私の人生において、このときも、このときも、このときも、共通点は、『こちらからは決してけしかけていない』ということだ。むしろこれらの周りにいるとき私は、陽気で明るい、まっすぐで少年ぽさの残った無邪気で隙がある人間で、そこに居た。
それは、それまでの自分の半生での経験が、そうさせていたのだ。幼少時代、見栄に支配された父親に、投げ飛ばされて理不尽な説教を食らった経験、いじめっこ(すぐにいじめ返したが)や、不良たちは、何もしていないのにこちらに危害を加えようとする。同じく、見栄に支配されて傲慢を極めたガキ大将、そして寮友。いろいろな経験があった。見栄という言葉の意味は、『見た目の姿を意識して、実際以上に良く見せること』ということであり、見栄を張ってしまう人間は、『見た目』とか、『人目』といったものに、支配されて生きているのだ。嫌というほど『そういう世界』を見てきて断言させてもらう。
いじめっこ、見栄っ張り、不良、拝金者、エセ成功者、彼らの共通点は、『器が小さい』ということだ。もちろん、器が小さいと感じるのは、自分の親に対しても同じだし、自分自身について言う時も、必ずそう思う。だが少なくとも私は、そのことにとっくに気づいて、目を背けず、恩師たちからその逃げない姿勢について、太鼓判を押してもらっている。いわゆる、四聖の一人、ソクラテスが説く、『無知の知』から目を背けないということである。
この言葉を教えてくれたのも、恩師だった。上に挙げたような事例の記事を見ても、それは伝わるはずだ。私は18歳の時、武道の真髄は、『合気道』にあると見た。他の武道、格闘技のように、決して自分からは戦いをけしかけない。万が一相手がけしかけてきた場合にのみ対応し、その”力”を利用し、相手を投げ飛ばし、戦いを鎮める。四聖のもう一人である孔子の教えを書にした論語や、孫子の兵法の極意には、『戦わずして勝つ』というものが代表的に浸透しているように見えるが、もっと実質的にその極意を見抜こうと思えば、『戦わずして負けない』という真理が見えてくる。
つまり、『勝ちありき』で人生を考える人は、人としてどこか欠落しているという自負を抱かなければ、自分の器の小ささを露呈してしまうということなのだ。人の優劣を決める、『勝ち負け』など、本当はどうだっていい。どうしてもやらなきゃいけないときだけやればいい。負けないために。
『銃を抜いたからには命を賭けろよ。そいつは威しの道具じゃねえって言ったんだ…』
映画『13人の刺客』で、この真理をついた本物のシーンがある。それはこの物語で、この世に氾濫している『成功』という図式に当てはまるはずの、金と権力に溺れて人の道を外した徳川将軍の弟を、成敗する為に結成させた、13人の刺客の中心人物、島田新左衛門を、将軍の側近、鬼頭半兵衛が、見えないところで、畏怖と称賛の念を込めて、こう評価するシーンである。
「この島田新左衛門という男、切れるというわけではない。恐ろしく強いというわけでもない。だが負けぬ。無理に勝ちに行かず、押し込まれてもなかなか動かず、最後には少しの差で勝つ。そういう男だ。」
無理に”勝ちにいこうとする”のは、自分の自信のなさの表れだ。本当に自分に自信がある、つまり自分を信じている人間は、最初から『人に勝つ』とは、考えない。自分達は世界に一つだけの、花なのだから。
byヴォーヴナルグ
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
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この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。