色。十人の人間がいれば、一人ひとり人格も個性も違うということです。きわめて当然の話で、そのことを真っ向から否定する人はいないでしょう。そうであるなら、会社で一緒に仕事をする上司も部下も、それぞれに違う人格と違う個性の持ち主のはず。人生観もいろいろに決まっています。ところが、自分と違う人生観を持っている人に対して、ときに苛立ちを覚えたりするのが人間です。
(中略)しかし、あらためていいますが十人十色ですし、人生いろいろなのです。他人の人生観がどうであろうと、それをあれこれあげつらうのは『筋違い』です。もちろん、仕事をするうえで支障をきたすということなら、なにごとかをいう必要があると思いますが、そうでないかぎり、それぞれの人生観は認めるのが原則でしょう。
何度でも繰り返そう。十人十色、十人十色、十人十色だ。
みんな違うから全体が機能する
早稲田大学商学部を卒業後、様々な経歴を経て、クリスチャン女性の国際的なグループ『Aglow International(アグロー・インターナショナル)』に所属する中村芳子の著書、『聖書88の言葉』にはこうある。
体にはいろいろな器官がある。みんな違うから全体が機能する
人の役割が歯車にたとえられることがある。しかし歯車は偉大だ。様々な形や大きさがあり、固有の役割がある。小さな歯車ひとつがこわれたら、機械全体が動かなくなる。
聖書は、私達ひとりひとりは、体の一部分であると教えている。手には手にしかできないことがあり、足には足の役割があり、それぞれがユニークな働きをする。そして体全体が機能する。手だけで、足だけで、体からはなれて存在することはできない。自分が手なのか、足なのか、目なのか、耳なのかをわきまえて、自分の役割をしっかりと果たしたい。
これは単なる『協調性』とはちょっと違う。みんながまんして和を保つのではない。詩人の金子みすゞが詠った様に、
『みんなちがって、みんないい』
ひとりひとりが違うからこそ、初めて全体として機能する。違うってすばらしい。自分が皆と違うことを、誇りに思おう。人が皆と違い、あなたと違うことを尊重しよう。
『聖書』
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、『わたしは手ではないから、体の一部ではない』といったところで、体の一部ではなくなるでしょうか。(コリントの信徒への手紙一12:14-15)
あなたは生きているだけで価値がある
また本にはこうもある。
あなたは生きているだけで価値がある
職を失って、ひどく落ち込んでしまうことがある。病気で人の助けを借りないと生活ができなくなった時、自分を厄介者だと感じてしまう人もいる。元気に働いている時は、仕事を通して社会に貢献したり、家のことをして家族に感謝され、存在意義を感じていた。しかし仕事や収入をなくすと、自分を役立たずで社会のお荷物と感じてしまうのだ。『社会や人の役に立たなければ存在する意味がない』という価値観を持っていたら、その物差しで他人を測ってしまう。そして同じ物差しで自分を測るはめになる。その価値観にしっぺ返しをくらうことになる。
聖書は、○○でなければ価値がないとは言わない。ただ、『あなたは尊い』と言う。無条件だ。あなたがそこにいて、あなたが生きているだけで価値がある。神が『ありのままのあなたを愛している』と言っている。
『聖書』
わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ書43:3)新改訳
人間の聖典の言葉に、注意深く目を向けよう。
むしろ折々は一緒になって協力するほうがよい
新渡戸稲造の著書、『自分をもっと深く掘れ!』にはこうある。
人を使うには、決して自分の便利のみを図るべきではない。同じ人間である以上は、互いにその人格を無視することはできない。そして、他人の人格を認める以上は、必ずそこに何らかの長所があり、惜しむべき点がある。これを発見し、これを惜しんでこそはじめて、世は情けということが味わわれ、浮世と言ってもそれほど浮いているわけではなく、なかなかにしっかりした基礎の固い存在であることがわかるだであろう。
(中略)性質が違うからと言って、相手を排斥することはできない。またまったく絶交することもできない。どうせできないから、むしろ折々は一緒になって協力するほうがよい。少なくとも私のわずかな人生の経験では、性質上相容れない人と交わる方が、自分の利益となるのみならず、自分の従事する事業の為にも便益があると思う。
