第21の黄金律
『お金を稼ぐことは、良いのか。それとも悪いのか。』
『義利合一』。それが答えだ。
同じ的を射た偉人(18人)
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同じ的を射た書物
16冊 |
お金を稼ぐことに対し、罪悪感を抱く者がいる。かと思えば、お金を儲けなければならないことを堂々と主張する者がいる。お金を儲けた、それっぽいことを言っていた人が不正行為をしていたりして、結局人の道を踏み外してしまうのを見ると、やっぱりお金を稼ぐことに躍起になることはある種の病気の症状で、その病気に侵されない人間こそが高潔な存在なのだ、という考え方も、頭をよぎることになる。
拝金的な人間を大勢見ていることもある。金を稼ぐときに手段を択ばず、武器や麻薬を売ったり、被災地から孤児を誘拐して人身売買し、空き巣に入って強奪し、詐欺や強盗や横領や暴力行為によって強引に金を巻き上げる、そういう拝金的な人間が、金の側には必ずいるという事実も、影響している。
しかし、金を稼がなければ人は衣食住が揃わず、真っ当な教育も受けられず、あるいは税金を納められないから、国によっては人としてこの世で生きていくことは出来ない。『最低限のお金さえ稼げればそれでいい』といううたい文句を盾にする人がいるが、しかし、なぜ稼いだ金を自分よりも条件の悪い環境で生きる人間の為に使わないのか。なぜそんな選択肢は存在しない、という顔をして生きているのか。
『義利合一』という考え方がある。人を想う『義』の心と、自分の利益を得る『利』の心、その両方の心を両立させるべし、という儒教の始祖、孔子の考え方である。 義を重んじたいから、利を得るのだ。この義利合一の発想こそが、人間と金の問題を解決するカギなのだ。利に傾いた人や企業は、必ず転落する。
わかりやすいイメージ・ヒント
大金を持っている人間がその金の力に物を言わせ、人として越権行為に走るのを見た時に感じる、素直な違和感。
大金を持っている人間が、『金さえあれば』と豪語し、人の道を踏み外す。それを本当に『成功者』と思うかどうか。
大金を持っている人間が贅沢三昧を繰り返し、容姿がどんどん醜くなり、あるいは病に倒れたとき、それを本当に『成功者』と思うかどうか。
東芝の失墜
簡潔に済ませよう。『東芝』はどうだろうか。石坂泰三に土光敏夫。東芝の名経営者と言われた彼らがここ数年の東芝の現状を見たら、どう言うだろうか。原発、不正会計処理、隠蔽、リストラ。その『どこ』に問題があったと考えるだろうか。
大義のないビジネスは必ず打たれる
有名スポーツ選手から経営者まで年収1億円を超えるクライアントを50名以上抱える富裕層専門のカリスマ・ファイナンシャル・プランナー、江上治の著書、『年収1億円思考』にはこうある。
大義のないビジネスは必ず打たれる
一つの事業に成功すると、得てして人は他の分野にも手を出しがちだ。エネルギー量の高い人は、特にその傾向がある。一口に言えば『調子に乗ってしまう』のである。どれほど多くの優れた事業家が、成功したがために思い上がり、本業を忘れ、別の事業に進出して本業そのものを崩壊させてしまったかわからない。
義と利を天秤に乗せた時、義の方が軽くなっていると感じたら、そこに義利合一はない。
充実した人生とは
クリントン政権下でゴア副大統領の首席スピーチライターを務めたダニエル・ピンクの著書、『モチベーション3.0』にはこうある。
充実した人生とは
毎年、約1300人がロチェスター大学を卒業し、いわゆる現実の世界へと旅立っていく。エドワード・デシとリチャード・ライアン、同僚のクリストファー・ニェミェツは、卒業予定者からサンプルとなる学生を選び、人生の目標について訊ねた。その後、追跡調査を実施し、キャリアが始まったからしばらくの間、状況を調べることにした。多くの社会学調査では、任意の学生を調査するものの、彼らが学び舎を発ったあとについて、ほとんど追跡調査が行われていない。そこでこの三人は、大学卒業後の一定期間にわたって調査をしようと考えた。この期間は、『大人としてのアイデンティティと人性への移行となる、重要な発展の時期』にあたるからだ。
