私はおよそ20年前から、つまり、意識的にテレビ、アニメ、ドラマ、映画等を観るようになってから、 “究極の場面”で自分はどう行動すればいいかを、考えてきた。一番最初にそれを考えさせられたのは、『目の前でトラックに子供が轢かれそうになっているのを見てしまった時、自分が取るべき行動』である。ハーバード大学の講義で一番人気の、マイケル・サンデル教授の著書、『これからの「正義」の話をしよう』には、読者に対してこういう投げかけがある。
『あなたは路面電車の運転士で、時速96キロで疾走している。前方を見ると、5人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキが効かないのだ。頭が真っ白になる。5人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ。(はっきりそうわかっているものとする。)ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、5人は助けられることに気づく。どうすべきだろうか?』
70億人の人間を含めた地球に、これだけの多様性があれば、いつか、こういう場面に直面することは、皆無ではない。私はその時に、あたふたして、自分のことを考えたくない。なぜならそれはとても後悔する選択肢だからだ。それに、とても無様で、”醜い”。そうまでして生にすがりついて、生きながらえることは、私の性格上、できないのだ。しかしその場面では、『出来ない』では済まされない。
漫画『カイジ』では、こんなシーンがある。ヤクザの組長が、自分の恋人だと信じていた溺愛する女と、一緒に駆け落ちして逃げようとしていた男を捕まえ、あるゲームを強制的にやらせた。『二人の愛を試すゲーム』だ。本当は、二人の愛が本物であれば、死なずに済むというのだ。だが、表面的には、どちらかが死ねば終わりと、告げられる。剣を、自分の身体か、相手の身体に刺す事を指定しろと言われる。さっきまでおしとやかに見えた女は、駆け落ち相手を簡単に裏切る。
女『死んでっ! 死んでっ! 死んでっ!』
抗う声虚しく、男の身体には剣が突き刺さる。だが、このゲームは順番。次は、男の番だ。どちらかが生きている限り続く。そして組長はさらに、悪魔の囁きで誘惑する。『二人の愛が本物であれば、彼は亜里沙(女)を生かしたいと願い、自分の胸に残りの1本を刺すだろう。』するとさっきまで『死んでっ!』と叫んでいた女は、手のひらを返すように態度を一変させ、組長のいうシナリオ通りに事を運ばせようとした。
女『ごめんなさい! 私…本当に…我がままでした!自分勝手でした…!』
一緒に駆け落ちするとまで言っていた彼女にすっかり裏切られた彼が、この後どういう行動を取ったかは、言うまでもない。たとえ表面的には手を繋ぎ、”愛し合っているように見えて”、 “駆け落ちする”などと言っていても、 “絆の浅い”人間関係の末路は、決まっている。人間は弱い。誰もがそうやって、我を失い、私利私欲に走ってしまう可能性がある。 “究極の場面”なんてめったにないし、想像する人の方が少ないかもしれない。
だが、”真実の愛”とは、”覚悟”である。
『ノジコ!!ナミ!!』
『!!』
『大好き!!』
自分が生きながらえる為に、”駆け落ち相手”を死に追いやろうとした女。言わなければ逃げられたかもしれない、”義理の娘”の存在を、『娘がいないなんて、言えないよ』と、命を掛けて彼女らの親で在る選択肢を選んだベルメール。どうせ散りゆくこの命。あなたならこの人生、どう生きて、どう死ぬ?
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
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この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。