(中略)ゆえにこの世に処する人は、性質の異なった者を容れるだけの雅量をもたねばならない。何らかの仕事を起こそうとするときは、その仲間として必ず性質の違った者を加えて、協力するよう努めるべきである。(中略)だから私は、いかに性質を異にしても、それを理由に他人の悪口を言うのはよくないことと信ずる。なるべく他人の長所を見出だし、他人の己にまさる点に意を注げば、自分の輪郭も大きくなり、心も広がるものである。
自分と価値観の違う、『異質』だと思う人間とは、むしろ一緒になって協力する方がいい。こうした事実に気づくべきである。
相対性理論
京都大学大学院を出て、東京大学等の教授等を務める佐藤勝彦の著書、『相対性理論を楽しむ本 よくわかるアインシュタインの不思議な世界』にはこうある。
止まっている時の長さを、相対性理論では『固有の長さ』と呼びます。固有の長さが40万㎞のものが、動いているときには24万㎞や10万㎞になったりする。そのどれも、長さを正しく測った結果なのです。
つまり、固有の長さだけが、本当の長さなのではないのです。どれも正しい長さであり、数字の違いは、ものが止まっているか、動いているかによる相対的な違いにすぎません。長さとは、そして空間(というか空間の二点の間の長さの測り方)とは、総体的なもの、総体的に変化するものだということを、理解しください。
これを考えたとき、もはや地球にある『尺度』など、あまり参考にならない。
包容力を持つ
儒教、仏教、道教を深く学び、足りない部分を補って創り上げた、洪自誠(こうじせい)の著書であり、川上哲治、田中角栄、五島慶太、吉川栄治ら昭和の巨人たちの座右の書である、『中国古典の知恵に学ぶ 菜根譚』にはこうある。
包容力を持つ
この世の中でうまく生きていくためには、あまりに潔癖すぎてはいけない。世の中には汚いものやけがれたものがたくさんあるが、それらをすべて受け入れるだけの度量が必要だ。人との付き合いにおいても、好悪の感情で割り切りすぎるもはよくない。世の中には、善人や悪人、賢人や愚人などさまざまな人がいるが、そうした人たちを皆受け入れるだけの包容力が必要だ。
包容力を持つことができない人間に、大した人間はいない。
人はそれぞれに違うことを理解する
心理学者でストレス・コンサルタントのリチャード・カールソンの著書、『小さいことにくよくよするな!』にはこうある。
人はそれぞれに違うことを理解する
(省略)海外旅行をしたり映画を観たりして、世界にはさまざまな文化があることはご存じだろう。人それぞれのちがいは文化のちがいほど千差万別だ。ちがう文化圏の人たちは自分たちとは見方や感じ方が違って当然(同じだったら、きっとがっかりするはずだ)というのと同じように、世界にたいする見方もそれぞれちがうのが当たり前。そのちがいをがまんするのではなく、それ以外にはあり得ないという事実を理解して、敬意をもつことが大切だ。
(中略)私たちはそれぞれちがうんだ、という事実を深く考えて尊重することをおすすめする。そうすれば他人にたいする愛情と自分という唯一無二の人間を認める気持ちは、いまよりずっと深まるだろう。
人はそれぞれに違う。違うからこそ、可能性があるのだ。
多様性と経済
ジェフ・ハウの著書、『クラウドソーシング』にはこうある。
多様性と経済
『われわれの教わってきた歴史では、偉大な人物、たとえばナポレオンが、たった一人で活躍したということになっている。だが、現実はもっとごたごたしていて、一足飛びをもたらす者と一工夫を加える者とが複雑に作用しあう』歴史には、スクリプトのキディ軍団ー茶色い靴下集団ーがあらわれ、その独特なものの見方をもって、みなを新たな見地に導いてくれることが必要なのだ。
『このコンテストには、際立った能力をもつ人々も参加している。彼らの一人が突破口をひらけば、旧来のコンテストであれば、それ自体として最高の解決法になる。というのも、彼らの一人一人がとびきりに優秀だからだ。だがマトラブのコンテストでは、すぐにほかの誰かがあらわれ、その解決法にひと工夫を加える。一人だけではできないことだ。われわれは大軍をかかえている。つまり、ものすごく規模の大きい頭脳の集合体を活用できるわけだ。この頭脳を使ってがんの治療法が見つかれば、それは素晴らしいだろうな。』
なぜ多様性を持つグループは天才的な働きをするのか
ワシントン大学の心理学・教育学部教授で、フロー概念で著名な心理学者チクセント・ミハイ教授に師事し、心理学の博士号を取得した、キース・ソーヤーの著書、『凡才の集団は孤高の天才に勝る』にはこうある。
なぜ多様性を持つグループは天才的な働きをするのか