学生のなかには、デシやニェミェツが名付けた『外発的抱負』―例えば、金持ちになりたいとか、有名になりたいなど―つまり『利益志向型の目標』を抱く者もいた。一方、『内発的抱負』―ほかの人の人生の向上に手を貸し、自らも学び成長したい―つまり『目的志向型の目標』を持つ者もいた。この学生たちが卒業して、現実の世界へと羽ばたいてから一、二年後に、学生たちの様子を知ろうと三人の学者は足取りを追った。
学生時代に目的志向型の目標を持ち、それを成し遂げつつあると感じている者は、大学時代よりも大きな満足感と主観的幸福感を抱き、不安や落ち込みはきわめて低いレベルだと報告された。これは驚くにはあたらない。自分にとって意義のある目標を設定し、それを達成しつつある。このような状況では、誰もがかなりの満足感を覚えるはずだ。
だが、利益志向型の目標を抱いていた者の結果は、もっと複雑だった。富を蓄積したり、称賛を得たりするなどの目標を達成した卒業生は、学生時代よりも満足感や自尊心、ポジティブな感情のレベルが増しているわけではなかった。目標を達成したにもかかわらず、以前よりも幸せになっている様子はなかった。そのうえ、利益志向型の目標を抱いていた卒業生は、不安、落ち込み、その他のネガティブな指標が”強まった”こともわかった―重ねて指摘するが、目標を達成しているにもかかわらず、である。
(中略)この謎―満足感を得る為には目標設定だけでは十分ではない。正しい目標の設定が必要だということ―を理解出来なければ、良識ある人でも自滅の道をたどるおそれがある。利益志向型の目標を追い求め、それを達成したのにまだ満足できないと感じるとき、目標の規模と領域を拡大しようとするからだ。いっそう高い報酬や他者からの承認を求めるようになる。
ショーペン・ハウエルは言った。
『会社が大きくなってから』ではない
浜口隆則の著書、『だれかに話したくなる小さな会社』にはこうある。
事業全体が社会貢献的であること
もちろん、いわゆる『社会貢献活動』も、会社がどんなに小さいときからでも行っていくべきだと思っています。『会社が大きくなってから』ではなく、会社の成長と共に、同時進行で、です。なぜなら、その会社の経営者や属するスタッフの人間の幅以上に、会社は決して成長しないものだからです。
真の『成功』とは
私の知人にも、
『ボランティアなんて、ハリウッドスターとか、成功して余裕が出た人がやるんだよ。現にあいつらはそうしてるからね』
と言う人間がいたが、彼が今もあの頃のままなら、彼は今ブラックに近いグレービジネスで生計を立てているだろう。私も拝金的に生きた時代はあるが、(子供をブラックマネーで育てるのか)という疑問に対し、『No』という決断を下したことを、誇りに思っている。
道理にはずれてはならない
ただし、『義』と『利』、そのどちらかに偏っていると、なぜか『人として不完全』の様な印象がまとわりつくことになる。例えば、東京大学経済学部を卒業後、通産省に入り、日本万国博覧会を企画し、開催にこぎつけた立役者、堺屋太一の著書、『組織の盛衰』にはこうある。
才能と人徳
徳川家六代将軍家宣は、新井白石から勘定奉行荻原重秀の悪評を告げられ、 『才ある者は徳がない。徳ある者は才がない』と嘆いたが、結局は『財政不安の今は徳がなくとも際のある荻原に頼る外はない』と判定している。
(中略)実際、『才ある者は徳がない。徳ある者は才がない』というのは、人事における不滅の公理である。才があって仕事をすれば必ず周囲と摩擦を起こして徳望は傷がつく。逆に仕事さえせず才能を発揮しなければ、大抵の人は『良い人』つまり徳人であり得る。酒を飲みかわし、カラオケ、ゴルフをやっている間は『良い人』だと思っていた相手も、いざ仕事をやると実に厭な人物だったという例は非常に多い。功績評価や能力主義とは、それを承知で功績ある物に禄(ろく。給与や報酬)を与え、脳力ある者に権力を授けることなのである。
『孫子』と『論語』の差異
また、『孫子の兵法』の巻末にはこうある。
『孫子』と『論語』の差異
