厚い信頼が、人間に覚悟を決めさせる。では、『厚い信頼』とは何だろうか。そして、その信頼を心底から寄せられる人は、いるだろうか。まず本音から言おう。残念ながら私はいない。家族の様に、愛する人はいる。だが長年連れ添った家族も、今いる社員も、かつての悪友も、 まだ『厚い信頼』には値しない。『愛』と『信頼』はほぼ等しいのに、 おかしな話である。 なぜこのような矛盾した感情があるのだろうか。『厚い信頼』。それは、自分次第である。
つまり、自分が強く相手を信じればそれでいいのだが、 私の様に『いろいろと気づいてしまう完璧主義者』は、 相手のまず、悪い部分が目についてしまうのだ。 そして、その件があるから相手を心底から信頼できない。 汚い大人も、まがまがしい人間の愚かな欲望も、たくさん見てきた。
(どうせ土壇場では私利私欲を取るんだろう)
そういう不信感が、今までの半生の経験も手伝って、自分を襲うからだ。 私は偽善者が大嫌い。 だからこうやって思っていることをありのまま書く。 これを見た家族や、社員はきっと天に昇る気持ちにはならないだろう。 だがこれが本音なのだ。 相手を天に昇らせたいからと言って嘘をつくのは、 『綺麗ごと』である。 そして、そういう嘘で塗り固められた人間は『偽善者』であり、 それで喜ぶ周りも『偽者』である。 私は『偽者』の中で生きるのはもうコリゴリなのだ。 これが『完璧主義者(本物主義)』のやっかないところでもあり、 最大の特徴である。 だが私は、 本物の絆とは、こうやって心底の本音をさらけ出すところから始まり、 ここから目を逸らした延長線上には、虚無しかないと確信しているのだ。
私がこういう覚悟で人生を生きようと決意したときは、 もう25年以上人生が過ぎていた。しかしどうだろう。 冒頭で挙げたように、確かに未だに『厚い信頼』を抱いている人間はいないが、 『人間と真正面から向き合う覚悟』を決めて以来、 『信頼は自分の反映だ』と思う自分が芽生えだしたのだ。 こういう心構えになってからというものの、 間違いなく人間関係に、差異が出てきた。 本音を言わず、争いを避けてきたそれまでの人生とは間違いなく違う。 例えば母親だ。 母親はクリスチャンで、私にそれを29年間、強要し続けてきた。
その間に、本当に波乱万丈な出来事があった。 それなのに、いや、彼女からしたらそれだからこそと言うべきなのだろう。 私にそれを、強要することをやめなかったのだ。 だが、クリスチャンがこの世で最も崇高な姿だと思っているのであれば、 それはただの勘違いだ。 イスラム教、仏教、ヒンズー教、神道、道教、儒教、 20億人いるキリスト教徒以外の30億人と、私のような無神論者を合わせて50億人。つまり、20億対50億という割合で考えても、 クリスチャンは単なる一部の人間だということにすぎない。 それを私に強要し、
『この家はそういう家なのだから、 それに従えないのであれば出ていくしかない』
と脅迫した。 こういう歪曲した親を持った10代の私の心が、 文字通り歪曲していったことは、容易に想像がつくだろう。 私は自分の心を持って生まれた。 だがそれを、『主・イエス・キリストに依存せよ』と強要されるのだ。 それがどれだけ苦痛か、わかるだろうか。 自分の『心』はどうすればいい。 自分の『意志』はどうしたらいい。 自分の意志が強ければ強いほど、その苦痛は増す。 私が『エースの言葉』に深く共鳴を覚えたのは、 エースもまた、『海賊王の息子なんて生きてるだけで罪だ』と言われ続け、
(だったらなぜ自分は生まれたのだろうか)
という葛藤を抱き続きた人間だからである。 意志を持って生まれたことが罪。 それは単なる勘違いで、あなたの主は、イエス・キリストなのだと。 そう言われ続けた人間の気持ちが、エースの人生と共鳴したのだ。 エースの言う言葉だけはまだ未完成にしていて、まだ書き上げるつもりはないが、 私には彼の気持ちがよく理解る。 母親はとにかくそうやって私を『愛(強要)し続け』、 その結果、私の心を狂わせた。
いや、今回のSTRONGWORDは、 ルフィがウソップを心底から信じつづけた結果、 ウソップに覚悟をもたらした、ということのはずだ。 だったら母親が29年間も私に求め続けたことで、私がそれに応えてクリスチャンになった、 という話しになりそうなものだが、どうも少し違う。 私は何を言おうとしているのだろうか。 ここからが重要である。母親は、私に『強要』し続けた。 それを『愛』だと、勘違いしていたからだ。だが、 『育児』と『教育』が違うように、 『強要』と『信頼』もまた違う。 母親は、私を未熟だと思っていた。 普通の親なら、子供に対してそう思うのが普通だ。 だから『強要』していたのだ。 その背景にあるのは、
(私がこの子の面倒を見なければならない)
という責任感だ。 だがそれは『強要』だったから、私は歪曲した。 これが『信頼』だったなら、私は違っただろう。 今回の、ウソップのようになっただろう。