第24の黄金律
『失敗をすぐに認められるか、それとも隠蔽するかで人間の価値は決まる。』
自分のミスや失敗を隠したくなる気持ちはわかる。わかるが、『子供』もそれをやっていることを考えた時、そこに違和感を覚えるはずだ。
同じ的を射た偉人(20人)
革命家 | |
政治家・リーダー | 1 |
発明家・ビジネスパーソン | 2 |
哲学者・思想家 | 5 |
作家・小説家・詩人 | 5 |
クリエーター・アーティスト | 1 |
支配者・将軍・軍師・棋士 | |
アスリート・剣豪 | |
科学者・学者 | 2 |
登山家・冒険家 | |
身元不明 | |
四聖 | 1 |
同じ的を射た書物
9冊 |
- 『バフェットの教訓』
- 『星野リゾートの教科書』
- 『君主論』
- 『年収1億円思考』
- 『論語の活学』
- 『心配事の9割は起こらない』
- 『論語の教え』
- 『聖書88の言葉』
- 『人を動かす』
人間は失敗する。もし自分が失敗したことが無いと思っているのであれば、そこにいるのは単なる勘違いした人間だ。まさか、ところ構わず排泄物を垂れ流していた時代を忘れたわけではないだろう。そうやって人間はたくさんの失敗経験を積んできて、今の成長した自分でいることが出来ているのだ。
あの頃は未熟だったからそれは当然?では、今が完熟だとでも言うつもりだろうか。人間は一生成長するのだ。一生完熟になどならない。子供が自分のミスや失敗を隠すことを見ることがあるだろう。失敗をしてすぐに認められないのなら、自分の心の成長はその子供時代から停止していると思った方がいい。そして同時に、その延長線上にあるのは『取り返しのつかない事態』だということも覚悟した方がいい。
窓がすべて割れてからでは取り返しはつかない。
わかりやすいイメージ・ヒント
失敗を認めないということは、自分が『勝ち』の称号に執着しているということだが、しかし、認めない時点で既に自分との勝負に負けている。
失敗を認めないということは、アドバンテージ(有利性)を得たく、あるいはディスアドバンテージ(不利性)を被りたくないわけだが、実は後でツケが回ってきて甚大な被害を被る。
バフェットの教訓
世界で最も成功した投資家、ウォーレン・バフェットの著書、『バフェットの教訓』にはこうある。
穴にはまっていると気づいたとき、いちばん大切なのは、掘るのをやめることだ
(省略)1980年代初頭、ウォーレンはアルミ産業に多額の投資を行った。これは判断ミスであったが、彼はあやまちに気づくと、それ以上掘るのをやめて穴から脱出した。人は自分の間違いを認める勇気を持つ必要がある。あなたは破産したのよと、運命の女神からささやかれる前に。
コンコルドの誤謬
『コンコルドの誤謬』とは、莫大な資金を費やしたコンコルドを、旅客機として成立させようと画策したが、うまくいかず、だが額が額なだけに退くに退けなくなって、結局損失を出す一方になってしまったことから、『退き際の重要性』を説いた教訓である。
ウォーレン・バフェットはこのコンコルドの誤謬に陥ることなく、冷静に退き際を見定め、損失を最低限に抑えた。
ミスを憎んで、人を憎まず
『星野リゾートの教科書』にはこうある。
ミス情報を収集して運営システムを見直す
星野リゾートの本拠地、軽井沢の施設は 『真実の瞬間』の対応力を高める為に、一歩進んだ取り組みを進めている。ホテルプレストンコートでは、お客様対応のミスの情報を共有し、対策を練るために、『ミス撲滅委員会』が活動を続けている。
同委員会のキャッチフレーズは『ミスを憎んで、人を憎まず』。『ミスを起こした人の責任を問う』ことではなく、『同じミスを起こさない』ことが大事だからである。ミスをなくすには、なるべく多くの事例を分析し、運営システムを見直すことによって、同じミスが起きない仕組みに変えていく必要がある。だからミスを隠さず公開してもらうことが大切だ。
失敗やミスを隠蔽する気持ちはわかるが、その延長線上に何があるのか、想像してみるのがいいだろう。常に『延長線上』を考えられるか、られないかが、人や企業の価値の大きな分かれ道となる。
すぐに『ごめんなさい』と言える人間は、嫌われない
マキャベリの著書、『君主論』にはこうある。
