『命を懸ける』という言葉の意味を知っている人間が、本当に命を懸けたら、たちまちその人物に後光が差し、神格化する。人として、黒だろうが、白だろうが、誰も太刀打ちできそうにないオーラを放ち、その人物に軽はずみに接触しようものなら、こちらの命を危険にさらす。
かつて、経営の神様と呼ばれた松下幸之助は、高齢で身を損じて病床にいた。そこへやってきたのは、利権やら資産やらをハイエナのように狙う屈強な右翼の集団。だが、松下は寝たきりの病床から、その眼力の鋭さだけで、屈強な右翼の男どもを黙らせたという。そこに在ったのは屈強よりも頑強な、『命を懸けた覚悟』。戦後の日本を経済大国に導いた立役者は、その覚悟も半端なものではなかった。
以前私がある企業の経営者に『意見をさせてもらった』時の話だ。その人物からは、一代で財を築き、アウトローにも関与して、自分が光も闇も知る万能の神だと思い込むような傲慢さが多々垣間見れたが、闇金融のことを話すときに『トイチ』というワードが出た瞬間にメッキが剥がれた。当人が潜った場所など、光が差し込んで子供が遊べる”浅瀬”である。”アウトローの海”とは、そのもっと深く、深海魚の棲む世界の遥かに下にある、ヘドロがこびりついた海か土かわからないような、光の差さない場所のことを指す。
奇しくも当人は、そのヘドロから這い上がった人間の前で、実に意気揚々と『自分がどれだけ物知りで偉いか』を誇示し、洗脳させ、時には怯えさせ、威厳を塗り固め出したのだ。何とも滑稽である。当人は、自分が億万長者であるがゆえに、人が寄ってきて、話を聴いているのだということを理解していない。金を崇拝して金で自分の思い通りにしてきたような人間は、金の切れ目が縁の切れ目。そういう人間の周りにいる輩は、当人の人柄ではなく、金を見ているのだいうことに、気づく勇気を持つべきだった。
それから数年経ち、当人と私は揉めた。長い間溜めていた理不尽の清算をしようと思って、意見したのだ。
『どうなっているんだ?まさかこのままあの件を無かったことにするんじゃないだろうな。俺はこの仕事に命を懸けてるんだ。絶対にやめないぞ。』
当人にどんな”シナリオ”があったかは知らないが、
もし、私や、私の会社、社員を何らかの手段で支配下に置き、今回もまた、今までの自分の人生のように、金や権力、罠や暴力で自分の思い通りにさせ、あるいは陥れようとしているのであれば、命を賭けろよ?
そういうメタメッセージを込めて、前述したような内容のメールを、文章でポンと送った。たったそれだけだ。だが相手には十分すぎたようだ。当人の周りの人間が出てきて『やりすぎだ』等と言ってきたり、弁護士を出してきたりと大慌てしたのだ。最初から、私利私欲さえ出さなければ、踏み込み過ぎて地雷を踏まず、ここまでの問題にはならなかったのだ。もっとも、 私にとっては、あんなのは本当に”意見をしただけ”なのだ。あんなのは喧嘩に数えることはできない。ただの拝金主義のお粗末な末路だ。人間の本当の”深み”とは、 “拝金”に生きる人間には、知る由もないだろう。
『手がふるえてるぞ。中途半端な覚悟で海賊を相手にしようとするからそうなるんだ。』
『……!!覚悟って何よ 人を簡単に殺してみせることがそうなの?それが海賊の覚悟…?』
『違う。”自分の命”を懸ける覚悟だ!!』
“高み”だけでなく、”深み”もない拝金の人生。自殺を考えたくなるような人生環境、貧困や、莫大な借金、それらの試練を乗り越えるためにと、実に幾多の正当化話はあるだろう。
だからお金が必要になったに、決まってる。そんなことは、私にだってよくわかっている。だが、どうせ死ぬんだ。大人になって、死も近づいて、そろそろその自覚も深まってきただろう。だとしたら、今までのことはいい、最後くらいは、金に支配されないで、この人生を生きてみよう。
『何のために人間は裕福でならなければならないのか?何のために彼に高価な馬が、立派な服が、美しい部屋が、公共の娯楽場に入場する権利が必要なのか?すべてはこれは思考の欠如からきている。こうした人々に思考の内的な仕事を与えよ。さすれば彼は、最も富裕な人々よりも、幸福になるだろう。』
byエマーソン
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
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