このテーマについて語ると私は躍起になる。私の親がクリスチャンで、聖書を読み日曜に教会に行くのに、『私がやっているのは宗教じゃない』と言い張り(いまだに)、それを私に”押し付け”、”強要”し、物ごころつく前に”洗脳”(あえてこの言葉を選んでいる)し、それを強いたからである。それに反抗すると”反抗期”と揶揄され、それを拒絶すると父親に怒鳴られ、力づくで私の意志をひねりつぶしてきた。
私の心は人一倍”違和感”に包まれ、それによって私は人一倍自我が発達した。他の従順で当たり障りのない選択肢を取る兄弟は、『聞き分けのいい子』だと判断され、何か問題が起こると、必ず”反抗”していた私のせいにされた。今でも焼き付いている。15年前、兄から仕掛けてきた喧嘩で、私が馬乗りにされ、殴られた時の話だ。その前日にも同じように、思春期の兄が、私に暴力をふるっていた。植木に頭を押し付け、木が折れるほど掴んで引きずったのだ。
私も兄もとても仲が良く、暴力的ではなかったが、思春期も重なり、やり場のない怒りの矛先もわからず、ただ喧嘩になっただけだ。それはわかっている。だが、私も(ここで抵抗しなければ埒が明かない)と考え、馬乗りに殴られながら、下から顔を蹴りあげた。すると兄の口からは血が出て、兄は泣いた。子供のように泣き始め、母親にすがりつき、その場で部屋に入ってきた母親は、『泣きわめいて血を流している聞き分けの良い兄』、『いつも反抗している血を流していない弟の私』を見て、どう判断したかは言うまでもあるまい。私は、『どんな理由であろうと暴力をふるう人間は許せない』と言われ、母親は兄をこれみよがしに私の前で慰め出した。私はその瞬間、自分の心の形が変わった音を聞いた。
子供ならだれでも依存する最愛の両親が持つ歪曲した愛情と不当な評価、頼りがいがあって、最後の味方だと思っていた兄との信頼関係の崩壊、その後、確かに”真っ白に育てられた”私は、それらを含めた”黒い物”に触れ、自分自身が黒く染まるのに時間はかからなかった。その5年以内に父親が肝臓ガンで死んだが、私はその余命宣告を聞いた直後は、別に驚かなかった。むしろ、
(散々俺を苦しめてきたんだから、死んで当然だ。)
(せいせいする。これでようやく俺は自由になれる。)
と思ったのだ。それは、半分居直り、だが、半分”本気”だったことは、あれから15年以上、波乱万丈な半生を送ってきた今の私でも、認めざるを得ない事実だ。私ほど信仰について悩んだ人間はいるのだろうか。親の存在によって私は、皆がやっているように『墓参り』もしなければ、年末年始に『お参り』に行く胸中も複雑だ。キリストの誕生日である『クリスマス』は、浮かれることができないし、『正月』をこたつでテレビを見ながら家族で過ごした思い出が無い。正月は両親が必ず、クリスチャンの集いと呼ばれる長野のキャンプに出掛けるからだ。それは、今でも続いている。一生、続くのだ。
つい今朝も母親は、『クリスマス会を今年も24日に開く』と言ったが、私はその『クリスマス会』に安易な気持ちで参加できない。私や従兄弟のようにクリスチャンでもない人間に、母親が食事の前に辛気臭く祈りをはじめ、その場に居る全員にメタメッセージ(直接は言わないが、裏で重く訴えかけるメッセージ)で、『家族・親族みんなでクリスチャンになるのが最善なの。私はそれを理解してくれるまで、何度でも何年でもこうして祈りつづける。いつでも信仰を持ちなさい。』と、押し付けてくるからである。
そういう場を毎年『24日、25日』といったメインデーに設定し、途中、集まりが悪くなる現象が起きていることに違和感を覚えていた私は、今朝言った。
『なぜ毎年、24、25日という日に設定するのか。22、23、26、27という選択肢もあるはずだ。』
『だってあとは平日だから』
『他に都合を合わしてられない』
この発言が母親の言葉だ。だが実際には、10年以上もの間、24,25日に設定している事実があり、他に都合を合わしてられないのであれば、そもそも、誰の為の集いなのか、その言葉によって自分の”エゴ”が露呈してしまっていることに気づいていない。”家族”だけならまだしも、”親族”も含めたメンバーをそのメインデーに集めるのは、どうなのか。”親族”も自分の家族があるわけで、そっちをおろそかにし、”こっち”に来させようとするのはどういう考えからなのか。それにただの”家族”でも『キリスト教信者』と、そうでない人間の溝はどうするのか。私のようにそうでない人間が『嫌だ』、『やめてくれ』と、再三再四、20年以上、何度も何度も何度も言い続けているのにも関わらず、どうせ絶対に、『神様の誕生日』に”辛気臭い祈り”を始める。
