自分が、例えば”腐ったミカン”のように、意志を持って存在することが周囲に悪影響を与えると知ったとき、人は決断しなければならない。例えば自分が、友人に対しとても積極的に、企画し、統率し、奮起させ、リードするような存在感がある人間であれば、 “責任”がある。彼らの目の前にニンジンをぶら下げ、彼らを走らせることを得意とするからといって、好きなことをやっていいわけではない。
倫理として、レースから逸脱するような行為は越権行為だ。ニンジンをぶら下げ、ムチを手にして支配するのであれば、 “責任”はその支配者にある。彼らがどう走るか、どこを走るかの運命を握っているのは、リーダー(指導者、リードする人、案内人)なのである。”悪友”にこれが理解できるか。
ほとんどの悪友たちは、慣れ合い、傷をなめ合い、刹那的な自分達の虚無感を埋め合い続けることから、抜け出せないだろう。本当に勇気のある人間は、本当に仲間思いの人間は、
(自分が一人、孤独を恐れず勇気を燃やすことで、自分のエゴ一つ、犠牲になることで、その延長線上の彼らの破滅や、争い、後悔、夢や、子孫や、余生に、良い影響を与えられるのであれば、最悪の未来を少しでも緩和することが出来るのであれば、私はこの集団を離れることを、英断だと確信する。)
そう思うことが出来る人間のことだ。それが、真の”仲間想い”なのだ。
『──私はもう…あなた達の所へは戻らないわ……(中略)私には貴方達の知らない”闇”がある”闇”はいつかあなた達を滅ぼすわ(中略)こんな私に今まで良くしてくれてありがとうさようなら』
だが、こういう英断をする人間は、心のどこかで違う答えを求めている。それに応えてあげることが出来るかどうか。それが、残された仲間に課せられたテーマなのだ。
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
※画像は以下の参考文献から引用しています。
この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。