同じ時代の古典でありながら、『論語』と 『孫子』は面白いくらいに対照的だ。孔子は個人の真実とそれによる政治の在り方を教えた。一方、『孫子』は組織としての軍団を動かすことを説いた。ひらたく言えば、孔子の教えによれば、自分が立派でさえあれば成功しなくてもよかった。道を悟れば、貧乏のまま失業してもよい。ところが、孫子の場合は”負けたら死”という認識であった。勝つためにはあらゆる手を尽くす、そのための理論書が必要だった。
(中略)日本でも『論語』と同じくらいの力を入れて『孫子』をも教えて欲しいとわたしは望んでいる。『孫子』を読んだ人と読まない人とを比べれば、読んだ人の方が絶対に得である、というのが私見だ。
いや、私は孔子の生き様はとても高潔だという私見だ。しかし肝心の私はどういう生き方を望んでいるかというと、(義だけでは不完全だ)と考える生き方である。しかし同時に、(利に傾いたら人間は終わりだ)とも考えている。
道理にはずれてはならない
『『中国古典』の教え』の『大学』にはこうある。
道理にはずれてはならない
道理にはずれた発言をしていたのでは、下の者からも道理に外れた言葉しか返ってこない。また、道理にはずれたやり方で手に入れたお金は、道理にはずれたやり方で出ていく。
『利』だけに傾き、拝金的に生きた20歳の私には、耳が痛い言葉である。
人格を磨きつつ事業を行う
儒教、仏教、道教を深く学び、足りない部分を補って創り上げた、洪自誠(こうじせい)の著書であり、川上哲治、田中角栄、五島慶太、吉川栄治ら昭和の巨人たちの座右の書である、『中国古典の知恵に学ぶ 菜根譚』にはこうある。
人格を磨きつつ事業を行う
事業を発展させるための基礎になるのは、その人間の人柄である。基礎がしっかりできていない建物が頑丈で長持ちすることはないように、人徳のない物が興した事業が成功し、発展を遂げた例はない。また、子孫を繁栄させるための根本となるのは、その人間の志である。大地にしっかりと根を張っていない樹木が、枝葉をつけ成長することがないように、しっかりとした信念や志のない人の子孫が、まともな生き方をしたためしはない。
成果が見えなくても続ける
また、本にはこうもある。
成果が見えなくても続ける
よいことをしても、その成果が見えないことがある。だからといってやめてしまってはいけない。たとえ今は目に見える形で成果が出ていなくても、草むらに隠れ知らぬ間に実を結ぶ瓜のように、気づかないところできちんと実を結んでいるはずだ。逆に、悪いことをしても、それで得た利益や成果を没収されずにすむことがある。しかし、悪行で得たものというのは、春先に庭に積もった雪のように、たちまち消えてしまうものだ。
やるべきことを怠り、私利私欲に支配された人や企業は淘汰される。
願いがかなわない時の原因は2つある
早稲田大学商学部を卒業後、様々な経歴を経て、クリスチャン女性の国際的なグループ『Aglow International(アグロー・インターナショナル)』に所属する中村芳子の著書、『聖書88の言葉』にはこうある。
願いがかなわない時の原因は2つある
事業を起こして大成功し、世界の長者番付はFORTUNE500に名を連ねる人たち。その人たちの多くは、金儲けをしようとしてビジネスを始めたのではない。自分がやりたいことをビジネスにしたら成功し、それを世界に広めたら巨額のお金がついてきた。
一方で、金儲けがしたいから起業するという人たちはなかなか成功しない。一時的にうまくいっても長続きしない。動機がずれているからだ。間違った動機で願ってもかなえられない、と聖書は言う。利己心や虚栄心、劣等感から生まれる欲は神が与える願いとは違う。すると実現しない。うまくいかない時はもう一度自分の心をチェックしてみよう。
『聖書』
願ってもかなえられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。(ヤコブの手紙4:3)
動機がずれている。間違った動機で願ってもかなえられない。この決定的な事実から目を逸らすか、直視するかの二択だ。
人間にとってお金とはなんなのか?
