『覚悟』を決めた人間の命は、強く、尊い。 私はこのことをよく理解している。 かつて私は、『弱き、やさしき』人間だった。 周囲に流され、 流行を追いかけ、 物事に常に反応的に動いた。 自分からは動かなかったのだ。 つまり『反応』しかしていなかった。 自分の中で自分という人間は、『やさしい』人間だと思っていた。だから争いが嫌いで、 率先して前に出たときに受ける風当たりや、 その巻き起こった風で周囲の人に影響を与えることを恐れていた。そんな、心『やさしい』人間だと思っていたし、 それを演じていた。
あの時の私の記憶はおぼろげで、 色で言ったら淡く、 目つき顔つきも薄く、 心は常に傷付き、 葛藤し、 逃避し、 答えが出ないまま、それを繰り返していた。 強要(愛)され、 強要(支配)され、 自分は一体何のために生まれたのかわからないが、 人を傷つけると、場も、自分も何もかも悪くなるということは知っていて、 それすらもしない、『やさしい』人間だと思っていた。しかしそれは決して『優しさ』ではなかった。
『易しさ』だったのだ。 易しい。 つまり、簡単。容易。誰にでも出来る。誰もがやっている。 誰かがやらなければならないのに見て見フリをしたり、 『傷つけたくない』とか『迷惑をかけたくない』とか御託を並べて、 無限にある『やらない理由』を見つけてきては、 風当たりの少ない道へ道へと、足を進めていった。
その道では、 嫌なことがたくさんあった。 後悔がたくさんあった。 そして、下を向いてばかりだった。 生きた心地がしなかった。 自分が誰だか分らなかった。 自分が何をしたいか分からなかった。 誰も答えを教えてくれなかった。 誰の答えも心に響かなかった。そして数えきれない失敗をした。 だが、あるときから私は 『易しさ』 と 『優しさ』 の意味の違いを知ったのだ。 私がなりたかった、なるべきだった、 なって恥ずかしくなく、胸を張れるのは、 『優しい人間』だったのだ。
『優れている』。 人として優れているということはどういうことか。 おそらく、『見て見ぬフリ』などは絶対にしないだろう。おそらく、『無責任』で、『軽薄』な言動は取らないだろう。 その逆で、優れている人間とは、 時には自分の命を賭してでも、 守るべく家族や、信念を守ろうとし、その行為に対して粉みじんも疑うことがない、 芯の通った人間なのだ。
『この島に!!! 息子を助けに来た!!!! 邪魔する者は何万人でも斬る!!!!』
覚悟を決めた人間の命は、強く、尊い。色で言えば、眩しいくらいに光り輝く、光の色だ。その光を見た人間は、その命を『その他大勢の一つ』として片づけない。
(それをしてはならない)
(この尊きものを無下に扱ってはならない)
その命の輝きは、関係なき人間の魂を、そう叫ばせるのである。
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
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この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。