ブッダは、
と言うわけだが、これがどれだけ難しく、かつ心を揺り動かすかというのは、 このワンピースのオトヒメの一生を描いたストーリーや、 手塚治虫の『ブッダ』を観てしまった方が理解が早い。
普通男は、少年は、 生きていると、ヒーローに憧れ、それは日本なら戦隊モノや孫悟空、 海外ならアベンジャーズやジェット・リー、 あるいは軍隊や特殊部隊のスーパーマンに憧れ、『強さ』を求めるわけだが、 そこから更に人生を生き進めると、ある問題に直面するときがやってくる。それは、『強さ』の定義の話である。 我々人間にとって最も『強い』のは、『屈強な男』に限られるのだろうか。 いや、どうやらそうではないらしいという、事実に直面するのである。
『だから犯人が…どこの誰であれ私の為に怒らないで下さい… 私の為に怒りや憎しみに取り込まれないで… ……!!もう一息よ 本物の”タイヨウ”の下まで…!!!』
手塚治虫の『ブッダ』を観る前私は、 正直、手塚治虫というぐらいだからもっとジョークタッチの軽いノリか、 あるいは『ブッダ』というぐらいだから綺麗な映像を観るのだろうという目があった。 しかし、 いきなり子供が子供にリンチされて半殺しにされ、物を盗まれるところからスタートするのである。 そしてこう言われる。
『お前が今日盗まれたあの品物は、 奴隷のお前と、お前の母親を足して売っても割に合わない価値あるものだ。 今すぐ取り返してこい。 そうしなければ、お前の母親とは二度と会えなくなるぞ。』
なんというまがまがしいスタートだろうか。 これが身分差別だ。 私はものの数分で、
(心して見なければならない。恐らくこれがブッダ(仏教)が誕生したときの、紛れもない現実なのだ。)
という心構えが出来上がっていた。 話は展開し、今度はその『盗んだ側』の少年にも、事情があることがわかってくる。 そして今度は、その少年の姉が、理不尽な賊に殺されてしまったのだ。 なんという理不尽な出来事だろうか。 それが戦争だ。 少年同士は同盟をくみ、賊を追った。姉を亡くした少年は、怒りで我を見失っている。
(必ず殺してやる。)
母の命が懸かっている少年も同じだ。敵討ちをしてあげたい。 そして彼らは集団に追いついた。なんと、その賊の長をあと一歩のところまで追い込み、川に突き落とした。 『殺せ!』 そう声が聞こえる。その声は間違っていない。これは仇討だ。当然の報いだ。 少年が手にした武器は、長を完全に射程圏内に捉えた。 ─そのときだ。
(─それでいいのか…)
心の声が聞こえた。
(このまま俺は、奪い、奪われ、そして殺し、殺され、そういう負の連鎖から永久に抜けられないのだろうか。 この世に憎しみを抱いたまま、死んでいかなければならないのだろうか。)
後ろから、『どうした!殺せ!』と、姉を亡くした少年の声が聞こえる。 『助けてくれ!』と泣き叫ぶ、賊の長。 少年は決断した。 賊の長を救うと。 その後の展開は、作品を見てもらった方が話は早いだろう。 そこから更に、二転三転、ストーリーは展開する。 しかし、鬼気迫るあのストーリーは、 見る者全ての魂を揺り動かして、頭に焼き付かせる。
では、どうすればよかったのだろうか。どうやってこの理不尽な世の中を、生きていけば良いのだろうか。 これらの作品からはそういうあまりにも重要なテーマを考えさせられるのだ。 『負の連鎖を断ち切る』。これはあまりにも重大なテーマである。
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
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この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。