早稲田大学商学学術院客員教授、ルディー和子の著書、『売り方は類人猿が知っている』にはこうある。
人間にとってお金とはなんなのか?
(省略)人間の場合、石、金、塩、貝殻などが貨幣として使われるようになって以来、食べ物を手に入れるにしてもパートナーを自分にひきつけるにしても、『先立つものはまずお金』です。日本でもITベンチャー株がブームになったときに、上場して億万長者となった若き創業者に、『金で手に入らないものはない』と豪語した者がいたとかいないとかが話題になりました。この発言が道徳的かどうかは別として、歴史的かつ現実的真実を的確に表現していることは間違いありません。
(中略)欲張りであることは、リチャード・ドーキンス風に表現すれば、利己的遺伝子の衝動の最大限の顕れなのです。欲張りは、ある意味、私たちが毎朝起きて仕事をする原動力であり、欲張りでない国民ばかりからなる国には経済成長など期待できないのです。しかし、健全な衝動である『欲張り』が『強欲』とか『貪欲』に変わってしまうと問題が出てきます。
人間の欲は、『善い欲』と『悪い欲』がある。いや、更に厳密に言うと、欲をどちらに傾けるか、という試練を全ての人間が背負っている。
貧富の見方
数々の偉人の人生を研究する、上智大学名誉教授、渡部昇一の著書、『賢人は人生を教えてくれる』にはこうある。
貧富の見方
面白いのは、セネカの貧富についての考え方です。セネカは、富について、富それ自体は悪くないという説を唱えています。これはわれわれ日本人であれば、『論語』を思い出します。里仁第四にある次の言葉です。
『富と貴きとは、是れ人の欲する所なり。其の道を以てこれを得ざれば、処らざるなり。貧しきと賤しきとは、是れ人の悪む所なり。其の道を以てこれを得ざれば、去らざるなり』(『論語』金谷治・訳注/岩波文庫・刊)
孔子も『富自体が悪い』とは言っていません。『それを得る道が間違っていなければ、それでいいのである』というのです。それから『貧乏はもちろんよくないけれど、それから逃れるために悪い事をしなければならないのなら、貧乏のままでもいい』とも言っています。これはセネカもほとんど同じように解釈できる言葉を残しています。
よくいるのは、『貧乏だから俺は悪さに走ったのだ』と正当化する人間である。私にもそういう気持ちはよくわかる。わかるが、孔子のような人物がいる以上は、同じ人間として彼に負ける気持ちに成り下がってはならない。
理念のない会社
指紋認証などのシステムを開発し、35歳になる前に会社をマイクロソフトに売却し、巨富を得た、斎藤ウィリアム浩幸の著書、『ザ・チーム』にはこうある。
人を見抜く力
わたしは人を見る目は誰にも負けないと自負している。10代で大人とビジネスをしてきた経験から、幸か不幸か、他人より早く人間の表と裏を知るようになった。その結果、人間観察力が人並み以上についたのだと思う。(中略)問題のある人物は直感でわかる。どんなに素晴らしい技術を持った経営者でも、『IPO(株式公開)が目標』と言う人にわたしは期待しない。投資をしようとも思わない。世の中で達成したい夢や理想がなければ評価には値しない。
彼は拝金的で理念と長期的展望がない、刹那的で浅薄な企業を好まない。しかし、そのような視点は極めて重要な視点である。
真実と真偽に基づく富と地位
60年間に全世界で累計3000万部の記録的ロングセラー、ナポレオン・ヒルの著書、『巨富を築く13の条件』にはこうある。
