第5の黄金律
『偶然に期待する人間は、支配される。』
偶然などない。その主体性を持つ人間が支配する。
同じ的を射た偉人(13人)
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同じ的を射た書物
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偶然、占い、運気に運勢。それを信じる人を傍から見ると、ある種の悦に入っている。まるで、『そういう風に振り回されることは、あながち嫌いではない』とでも言うかのように、『踊らされる』ことを愉しんでいるように見える。
だが、忘れてはならない。その様に『反応』する反応的な人生の対極にいるのが、主体的に人生を生きる人間だということを。そしてその主体的な人間はどういう人間だろうか。胸に手を当てて考えてみるのが良い。
フランスの皇帝、ナポレオンは言った。
後は自分の命だ。どう使うかは自分で決めるしかない。そう。『自分で決められる』のだ。
わかりやすいイメージ・ヒント
偶然に期待し、良い結果が出ても手柄は自分にはなく、悪い結果が出ても原因は自分にはなく、『外部』にあるという事実に依存することの違和感。
人から強要された本と、自分からすすんで手に取った本とでは、インプットされる情報量や処理能力に圧倒的な差がある。
自分から運命を引き寄せる
自己発見に関する世界最高の権威の一人、ロビン・シャーマの著書、『3週間続ければ一生が変わる』にはこうある。
自分から運命を引き寄せる
『そうなるのであれば、それは私次第だ』というのは、すばらしいマントラです。
(中略)カウンターから落ちそうなグラスを見ると、彼は駆けつけてグラスをとめようとはせずに、両手で耳をふさぎ、グラスが割れる音を効かないようにするのです(彼はそれから成長し、ハーバード大学を卒業して眼科医になりましたから、ユニークな習慣はそれほどの障害とはならなかったようです)。
この逸話から得られる知恵は、たんにこういうことです。わたしたちは世の中の現実に対して耳目を属さなければならない。こちらが人生に働きかけ、なにかが起きるような行動を取らないと、人生のほうから働きかけてきて、こちらが望まない結果がもたらされるでしょう。それは、人間を何千年も支配してきた自然の法則のひとつです。これから数週間でもっと主体的になるためには、自分自身を運命の最高経営責任者、人生のCEOとみなしてください。
(中略)人生をさらにうまくコントロールしながら、心理学者のウィリアム・ジェームズの示唆的な言葉をじっくり考えてみてください。
主体性のない人間は、『責任』という言葉の意味を考えたことが無い人間だ。例えばこのグラスの例で言えば、(自分とは全く無関係で、それについての責任を負う義務はない)と考えていることになるわけだが、自分をもっと大事にしなければならない。その意味が分かるだろうか。
『自分は責任逃れ出来たから、ラッキー』、だから、『得をした』、だから、『大事に出来た』?残念ながら、その階層よりも更に奥の階層が存在する。自分をもっと大事にしなければならない。
積み重ねが運になり、自ずと道は開けて来る
実に50の職業経験と、世界40か国の旅を経験した有川真由美の著書、『遠回りがいちばん遠くまで行ける』にはこうある。
いくら努力しても報われないと思う時…
(省略)ただ、なかには『私はこんなに努力をしているのに、ちっとも報われない』という人もいるのではないでしょうか。そんな人は、努力をするポイントが間違っているのかもしれません。なにを求められているか、人の期待が読めず、『これでいいだろう』と、自分の思い込みで時間と労力をかけているから『報われない』と感じてしまうのです。投げられたボールをピカピカに磨いて、丁寧に投げ返す。そんな積み重ねが、運になり、自ずと道は開けて来るのではないでしょうか。運というのは、それを叶えるのにふさわしい人のもとにやってくるのです。
『運気を占う』のではない。『気運を呼び込む』のだ。
刈り取りの法則
早稲田大学商学部を卒業後、様々な経歴を経て、クリスチャン女性の国際的なグループ『Aglow International(アグロー・インターナショナル)』に所属する中村芳子の著書、『聖書88の言葉』にはこうある。
いい種をまいた人はいい実を刈り取る。悪い種をまいた人は?