敬虔な信者のふりをする割には”エゴ”の塊で、強要をやめられない。自分のエゴを押しつけなければ気が済まない。結局は、自分が『主・イエス・キリスト』の誕生日を、自分の(一方的に)愛する家族・親族と共に祝いたいという、”エゴ”なのだ。それについて他の人間がどう思うかなど、想像できないのだ。それで自分の心一つ、満たされるからだ。上の階に住むもう一つの親族とは、同じ家に住んでいるのに”壁”があり、亡くなったその祖母が『仏教』だったという事実は、その”壁”に本当に関わっていなかったというのだろうか。なぜ私の子供の頃に大勢で食事をした時の思い出には、いつももう一人の祖母(クリスチャン)しかいないのだろうか。なぜもう一人の祖母を含めた家族と、楽しく食事をする思い出がないのだろうか。
『神』。もし『神』がいるとしたら、その『神』も大したことは無い。この程度の”確かな軋轢”や、宗教同士で”戦争”を引き起こしてしまう時点で、『神』の持つ力など、たかが知れている。『試練』というが、『試練』の度に罪のない女、子供、老人がそれに巻き込まれて命を落とすのなら、『神』の持つ倫理は、破綻している。もはや、『神』など、頼るべき存在に値しないのだ。ここまで見た人は私が絶対的な無神論者であることはわかったはずだが、その私が言わせてもらう。『神』は、『在る(或る)』。だが、『頼る(依存する)べき存在』ではない。『神』とは確かにそこに『在る』し、目には見えないが確実に『或る』。だが、『有る』わけではない。だからこの世には、幾多もの異なった宗教や神が、存在するのだ。
『有って』くれれば、目に見えて絶対神が一人、そういう名前で、性別はどっちで、どういう出で立ちをしているかが理解る。だが、『無い』のだ。『居ない』。『在る』と『有る』は違う。例えば、写真は『有る』が、思い出は『在る』だ。そういうことである。これはこのテーマについて、死ぬほど葛藤した人間にしか見いだせない答えだ。もちろん、私以上に葛藤した人間は実に多くいるはずだが、それでもそれらの存在は、人間の中でも一握りしかいないだろう。
『悪ぃがおれは ”神”に祈ったことはねぇ』
私はこれからも『神』には祈らない。だが、『神』にすがる人間を、決して見下さない。この世の50億人以上、つまり人間のほとんどが、何らかの宗教を持っている事実がある以上、人間と宗教とは、切っても切れないものだからである。だが、だからといって”そのデータ”が、私が何らかの『神』にすがりつく理由にはならない。世界的に影響力の強いアメリカ国民のほとんどはクリスチャンだ。だが、そのクリスチャンがイスラム教の預言者ムハンマドを侮辱し、大規模な暴動が起きたことは記憶に新しい。人も死んだ。キリスト教のイスラム教の争いで、である。さて、こうした事実を目の当たりにして、何が絶対神なのか、誰が断言できるだろうか。
今朝私は、クリスマス会には参加しないと言い捨てた。妹が風邪を引き、私がその対処の仕方を教えるため、『病は気から。風邪は気持ちが重要だ。』『母親は風邪を引いたら優しすぎるところがある(配慮した言い方)俺も昔はよく風邪を引いたら、やれ『たまご粥』だの、『プリン』だの言って、それに甘えていた。それを母親が、用意してくれるからである。だが、それで20歳を過ぎ、彼女と半同棲していたとき、そうして甘えている私に彼女がこう言い放った。『そんなにすぐ風邪なんか引かないでしょ』私は恥を知った。私は、『風邪を引いたら甘やかしてくれる』と思っていたのだ。』と言い、その先もこう続けたかった。彼女のその言葉の裏には、私に、彼氏らしく、男らしくふるまって欲しいという願いがあった。
私はプライドの塊のような男だ。私の心理背景に、私が嫌う信仰を押し付ける母親に対する『マザコン』に近い甘えがあった事実を思い知らされたその時から、風邪を引いても決して人に甘えることはなくなった。それまで私は、ことあるごとに風邪薬を飲んだり、風邪だと決めつけて自分を甘やかすことが多かった。多い日には、週1で風邪薬を飲んでいた時期もあった私が、そういう意識を持って人生を生きるようになってから、思えば私の人生は、右肩上がりになっているかもしれない。困難に屈したり、”力”に身を任せたりすることはしない。抗う覚悟を覚えたのだ。
