この世は『弱肉強食』?1859年に出版されたイギリスの博物学者チャールズ・ダーウィンは、『種の起源』で、
“On the Origin of Species by Means of Natural Selection, or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life”(「自然淘汰による種の起原,すなわち生存闘争において有利である種族が保存されることについて」)
と説いた。大自然の動植物、人間界の格差社会、そして『種の起源』。この部分を表層的に解釈すれば、まるで生命は『弱肉強食』、『強者生存』で成り立っている。だが、『種の起源』を紐解くある論文にはこうある。
自然淘汰はとても単純で論理的にやさしい原理であるが、これほどに誤解されている原理は他にないだろう。まず、社会ダーウィニズムや弱肉強食とは全く独立であるので、そのイメージを捨てないと、理解することはできない。第二に、これと関連して、「生存競争」という言葉がイメージさせる利己性や貪欲性とも無縁である。第三に、自然淘汰の作用する単位は、生物個体(細胞または多細胞個体)であり、種ではない。種の進化とは、種内のメンバー(生物個体)の適応度が上がっていくことである。種族維持という言葉が依然として使われているようであるが、生物の生命サイクルは、種(という全体)を残すためのものではない。 自然淘汰は、種内メンバーが異なる繁殖成功度をもつために生じる。
つまりダーウィンが説いているのは『弱肉強食』、『強者生存』ではない。『適者生存』なのだ。これを勘違いしている人は、実に多いという。私ももちろん、そのうちの一人だった。そしてまだまだこの誤解が解けない人は、山の様にいるだろう。このことについてもっと紐解いていけば、『適者』とは、『環境に適応できる能力のある生命』、というよりは、単純に『繁殖に有利な生命』であり、『適者多産』だと言われている。環境の変化に対応できずに、繁殖が不利な状況を打破できない生命は、絶滅していくのだから、繁殖が常に有利な状況を築ける生命が、『適者』なのだ。
だがこの考え方でいくと、『人間が人間本位な考えでその環境を破壊していった場合』には、どう説明するのだろうか。その場合、破壊した人間は、刹那的には多少の森林破壊や水質汚染では絶滅しない。だが、他の生命は、繁殖が不利な環境を人為的に作られて、それを打破できずに、絶滅することもあるだろう。新しく日本の世界遺産に登録された『小笠原諸島』には、島にしか存在しない固有種を守る為に、世界遺産として守られていくことを喜ぶ半面、浅はかな観光客が持ち込んだ外来種によって、その固有種を絶滅させられるリスクを懸念するジレンマを抱えている。では、こうした人為的な多種の破壊の場合、人間が『適者』で、淘汰された生命が『不適者』になるのだろうか。それが生命においての、『強い』、『弱い』という識別なのだろうか。私はそうは思わない。
『弱ぇってのは…罪なもんだ…』
では、もし巨大な隕石が地球に衝突して、地球の生命がほとんど絶滅したとする。そして、宇宙でも生きていける人間の目では見えない微生物が、生き残ったとする。すると彼らは、『適者』になるのだろうか。生き残る者が『適者』なら、そうなるだろう。そう考えると、もはやここでいう『適者』、『強者』など、どうでもよくなってくる。人間の在るべき姿や、『強者』、『適者』を紐解いているうちに、人間が絶滅した後のことを考えてしまっているのだ。重要なのは、人間が生きているうちに、自分達の命の日数のある間に、どれだけ悔いのない人生を送れるかだと思うからだ。
だが、強い人ではなく、適した人。これについての答えはまるで、18歳の時に恩師からもらった、あの言葉にあるエッセンスと、よく似ている。
『厳しくなければ生きていけない。でも、優しくなければ生きる資格はない。』
by恩師
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
※画像は以下の参考文献から引用しています。
この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。