日本では『悪い事をすると、ばちがあたる』というが、聖書の考え方は少し違う。自分がまいた種を刈り取る法則があるという。見知らぬ人を助けてあげたら、見知らぬ人から助けてもらった。外国人に道を教えてあげたら、旅行先で親切にしてもらった。逆もしかり。
(中略)悪い事をしたら、まさかと思うところから我が身に災厄が降りかかってくる。神様からの『ばち』ではない。質量のあるものが地球の中心に引き寄せられる『重力の法則』と同じように、この世界が創られた時に組み込まれた『刈り取りの法則』だ。誰も見ていないところでまいた種でも、必ず刈り取ることになる。
『聖書』
人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。(ガラテヤの信徒への手紙6:7、9)
『自分』が蒔いた種なのだ。『他人・環境』が蒔いた種ではない。たとえどんなに理不尽だと思っても、その『理不尽』だと解釈した自分の正確性は疑わしい。
本当の人間には環境を一変する力がある
数々の偉人の人生を研究する、上智大学名誉教授、渡部昇一の著書、『エマソン 運命を味方にする人生論』にはこうある。
本当の人間には環境を一変する力がある
本当の人間にとって、国や時代といった自らが置かれた環境はいっさい問題ないというのです。なぜならば、その人には自分で新しい環境を創り上げる力があるからです。たとえば、シーザー(カエサル)が出たことによってローマ帝国はつくられ、キリストが出たことによってキリスト教圏が形成され、ルターが出たことによって宗教改革が起こったようなものです。
このような人たちは、必要とされる説き、必要とされる場所に出現します。そこがどのような環境であるかは問わないのです。そして、現れてしまえば、その環境を一変させるほどの影響力を発揮します。こうした人物をエマーソンは『True Man』あるいは『Representative Men』と呼びます。彼らは『人類の代表』としての意識を持って、その人生を送った人々です。
ここで重要なのは、エマーソンが人間は誰でも人類の代表となれるのだといっている点です。
『人間は自分の価値を知り、ものを自分の足下に踏みすえていてほしい。彼のために存在している世界のなかえ、覗き見したり忍び歩きをしたり、こそこそと行ったりきたりしてほしくない』
人類の代表として、世の中に引け目を感じることなく、堂々と歩んでもらいたい。そのために自分を信じなさいとエマーソンはいうのです。
原因と結果がこの世のすべて
また本にはこうもある。
原因と結果がこの世のすべて
しかし、そんな気まぐれな運命によって得られる儲けなどに目をくれてはいけない、とエマーソンは諭します。それよりも、神の法を実行する『原因』と『結果』を相手にしなさい、と。つまり、『こういうことをしたから、こういう結果になった』というのがこの世の全てなのだというわけです。そのことをよくよく考えなさい、というのです。
そして大いなる意志を離れずに働き、獲得してしまえば、運命の女神が回す『偶然』の車を鎖で縛りつけてしまうこともできる。そうなれば、『彼女の車の回転を懼れる心の及ばぬ場所に君は坐することになる』と。自己信頼を基にして生きていけば、運命など恐れる必要はなくなるのだといっているのです。
『運命の女神を追いかける』のではない。『自分が運命の女神になる』のだ。
自己こそ自己の主である
早稲田大学を経て、情報会社・出版社の役員を歴任した岬龍一郎の著書、『言志四録』にはこうある。
一人前の男は、自分自身の力に頼るべきであって、他人の財力や権力に頼るような弱気な心を出してはならない。天を動かし地を驚かすような大事業も、すべては一個の自分からつくり出されたものである。
『大般涅槃経』の中に『自灯明・法灯明』という言葉が出て来る。釈迦の最期を憂えた弟子の阿難が『これからは誰を頼ったらよろしいのでしょうか』と聞いたところ、『阿難よ、これからは自らを拠り所とし、正しい教えを拠り所とせよ』といったという。
