人私は無宗教者だ。神は『いない』と考えている。なぜ無宗教者になったかということには、両親が敬虔なクリスチャンだったことが大きく関わっている。自分の家は愛に包まれて、恵まれた家庭だと思っていた。だが、物ごころがつき、自分の見識が磨かれていく度に、幾多の矛盾や、理不尽を、違和感として覚え始めた。日曜日に教会に行かないと、家の子供として認められないこと。テストで99点を取った時は、
『残りの1点が何故取れなかったかを考えないとな。バスケなんかしてる時間はないんじゃないか。』
と言い、私は、ありとあらゆる自分の人生を、この親のなすがままにしなければならない拘束感に、日々締め付けられていた。今考えればその追求は、私の可能性を引き延ばすためにあえて厳しくした指導だと考えることもできるが、当時は、何から何までそうやって親の決めたレールの上を歩かなければ認められないという事実に、理不尽を感じていた。
(だってまず大前提として、この親(”クリスチャン”、”聖書”)は、正しいのか?)
この、人間全体だけでなく、宇宙や時間をも巻き込む壮大すぎるテーマを前に当時の私は、ただただ混乱するだけだった。そして、考えることを放棄したのだ。当時の私には、それか、気が狂うかしか、選択肢がなかったのだ。
不良は楽しかった。私は不良の中でも、どこのチームに属するわけでもなく、手当たり次第に喧嘩をふっかけるのではなく、 “やってはいけないこと(タブー)”を破ることで、自由を感じるような人間だった。その中には当然、『無法律(アウトロー)』というタブーだけではなく、いわゆる『下剋上』というタブーもそうだし、『常識や外聞』を”守らない”というタブーも含まれていた。
バイクでの暴走も好きだった。かつて祖先が、馬に乗って大地を駆け巡った爽快さが、植えつけられているとしか思えないあの解放感。不良でいれば、自由になれた気がした。とにかく、ただただ、私は自由になりたかった。
『関係ねぇんだぞ…!!王様だろうと神様だろうと、誰が偉くたって偉くなくたって関係ねぇんだ!!おれは海賊だからな!!』
あの頃は不良が、とても自由に見えたのだ。もちろん今は違う。私は”不良を突き詰めすぎて”、逆に自由を奪われたからだ私は”不良”になりたかったのではない。 “自由”になりかっただけだ。不良も、家出も、悪友との乱痴気も、起業も、全て、 “自由”になるためにやったことだ。不良が自由を奪われる生き方だと知った以上、それをやめるのは必然だった。今私がやっている読書も、トレーニングも、仕事も、世界遺産への旅も全て、私の人生の目的の最深部にインプットされているパラダイムは常に、 “自由”なのだ。
キリスト教だろうが仏教だろうが、皆平等、同じ、人間だろう?人間は、同じようにこの地球で生まれ、そして死ぬ。そう、どうせ死ぬのだ。それだけ絶対的な”ルール”があれば、十分だろう。後は、私の自由に生きる。それが、私のこの一度しかない儚い人生への、心構え、そして、矜持である。
byゲレルト
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
※画像は以下の参考文献から引用しています。
この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。