自信を育む公式
1.私は人生の明確な願望・目標を達成できるだけの脳力を持っている。したがって私はどんなことがあっても忍耐強くそれを追求していく。このことを、私は自分自身に対して約束する。
(中略)
5.いかなる富も地位も、それが真実と真偽に基づくものでなければ、長続きしない。
成功の意味を勘違いするべからず
同じくナポレオン・ヒル著書、『成功哲学』にはこうある。
他人への心遣い、それが『黄金律』である
一つ試してみるといい。自分のいる社会を見渡してみて、知っている人の中で財を成す目的のためだけに生きている人を探してみよう。つまり拝金主義者だ。どんな金額をも少なすぎると思い、いかなる金額でも十分ではない、という人を探してみよう。こういう人は、自分がどのようにして金を得るかについて、良心と関係なく損得だけで判断する。彼の頭の中には、金を入れる為の袋が並んでいるにすぎない。彼らにとって良心とは、むしろそうした金儲けの邪魔になるものでしかない。
そういう人の心の中に温もりを探してみるといい。きっとどこにも見つからないだろう。もともとないのだから。あるとすれば、金の話をするときだけだ。(中略)このような人は、ただの金儲けの機械である。なのに、多くの人々はこの機械人間を羨ましがる。これは”成功”の意味を勘違いしているのだ。
『成功』の意味をはき違える人は多い。実に多い。私もその一人だった。
お金中心は自滅を招く
『7つの習慣』にはこうある。
お金中心
ほとんどの人は、生活する中で経済的な不安や心配に直面することがあるだろう。社会の激しい変化が私たちの経済状況に影響を与え、生活の安定を揺るがしてしまうことがある。そのせいで私たちは、無意識の内にも、不安や心配を感じることがある。
お金を稼ぐことには、気高い動機も考えられるだろう。例えば、家族を養うことやほかの人を助けることがそうだろう。それは確かに大切なことである。しかし、お金を稼ぐことを生活の中心におき、そればかりに集中すれば、自滅を招くことになるだろう。(中略)お金中心の限界は、人間関係などの大きな問題に直面したときに明確になる。なぜなら、お金を生活の中心におく人々は、家族などの大事な事柄をすべて後に回し、周りの人は皆、『仕事の大切さを理解してくれるだろう』と思い込んでいるからである。
お金は『人間が生み出したもの』だ。そしてその人間とは、恒久的に未熟な存在だ。
拝金的な思想を生み出したのは誰だ
存命中は知らない人がいなかったとされるアメリカの天才、バックミンスター・フラーの著書、『クリティカル・パス』にはこうある。
紀元前1500年ごろまでは、通貨はすべてウシ、ヒツジ、ヤギ、ブタで、それによって生命維持ができる富、実際に人が食べられる富ー生きた通貨であった。なかでも去勢ウシはとびぬけて大きな食用動物だったので、通貨としては一番価値が高かった。フェニキア人は交易のためにウシを運んでいたが、この大きな生き物は長い航海にははななだ厄介な代物でもあった。
(中略)交易のためにウシを運ぶ段階を経たフェニキア人は、紀元前1500年ごろ、まず鉄を一対一の雄ウシの角のように見える半円状に形づくった金属貨幣を作り出した(今日、多くの人はそれを腕輪と間違えている)。じきに交易商人は、以前訪れたことのない外国では、人々はウシとの交換交易時代を記憶していないので、したがって鉄でできたミニチュアの雄ウシの角は理解されないことに気づいた。