そして私は巨大な権力や、財力や、圧力に屈せず、甘い罠や、誘惑、病気、冷たい批判、言われの無い誤解、無知による揶揄、暴言、横領、実に様々な”力”に抗い、今を生きている。いわゆる、当時の彼女は『あげまん』だったのだ。と。『病は気から』という言葉は、本当だったのだと。だが、私の半生にそういう歴史があることを想像せず、妹(クリスチャン)は私のこの真剣な話に相槌一つ打たず、その割には私が用意した『風邪薬』や『ビタミンドリンク』にはお礼を言い、母親は、私の『母は優しすぎる(甘やかしすぎる)』という話を聞き、自分の人格が否定されたと勘違いし(ある意味否定したが)、私の話をさえぎって妹に寄り添い、わざと二人だけの世界をつくったその様子が、かつて『私に見せつけるように兄を慰めた』様子とそっくりで、話をやめざるを得ない状況を、恣意的につくられてしまった。
『常に風邪を引く体質だった人間(そう育てられた?)』が、自身の壮絶な葛藤と、奮闘の中で見出だした『風邪をひかない極意』を、大事な妹に真剣に話す私の意見が闇に葬られ、『風邪を引いたり、困難に直面したら主・イエス様に祈りなさい。甘えなさい。委ねなさい。慰められなさい。無理はしてはならない。』と、ただただ『与えることが愛』だと勘違いした母親の意見が、『正しい意見』だという空間がつくられてしまったのだ。心底から真剣に話すのをさえぎられ、自分たちの宗教を絶対的に優先する。そんな人間が集う場所に、クリスチャンではない人間が参加したいと思うだろうか?
答えは、Noである。この問題において最も重要なテーマは、『風邪をひかない』ことである。『風邪を引いたら神に祈る』ということではないのだ。『風邪をひかないこと』その対処法、それが『問題解決』だ。どうもうちの親はこの『問題解決』について、闇に葬りすぎて人生を60年近くも生きてきたらしい。人生におけるあらゆる『問題』から(宗教だとしても)逃げることは、問題解決にはならない。つい2週間も経たない前に、私が指導して解決したある問題を、もう忘れてしまっているのだ。私が心から笑って家族と食事が出来る日は来るのだろうか。来ないだろう。来なくていい。なぜなら、そういう日とは、祖母と母親と妹のクリスチャンが全員、クリスチャンをやめたときだからである。
だが、私はクリスチャンをやめることを、強要しない。私はさんざん強要されたのに、私は強要をしないのだ。この意味がわかるだろうか。彼女らは、自分達が愛する家族に対し、『理不尽な要求』をしていることに気づいていない。自分達が、正しいと思っているのだ。その延長線上は、前述したような異宗教との争いであり、私のような人間との、対立、軋轢である。つまり彼女らは、自分達が何らかの宗教を持つ、それだけで、この世の誰かと”確かな軋轢”を生んでしまっているという事実に、気づいていないのだ。軋轢を覚悟してでの信仰ならまだいい。
だが、それらを見誤って自分達が正しいと思っているのであれば、それは単なる”エゴ”であり、自分本位である。その延長線上に、軋轢や争いがあるのだということを、自覚していないのだ。つまり彼女らは、自分の人生が安らかになるのであればそれでよく、それらを否定、批判する驚異的な存在を敵視し、争いを避け、平和主義だと敬虔にふるまうくせに、自分自身が争いの種になっているということを理解していないのだ。私は自らの家族を『最愛』だと表現するが、それは言わば、私が家族であり、そうする運命だからである。だが、実の本音では、自分達だけが生きるために慰め合う排他的で自分本位な平和ボケして、敬虔なクリスチャンを装ううちの家族よりも、お金もないのに発展途上国に行き、その国の子供の為に身を粉にして尽くす人の方が、よっぽど人として素晴らしいと思っている。それが事実なのだ。紛れもない、真実なのだ。これでわかったはずである。『神』に依存する人間は、『弱い』のだということが。
このSTRONGWORDが持つ意味は深い。男としてこの世に生まれた以上、この世の幾多の困難に屈さず、自分自身の実力で生きていく為に重ねる、努力、努力、努力。その、『尋常じゃない努力』とパートナーになり、一生を貫く覚悟を持った人間にしか言えない、秀逸な言葉。それが、このSTRONGWORDなのだ。『神』がいるとかいねぇとか、そんなことはどうでもいい。俺は、俺のやるべきことをやり、最後まで俺らしく生き貫くだけだ。そういう人としての強さに、私は深く共感する。
byイプセン