前章では、グループがフロー状態に入るには、メンバーが『暗黙知』を共有し、互いに同等レベルの技能を持ち合わせていなければならないことを学んだ。けれども同時に、グループメンバーが親しくなりすぎると、相互の影響がさほど刺激的なものではなくあり、グループ・フローが消え去ることも知った。メンバーが似通いすぎた結果として集団志向に陥るという事態を避けるにはどうすればいいか。それには、多様性を持ちこむこと、これが唯一の方法である。
長年にわたる研究結果から明らかになっていることだが、グループが複雑で非日常的な問題の解決に当たる場合、さまざまな技能や知識、構想を持った多様な人々で構成されたグループのほうが効果的な機能を発揮する。
存在のレベルに感謝する
アドラー心理学に造詣の深い岸見一郎・古賀史建の著書、『嫌われる勇気』にはこうある。
哲人『(省略)そこで他者のことを『行為』のレベルではなく、『存在』のレベルで見ていきましょう。他者が『なにをしたか』で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。』
青年『存在に声をかける?いったいなんのお話しですか?』
哲人『存在のレベルで考えるなら、われわれは『ここに存在している』というだけで、すでに他者の役に立っているのだし、価値がある。これは疑いようのない事実です。』
青年『いやいや、御冗談もほどほどにしていただきたいですね!『ここに存在している』だけで誰かの役に立っているとは、いったいどこの新興宗教ですか?』
哲人『たとえば、あなたのお母さまが交通事故に遭われたとしましょう。意識不明の重体で、命さえ危ぶまれる状態だと。このとき、あなたはお母さまが『なにをしたか』など考えません。生きていただけでうれしい。今日の命がつながってくれただけでうれしい、と感じるはずです。』
青年『も、もちろんですとも!』
哲人『存在のレベルに感謝するとは、そういうことです。(省略)』
組織のIQを高めるEQ
ハーバード大学大学院にて心理学の博士号を取得した、ダニエル・ゴールマンの著書、『EQ こころの知能指数』にはこうある。
組織のIQを高めるEQ
企業の経営会議であろうとひとつの商品開発であろうと、複数の人間が協力し合って仕事をする場合には必ず『グループIQ』というものがある。グループの各メンバーが持っている才能や技術の総合力だ。グループがどれだけうまく目標を達成できるかの要素は、いわゆる知能テストの平均値ではなく、EQの高さだ。高いグループIQを発揮するカギは、人間関係のハーモニーなのだ。他の諸条件が同じならば、グループとしての能力や生産性は人間関係で決まる。
グループにIQがあるという考え方は、イエール大学の心理学者ロバート・スターンバーグと助手のウェンディ・ウィリアムズがグループ間に力の差が生じる理由を研究し、その結果にもとづいて提唱したものだ。何人かの人間がひとつのグループとして働くとき、そこには言語能力、共感能力、技術力など、さまざまな才能が終結する。グルーうはこれらの総和以上に『優秀に』なることはできないが、メンバーが持ち寄った才能を発揮し合える環境が創れなければ、グループ全体としてはメンバーの才能の総和よりはるかに愚鈍にもなりうる。
適材適所
また、早稲田大学を経て、情報会社・出版社の役員を歴任した岬龍一郎の著書、『言志四録』にはこうある。
人間の才能には大あり、小あり、敏捷あり、鈍重などあって、人さまざまであるが、それらは全部用いることができる。日常の細かな仕事には、鈍重で実直な人が適しているし、敏捷で切れる人は、日常の些末なことを馬鹿にして、かえって役に立たないものだ。要するに人にはいろいろ使いどころがあるものなので、どんな才能でも棄てるべきではない。この使い分けを適材適所という。
適材適所だ。
どんな性格でも売れる営業マンになれる
『金持ち父さん』の著者、ロバート・キヨサキの著書、『お金がお金を生むしくみの作り方』にはこうある。
どんな性格でも売れる営業マンになれる
さらに、ブレア・シンガー氏は営業マンを5種類の犬にたとえ、『無理矢理『最強タイプ』の営業マンになろうとするのではなく、自分自身や顧客、上司、同僚がどのタイプかを見極めること。それぞれの個性と強みを分析し、その長所を最大限の延ばすことが成功への近道になる』とも。5種類の『セールスドッグ』とは次の通りだ。
- ピットブル
積極的なアプローチや飛び込み営業を得意とする
- ゴールデンレトリバー
高品質のサービスを提供することを生きがいとする。顧客にリピーターが多い
- プードル
イメージと外見で特定の顧客を狙い撃ちする。究極のマーケティング・セールスドッグ
- チワワ
調査力と専門知識を武器として、こきゃうを説得し売り上げを伸ばしていくタイプ
- バセットハウンド
誠実さと粘り強さで相手の信頼を勝ち取る、『刑事コロンボ』のようなタイプ
