『やさしい』という言葉の意味を、履き違えている人がいる。言葉で書けば、わかりやすい。『易しい』と、『優しい』とでは、意味が違うのだ。文字通り、『安易』なやさしさは、前述、一方で、『優れた』やさしさが、後述である。私の周りに居た人間は、全てに等しく、私の部下に”安易な同情”をし、『やさしさ』を演じた。
(もっと彼にやさしくしてあげたらどうだ?)
こういう顔をした人間は、何人も見てきた。だがその度に私はこう思ってきたのだ。
(お前らは、今日、この場だけだろ?奴のことを考えるのは。俺は、一生考えていくんだ。一生向き合っていくんだ。お前らと俺とでは、覚悟が違うんだよ。こいつらは本当に”友人”なのか?話した俺が、馬鹿だったな。)
案の定、彼の為を思うように見せかけたその友人たちは、もう最短で数えても一年半もの間、その社員に助言一つせず、放置している。その間、いやその前も、後も、そしてこの後もずーっと私は、助言し、説教し、怒り、殴り、旅をし、そして共に生きていくのだ。
『三笠山に登る一歩、富士山に登る一歩、同じ一歩でも覚悟が違う。どこまで行くつもりか、どこまで登るつもりか、目標が、その日その日を支配する。』
『いいかい、優しいだけじゃ人は救えないんだ!!!!人の命を救いたきゃ、それなりの知識と医術を身につけな!!!!腕がなけりゃ、誰一人救えないんだよ!!!!』
『やさしさ』を”偽る”人間を、 “偽善者”という。彼らはその自覚がないだろう。だが、”恩師”は、自分のことを偽善者だと認めた。教える側の私に向かって、二回りも年齢が違う私に向かって、こう言ったのだ。
『雄治、お前にゃ通用しねぇよな。俺は、偽善者だ。』
あの立場が、私の当時の立場に対してこの言葉を言うのは、容易ではない。恩師は、『優れて』いたのだ。だから、本当の『優しい』人とは、こういう人間のことを言う。自分の無知、無力を認める勇気、他人のエゴ、トラウマを受け止める勇気、これらの資質を持ち合わせた人間だけが、『優しい』人間に、当てはまるのだ。『やさしい』を、見誤ってはならない。
by三浦綾子
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
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この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。