医者がよく言うことだが、消耗熱(肺結核)は、初期の発見こそ難しいが、早くに手当すれば、治療はやさしい。あべこべに、早いうち病気に気づいて手当をしないと、時がたつにつれて、発見は簡単になっても治療が難しくなる。国の政治についてもそうしたことが起きる。要するに、賢明な人物のみがよくやれるのであろうが、遠い彼方か国内に災いが生じているのを見抜けば、災いは早くに癒る。だが、予知も出来ずに、だれもが気づくほど大きくなるまで放置していれば、対策の打ちようがなくなる。
早いうちに対策をしなければならない。それが遅くなればなるほど、どんどん深みに嵌まってしまい、やがて取り返しのつかないことになる。
早期の治療ならやさしくて済む
有名スポーツ選手から経営者まで年収1億円を超えるクライアントを50名以上抱える富裕層専門のカリスマ・ファイナンシャル・プランナー、江上治の著書、『年収1億円思考』にはこうある。
すぐに『ごめんなさい』と言える人間は、嫌われない
嫌われる人間は精神的に弱い。自信がない。すぐにびびってしまい、平常心を失う。言い訳に走る。(中略)一方で好かれる人間、稼げる人間はどこまでも相手本位である。常に相手が何を考えているのか。相手は何を望んでいるのかを考える。営業に行っても相手の言うことを正確に把握する。だから、そもそも人を怒らせない。そうして献身的に、相手を支えようと努力する。ティアップしようと、工夫する。だから儲けられるのだが、稼げない人間は自分のことしか考えないから稼げるチャンスを逸してしまう。
私は、自己の保身ほど、みっともないものはないと思う。本人は自分を守っているつもりなのだろうが、思い違いもはなはだしい。言い訳に終始して、『その場をやり過ごしたい』と思っているかもしれないが、あり得ない話だ。他者を甘く見ているとしか言いようがない。
私の部下にも『つい自分を守ろうとしてしまって』とか、『自己防衛本能のなすがままに』というシナリオでその場しのぎの誤魔化しを言い訳する人間がいるが、彼は入社して7年、そのシナリオで一度たりとも自分を守ることが出来ていない。
怒りを移さず、過ちを繰り返さない
安岡正篤の著書、『論語の活学』にはこうある。
怒りを移さず、過ちを繰り返さない
≪魯の哀公が孔子に『弟子の中で誰が学問を好みますか』と尋ねた。孔子答えて言う。『顔回という者がおりました。学問を好み、怒りを他に移す、すなわち腹立ちまぎれに他に当たるようなことはなく、過ちを再び繰り返すことがなかった。不幸、短命にして死し、今はおりません。そのほかに私はまだ本当に学問を好むという者を聞いたことがありません。≫
怒りを移さず、過ちを繰り返さない。なかなかできないことですね。たいていは怒りを遷す、過ちを繰り返す。躓いた石にまで当たって、『この野郎っ!』などと言って蹴とばす。そうかと思うと、自分の不注意は棚に上げて、『誰がこんなものをあんなところに置いたのか』などと家の者に当たる。またこういうのが過ちを繰り返す。そうししてとんだ結果を生む。
『ああ、自分が不注意であった』と反省する人は案外少ないものです。小事にその人間がよく現れると言いますが、そのとおりで、何でもない些細なことにその人の性格がよく出るものであります。
孔子の教え
この孔子の弟子である顔回がどれほどの人物であったかを知りたければ、チョウ・ユンファ主演の映画『孔子の教え』を見ればわかりやすいだろう。時に孔子は、道に迷った時、この自分よりも二回りも年下である顔回に助言を願い出ることもあった。
顔回も、それで調子に乗るような人物ではない。恐れ多くも人生の大師匠、孔子に対し、淡々と自分の意見を言い、それ以上出過ぎた真似はしない。孔子もさすがだ。自分に落ち度があると思ったら、相手が二回りも年が下であろうと、不必要な見栄や虚勢を張らず、己の無知と無力を認め、教えを乞う。これは、彼らが一流の人間だからこそ成り立ったワンシーンなのである。
過ちは『すぐに』認める
孔子の教えについて説く文献はまだある。2006年に『ニューズウィーク』誌日本版にて『世界が尊敬する日本人100人』に選出された、曹洞宗徳雄山建功寺住職、増野俊明の著書、『心配事の9割は起こらない』にはこうある。
過ちは『すぐに』認める
『過ちてはすなわち、改むるに憚る(はばかる)ことなかれ』
