一度でもお互い命を賭けあったら、その関係はもう”仲間”である。いや、それよりも上の絆、”盟友”であると言えるだろう。毎日一緒に行動する間柄が仲間で、それ以外は仲間ではないというわけではないのだ。だから私自身も、決してそういう判断だけでは、”仲間”を解釈していない。私の場合、10年間もつるんだ、10人以上いた友人の中で、年下年上に最低限の礼儀とルールは置いたとしても、なるべく窮屈じゃ無い、フラットな関係を築いてはいたが、その中でも、一番普段遊ばない年下の人間が、起業した時、うちの会社に入った。
そのとき、私は決断しなければならなかった。フラット(全員平等)ではいけないと。社員の上司(運命を握る人間)は、自分しかいないんだと。実際の本音は、それまで仲が良かった他の友人との方がウマがあった。いつも遊んでいたし、いつも一緒に行動していた。
でも、彼らは私には命を預けなかった。一緒に遊びはしたが、それ以外のこととなると、自分勝手にやることを好んでいるようだった。そのくせ、私が企画する誕生会や、イベント、遊びの誘いには乗ってきて楽しむ。まるで、『ピエロ』にもてなしをされる、『お客様』のようだった。私が本当の気持ち、熱意、理念を持って求めると、煙たがられ、自分達の快楽を優先された。まるでこう言われているようだった。
(お前は、ピエロのままでいろ。お前の本性(本当の顔)には興味はない。また面白いイベントをやって楽しませろ。そうしたら、見てやる。群がってやる。)
私は葛藤した。私にとって仲間とは、一体誰のことだったのだろうか。自分達を『家族同然だ』と言い張るが、進路を熱く語り合うわけでもない、ボランティアをするわけでもない、人の為に尽くすわけでもない、悪い道に反れても意見するわけでもない、誕生会には、誕生者本人が盛り上げなければならないような状態で、彼らは慣れてきた頃、本来の集いの意味を見失っていた。ただただ、自分達の快楽を満たす日であり、場だと思うようになってしまっていた。
それでは『家族』だと胸を張れない。快楽を求めあうだけの『烏合の衆』だ。楽しそうな(明るい)ところに群がるだけの、『虫』と一緒だ。それなのに、一緒にいる期間が長いだけで自分達が仲間だと思っている。そのメンバーが長期間、絆を保つために行われた幾多ものイベントが、ある熱い人間によって支えられてきたことも知らずに、彼らはそれが、自分達の絆だと思い込んでいる。私はそれこそ、『ピエロ』だと思った。私は『ピエロ』ではない。
私も、いけなかった。彼らと一緒にいたいから、本当の自分を押し殺していたのだ。彼らに尽くす事ばかり考え、自分の家族にはなかったものを求め、裏方に徹しすぎた。ある見識ある先輩の中にはそれを見抜く人間もいた。『あいつらを本当にまとめてるのは、お前だろ』『お前が裏で糸引いてるんだろ』見る人が見ればわかる。だが、本人達は気付かない。まるで、魔法がかかっているかのように、自分達が崇高で、絆が深く、フラットな関係だと思い込んでいる。
ディズニーランドと同じ原理だ。ゲストに対し、サービスに徹底するキャストの対応。人は、あまりにも徹底されたもてなしを受けると、まるで自分が王様、お姫様になった様な気分になるのだ。だが実際にはそれは、キャストのサービスが徹底しているからである。ディズニーランドの至る所に、ゲストを楽しませる要素が盛り込まれているからである。決して、自分達が王様、お姫様なわけではないのだ。それと、同じことである。彼らはもてなしを受けすぎ、私はサービスをやりすぎた。彼らは私がサービスをするのが好きな人間だと思い込み、(実際にそう言う人間がいた)自分達が平等な王様だと思い込んでしまうようになった。
自分達が王様であるのは、誰かのおかげではなく、自分達の実力のおかげなのだと、勘違いするようになってしまったのだ魔法が、効きすぎてしまったということだ。勘違いした彼らもいけないし、やりすぎた私もいけない。だから私は、もう彼ら友人と一緒にいる為に性格を合わせ、見返りを求めず彼らに尽くす事に徹したり、軽薄なフリをして好き勝手にふるまって見せるのをやめた。自分と運命を共にする、文字通りの運命共同体である、一番絡みのない、吃音症の社員と、本気で向き合っていくことを決めたのだ。数年前までは、私には仲間がたくさんいると思っていた。
だが、成長し、仲間の定義と真剣に向き合う年齢になったとき、私は、彼らはかけがえのない青春時代を共に過ごした『友人』でこそあるが、『仲間ではない』と判断した。彼らは私がキャストに徹しなくなると、私とどう絡んでいいかわからなくなった。それだけ、『私がキャストで、彼らがゲスト』という図式に、依存していたということなのだ。そして、絡む時間は激減していった。彼らは今でも、私がまたキャストとして向き合えば、ゲストとして私と接することができるだろう。
だが、もうその関係性は終わりである。今、嘘偽りない、正当化なしで本当に自分の仲間がいるとすれば、私は、社員の名を挙げる。いまだに本当にだらしなくて、頼りにはまったくならない、ミスばかりで、後悔ばかりしていて、女々しくて、足を引っ張る、私の性格上、腹が立つところばかりの愚かな社員だが、それが、私が彼を『仲間』だと認めている証拠だ。
小学校から一緒だったはずなのに、彼と『仲間だと思っていた時期』は、彼の日々の行いはどうでもよかった。何をして失敗しようと、どういう服装をしようと、一切関係なかった。だが今は、彼の全ての言動を、自分のことのように考えている。だからこそ腹が立つのだ。だからこそ、彼が成長したとき、自分のことのように喜べるのだ。同じ目標に向かって、自分達の命をシンクロ(一つに)させる。私が確信する『仲間の定義』とは、それが出来るか、出来ないかということである。
『…私はここに残るけど……!!!いつかまた会えたら!!!もう一度仲間と呼んでくれますか!!!?』
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
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