金属が交易に用いられるのなら、人々との交易に好まれる他の種類の金属があった。銀、銅、そして金は簡単に重さを測ることができ、見た目の美しさが鉄製の雄ウシの角の象徴よりも好まれた。
この金属の鋳造貨幣はすぐに世界貿易計画に導入された。最初の硬貨にはフェニキア人の故国の支配者の肖像が刻まれていた。この鋳造貨幣への切り替えは、世界情勢のほとんどを支配していた権力機構集団が、都市国家の支配から兵站線の支配へ大きな転換と同時に起こった。
(中略)ウシから黄金へと世界的貿易手段が徐々に変わっていくと、世界をまたにかける海賊の跳梁をもたらした。海賊たちは小さいが小回りの利く船をつくり、大きな商船が二年にわたる東洋からの旅を終え、富を満載して故国に帰りつく直前を狙い、闇に紛れて乱入して船を乗っ取り、黄金を中心に略奪を行った。黄金を取り上げると、海賊たちはしばしば用済みの船を焼き払った。
この『お金の誕生の歴史』からわかるのは、人間が『利』と、それにまつわる拝金的な思想を生み出した、という決定的な事実だ。そして最初にあったのは『義』であり、『真理』だった。
罪は金銭にあらず
渋沢栄一の著書、『論語と算盤』にはこうある。
罪は金銭にあらず
(省略)もちろん金銭は貴いものではあるが、頗る(すこぶる)卑しい物でもある。貴い点より言えば、金銭は労力の代表となり、約束によって大抵の物の代価は、金銭ならでは清算できぬものである。けだしここに金銭というは、ただ金銀貨幣紙幣の類の通貨のみを指すのでは無く、総じて代償することのできる貨財は金銭をもって評することができるので、金銭は財産の代称であるとも言いうると思うのである。
(中略)(かの孔子、孟子の教えを、孔孟教というが、これは『儒教』のことである。儒教は別名『孔孟教』、つまり『孔子と孟子の教え』だ。)その孔孟教の誤り伝えたる結果は、
『利用厚生に従事する実業家の精神をしてほとんど総てを利己主義たらしめ、その念頭に仁義もなければ道徳もなく、甚だしきに至っては法網を潜られるだけ潜っても金儲けをしたいの一方にさせてしまった。
従って、 今日のいわゆる実業家の多くは、自分さえ儲ければ他人や世間はどうあろうと構わないという腹で、もし社会的及び法律的の制裁が絶無としたならば、かれらは強奪すらし兼ねぬという情けない状態に 陥っている。
(中略)義利合一の信念を確立するように勉めなくてはならぬ。富みながらかつ仁義を行い得る例は沢山にある。義利合一に対する疑念は今日直ちに根本から一掃せねばならぬ。
義を重んじたいから、利を得るのだ。私はこの義利合一の孔子の教えを知った時、それまで出会ったこの世界の誰もが嵌めることが出来なかった『空白のワンピース』を、埋めてもらえた確信を抱いた。
1.日本の政治家、西郷隆盛
2.アメリカの経営者、ヘンリー・フォード
3.日本の経営者、本田宗一郎
4.日本の経営者、豊田佐吉
5.日本の経営者、鍵山秀三郎
6.日本の実業家、渋沢栄一
7.中国の儒学者、孟子
8.日本の思想家、安岡正篤
9.イギリスの作家、ジェームズ・アレン
10.日本の作家、山本周五郎
11.ロシアの作家、プーシキン
12.ロシアの作家、ドストエフスキー
13.イギリスの作家、ジョージ・エリオット
14.イギリスの劇作家、ジョージ・ファーカー
15.日本の武士、山岡鉄舟
16.キリスト教の礎、イエス・キリスト
17.古代ギリシャの哲学者、ソクラテス
18.仏教の開祖、ブッダ(釈迦)