『はっきりとした物言いと行動の素早さを好む見込み客には、ピットブルを送ればいい』というように、営業マンを適材適所に配置することで、最大の効果が狙えるばかりか、彼ら自身の成長も期待できるというわけだ。
適材適所というものがある。それを見極められない人間の目は、『節穴』だ。
9つのまったく違う『思い』を尊重する
東京大学大学院博士課程を修了し、国際コミュニオン学会名誉会長であり、エニアグラム・カレッジの代表、鈴木秀子の著書、『9つの性格』にはこうある。
9つのまったく違う『思い』を尊重する
エニアグラムは、自己改革だけでなく、組織の改革、人間関係の改善といった他者との関係の改善の知恵も備えている。その基本は『あなたが『囚われ』から解き放たれ、のびのびと生活をすれば、周囲の人たちとの関係は自ずから好ましいものになる』ということだ。
人間関係のトラブルを私達は、とかく他人のせいにしがちだ。もし相手に原因の多くがあるとしても、あなたが囚われた状態に気づき、その『囚われ』からの解放の方向に向かうなら、それほど深刻な状況を生み出すことはなくなる。つまりあなた自身が、エニアグラムの知恵を身につけ、『囚われ』への気づきを糧として生活していれば、対人関係の多くの問題もしだいに氷解していくというわけだ。
これに加え、相手の違いをよく理解し、その違いによって私達の社会は豊かで味わい深いものになっていることを知ることになる。『違いこそ豊かさ』というメッセージを受け容れるのだ。こうした点を前提に、相手の心に届くコミュニケーションと思いやりのある交流を心がければ、コミュニケーション・ギャップは非常に小さいものになる。
(中略)対人関係において、エニアグラムがまず第一に語る知恵は、あなたの価値観や感受性などが、他者と異なるというメッセージだ。人にはそれぞれ個性の持ち味があり、その人を動かしている動機が異なることに気づくということだ。この気付きによってあなたは”なぜ私の言う通りにできないんだ”、”なぜ私の言うことが理解できないんだ”といった苛立ちの答えを得ることが出来る。
口を出す人、手が出る人
私も若かりし頃、とある会社で働いているとき、Aという人間の下ということにしよう。
『なんで言うことが聞けないんだ』
『俺は工業高校出身だけどな、お前ほど言うことを聞かない後輩はいなかったぞ』
『お前に言ってない悪口はないぞ』
とまあ、言われるだけ言われたことがあった。
ある日、その会社の元締めが『お前は俺と同じで殴られないと考え方を変えないタイプだから、あいつの会社に移れ』と言い、こうも付け加えた。『次の店長Bはこのグループで一番喧嘩が強い奴だから、前の奴みたいに口では言ってこない。その代り怒ったら殴られるぞ』。私は別に、それでも自分のやり方が変わるとは思っていなかった。
そして何と、私はそのBの下で売り上げナンバーワンとなった。その後も常に売り上げのトップを競い合うまでになり、数か月後、その元締めの人間は会食の場で笑いながらこう言ったのだった。
『なんだ!結局Aの奴がお前を扱いきれなかっただけじゃねえかよ!』
そのBは、私と相性が合っていたのだ。確かに一線を超えたら問題になっていたかもしれないが、私は別に最初から一線を超えてはいなかった。それをAが、自分の許容範囲の中に私を囲い込もうとしたからこそ、軋轢が生じていたのだ。しかしBは、一線を越えるまでは何も言わずに見守り、もしその線を超えたら手を出して『教育する』という考え方の人間だった。
だが、私は一線を超えなかった。それどころか、私の流儀を貫き通した延長線上には、双方の利益があったのだ。
どんなちっぽけなものにも役割が与えられている
松下幸之助から『経営の神』の異名を受け付いだ現代の経営の神、稲盛和夫の著書、『生き方』にはこうある。
どんなちっぽけなものにも役割が与えられている
(省略)実際、宇宙には『エネルギー不変の法則』というものがあります。宇宙を成り立たせているエネルギーの総量は、形を変えても一定というものです。たとえば、木を切り倒して薪にして燃え盛る火にくべると、もとあった木という存在のエネルギーは、熱エネルギーと気体になったエネルギーに換えられただけで、そのエネルギーの総和は変わりません。
ならば、たとえ石ころひとつでも、この宇宙を成立さえるために必要不可欠な存在であり、どんなちっぽけなものであっても、それがもし欠落するならば、宇宙そのものが成り立たなくなってしまうのです。
人と違うのは『個性』だ。そしてそれを理解することは『知性』だ。この世に価値のない人間などいない。いるのは、価値がわからない人間だけだ。自分にしか歩けない人生を生き貫くべし。