『法句経』の中にも『自己こそ自己の主である。ほかの誰がある主であろうか。自己がよく制御されたならば、人は得がたい主を得る』とある。平たくいえば、まず自分を鍛え、『俺がやらなきゃ誰がやる』との独立不羈の精神のことだ。『寄らば大樹の陰』とばかりに、権力になびき、財力におもねり、なにかといえば、人の褌で相撲を取っているひ弱な者には耳の痛い言葉であろう。
『主体性』だ。一言、それだけである。
アウシュビッツのクリスマス
ナチスの強制収容所に収監され、人間の想像を絶する3年間を過ごしたドイツの心理学者、ヴィクトール・E・フランクルの著書、『夜と霧』にはこうある。
医長によると、この収容所は1944年のクリスマスと1945年の新年のあいだの週に、かつてないほど大量の死者を出したのだ。これは、医長の見解によると、苛酷さを増した労働条件からも、悪化した食糧事情からも、季候の変化からも、あるいは新たにひろまった伝染性の疾患からも説明がつかない。むしろ大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる、というのだ。
クリスマスの季節が近づいても、収容所の新聞はいっこうに元気の出るような記事を載せないので、被収容者たちは一般的な落胆と失望にうちひしがれたのであり、それが抵抗力におよぼす危険な作用が、この時期の大量死となってあらわれたのだ。
彼らの人生や心理状況を浅薄に語ることはできない。だが、彼らが『依存』していた『偶然』は、彼らの身に結果として不幸を招いた。
人生の責任を引き受ける
『7つの習慣』にはこうある。
人生の責任を引き受ける
責任は英語でレスポンシビリティー(Responsibility)という。この言葉の語源を見るとレスポンス(Response:反応)とアビリティ-(Ability:能力)という二つの言葉からなっている。主体性のある人はそのレスポンシビリティー『自分の反応を選択する能力』を発揮している。彼らは自分の行動に対する責任をとり、状況や環境、または条件づけのせいにしようとはしない。彼らの行動は自らの価値観に基づく意識的な選択の結果であり、状況によって起きる一時的な感情の結果ではない。
人間の本来の姿は主体的なものである。だから、意識的な選択にせよ、無意識的な選択にせよ、もし自分の人生が今までの条件づけや周りの状況にコントロールされているとすればそれは、そうしたものに主導権を譲った結果にほかならない。
自分の人生に対する責任を放棄すると、反応的になる。例えば、反応的な人の多くは周りの物的な環境に大きな影響を受ける。天気がよければ、気分も良い。しかし天気が悪ければ、気分も悪く在り、遂行能力も低下する。主体的な人は、自分の天気を持ち合わせている。雨が降ろうが陽が照ろうが関係ない。彼らの行動は価値観に導かれており、質の高い仕事をする価値観を持っていれば、天気がどうであろうと関係ない。
自分の人生の舵を握る、主体的になる。そうしなければ『反応的』になる。つまり、人間には常に選択肢が与えられているのだ。
理論か偶然か
一橋大学、ハーバード大学大学院を卒業し、ペンシルバニア大学、筑波大学、大阪大学、京都大学等で教授を務める梶井厚志の著書、『戦略的思考の技術』にはこうある。
理論か偶然か
ノーベル経済学賞を受賞したロバート・マートンは、今風に言えば『金融工学』を創始した人である。私の留学時代にハーバード・ビジネス・スクールで聴講した彼の金融理論の講義の中で1つ記憶に鮮明に残っている言葉がある。それは、
『世の中には賢い人と運のいい人がいる。賢い人は手法を誇るが、運のいい人は結果を誇る』