有名な『論語』の格言ですが、これを実践するのはなかなか難しい。たとえ原因が自分にあることに気づいていても、謝罪するのはどこか憚れるというところがあるものです。とくに仲がよければよいほど、『あいつに頭を下げるのはどうもな』といった思いに囚われてしまうのではありませんか?しかし『論語』にはこうもあります。
『過ちて改めざる、これを過ちという』
過ちをおかして、謝罪をしないことが、過ちなのだ、ということです。
失敗したときには、ソク改める
慶応義塾大学を卒業し、慶應義塾高校で教職に就き、同校生徒のアンケートで最も人気のある授業をする先生として親しまれた佐久協の著書、『論語の教え』にはこうある。
失敗したときには、ソク改めるように心掛けることだ。
人は失敗したと思った突端に、言い訳を考えだしたり、誰かに責任をなすりつけようと悪知恵を働かせたりしがちなものだ。失敗に気づいたなら、まずは『すみません』と謝ること。言い訳は二の次だ。まず謝って頭を下げれば相手も怒りを鎮めて言い訳に耳を傾けてくれる。自分も失敗の原因を冷静に分析できる。
(中略)孔子は、『過ちを犯して改めないのを、本当の過ちというのだ』(衛霊公第15-30)とも言っている。また弟子の子夏が、『小人物は間違いを起こすと、うわべを取り繕って誤魔化そうとする』(子張第19-8)とも言っている。孔子は、『いやんなっちまうよ。自分の過失を認めて素直に反省する者がいまではすっかり影をひそめちまった』(公次長第5-27)とぼやいてもいるが、昔も今と全く変わらぬ世情だったのだ。
人間の『四聖』に数えられる境地にいる者の言葉に素直に耳を傾けよ。
間違った時は潔く過ちを認めよう
早稲田大学商学部を卒業後、様々な経歴を経て、クリスチャン女性の国際的なグループ『Aglow International(アグロー・インターナショナル)』に所属する中村芳子の著書、『聖書88の言葉』にはこうある。
間違わない人間はいない。間違った時は潔く過ちを認めよう。許してもらおう
聖書を読んで気づくのは、人は誰でも、どんなに偉い人物でも間違うということだ。『創世記』に登場するアブラハムはイスラエル民族の祖として、またユダヤ教・キリスト教・イスラム教の進行の父として尊敬されている。ところたとても人間的な罪をおかしている。エジプトを旅していた時、アブラハムは妻のサラに妹のふりをしてくれと頼む。美しい妻のために命を狙われてはたまらないと思ったのだ。おかげでサラは危うく王(ファラオ)と結婚させられそうになるが神の介入で助かる。とんでもない夫である。
しかし、彼が過ちを認め、神に『ごめんなさい。もう二度としません』と心から悔い改めると許される。この原則は聖書全体を通して変わらない。人は誰でも間違い、罪をおかす。大切なのはそれを隠さず誤魔化さず、潔く過ちを認めることだ。
『聖書』
もし兄弟が罪をおかしたら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。(ルカによる福音書17:3)
この世のどこに目を向けても、この真理に辿り着くことになる。
自己の重要感
デール・カーネギー の著書、『人を動かす』には『自己の重要感』という概念について、こう書いてある。
ルール違反をした市民に対して、半ば権力を使って威圧的に降伏させようとしてきた警官に、次に会ったとき、素直にこちらから降伏してみた。
『とうとう現行犯でおさえられましたね。わたしが悪いのです。何も言うことはありません。先週、あなたから二度とこういうことがあれば罰金だと注意されたばかりですから。』
すると警官は、
『うん、だがまあ、ついそうやってしまうのは人情だろう。』
などと、穏やかな態度をとったという。それも、すべては彼の自己の重要感が満たされたことに原因があり、彼の自負心を満足させたことで、ことが穏やかになったのだ。
割れ窓理論
『割れ窓理論』とは、たとえ小さな窓のひび割れでも、それを放っておくと、いつか街の混沌を生み出すような大参事になり兼ねないことを指す。
『ひび割れのうちに』対処することが『前始末』だ。『後始末』に発展するとなると、金銭、体力、時間、時には命に至るまで、数百、あるいは数万倍の損害を被ることになるかもしれない。失敗は必ずある。問題は、その失敗をしたとき、どう対処するかだ。もし隠蔽してその失敗をなかったかのようにし、ひた隠すつもりなら、諦めなければならない人生の道のりがあるだろう。