というものだ。まったく偶然でも、結果が出ることがある。したがって問題は、それが必然だったのか偶然だったのかを見分けることのはずだ。自分の手柄ばかりを強調する人に対しては警戒心を抱くべきだし、実際そのような態度に対して嫌悪感まで抱くことがあるのはもっともなことだといえる。
1987年8月、私はアメリカ留学のため、スーツケースひとつもって成田からニューヨークへ向かった。そのときに機内で読んだのが阿佐田哲也の『麻雀放浪記』で、それ以来この痛快な小説を、何度読み返したかわからない。その中に、主人公の『坊や哲』がチンチロリンというさいころ遊びの一種で金を稼ぐくだりがある。
チンチロリンのルールはあえて詳述しないが、要はサイコロに細工をしない限りは偶然で勝ち負けが決まる単純なゲームである。坊や哲がチンチロリンをするのはそのときがはじめてなのだが、彼はじっと見ているだけでなかなか賭けようとしない。なぜなら、
『やるからには、私なりの方法論を持ちたかった。勝つか負けるか、結果はわからない。ただ、セオリーを作ればそれに賭けられる。負けたところであきらめもつく』
からだ。なぜセオリー(理論)を研究するのかと尋ねられると、私もそのように答えることにしている。
イチローは言った。
『1』の仕組み
偶然があると、軽く信じるくらいならまだいい。例えばどこかのレストランで食事をしようとして夫婦でそこに行ったとき、数年ぶりに会った旧友とパッタリ会った。そういう偶然は全然ある。その時、『ああ、偶然だね!』という会話があるところに、特に悪い印象はない。だが、何から何までを、その偶然に依存する考え方をする人間はよくない。
そういう人は、例えば『5』という結果があったとき、常として『なんということだ!』というリアクションを取る。つまり、自分にはその『5』という結果はいつだって青天の霹靂であり、関与していないと言っているわけだ。だが実際にはその『5』という数字は、『1、2、3、4』という手順が踏まれたから生まれた現象である。
私は、およそ8000の偉人の言葉を内省する前に、このことを指示した、『『1』の仕組み』という概念をブログに記載したが、その後、偉人の言葉を内省する上で、同じことを突く人間を発見した。
ブッダだ。
これは私の超訳で、実際の引用元である『超訳 ブッダの言葉』の超訳はこうだ。
『原因と結果の法則性を意識し、苦しい結果をもたらす原因となるネガティブな思考から離れて行動する。そうして心地よい結果を受け取ること。それが最高の幸福。』
原因があるから結果があるのだ。つまり、『1』があるから『5』があり得た。例えば、『キリストの愛』を信じる私の母親がこの仕組みを理解している人間であれば、10代の私が非行に走ったとき、『何で兄や妹は出来て、あなただけ出来ないの!』と私を罵倒することはなく、『私が、人一倍繊細で自我が発達しているあなたに、クリスチャンになることを強要したことがいけなかったのよ。』という、愛の言葉をかけただろう。
『無新風来吹(むしんにかぜきたりふく)』
『PRESIDENT』、2016.4.4号にはこうある。
禅の金言36
『無新風来吹(むしんにかぜきたりふく)』
夏の暑い日に吹くそよ風は、我々に一時の涼を与えますが、風は涼しくしてあげようと思って吹いているわけではありません。見返りを求めて行動していませんか。
偶然を自分の都合の良いように『援用』して解釈する人間の愚かさが、笑えないときがあるという決定的な事実を覚えておくべきである。
1.フランスの皇帝、ナポレオン
2.アメリカの政治家、ウッドロー・ウィルソン
3.アメリカの発明家、エジソン
4.日本の経営者、大山梅雄
5.アメリカの実業家、アンドリュー・カーネギー
6.日本の経営者、松下幸之助
7.古代ギリシャの哲学者、アリストテレス
8.フランスの哲学者、ヴォルテール
9.古代ローマの詩人、ウェルギリウス
10.ドイツの作家、ドストエフスキー
11.日本の作家、芥川龍之介
12.日本のプロ野球選手、イチロー
13.ドイツの社会学者、マックス・ヴェーバー