五段階欲求の、頂上にある、『自己超越』に達する人は、人間の中でも一握りしかいない。ソクラテス、キリスト、釈迦、孔子、は特に、人間の『四聖』として数えられているが、 もし彼らが現代の世にいたら、 あらゆる多様性に溢れた今の世で、真理を見極め、 群を抜くことが出来のだろうか。もちろん、彼らなら極めてそれに近い確率だろうし、 彼らがいなければ、現代の世の形は、大きく変わっているのだが、 100%とは言い切れないだろう。きっと彼らが現代にいてこれを分析した時、 同じことを言うだろう。そういう偉大な謙虚さを備え持つ人格こそが、 彼らが偉人である所以なのだ。
『偉そうな人に、偉い人はいない。』いわゆる”仙人”や、”修行僧”は、俗界を離れて山中に住んでいることが多いが、あらゆる煩悩から身を遠ざけられる場所で生活するからこそ、それを維持できる、ということも理由の一つだ。つまりこれらは、 私利私欲という煩悩の甚大さを、現している。それを支配する意志の強さ。それを持つ人間が、『自己超越』の域に達観した人間である。
『人生が死より恐ろしいところでは、あえて生きることが最後たる真の勇気である。』
byトーマス・ブラウン
『もうやめましょうよ!!もうこれ以上戦うの!!やめましょうよ!!命がも゛ったいだ゛いっ!!兵士一人一人に…!!帰りを待つ家族がいるのに!!目的は もう果たしているのに…!!戦意のない海賊を追いかけ…!!止められる戦いに欲をかいて…!!今 手当てすれば助かる兵士を見捨てて…!!その上にまだ犠牲者を増やすなんて今から倒れていく兵士たちは……!!まるで!!バカじゃないですか!!?』
この一度しかない人生や、自分や、他人の命のことをどこまで考えられているか。
『やってくるこの毎日が人生だと知っていたら!』
byスウェーデンの諺
“既に考えていた”ならば、いくら”そういう流れ”に直面しても、場に流されない、もし流されてそれを見失うことがあるのなら、それは、あまり”生きている”とは言えないかもしれない。
『お前の人生が戯れにすぎなかったのなら、死はお前にとって真剣事であろう。だが、お前が真剣に生きたのなら、死はお前にとって一つの戯れであろう。』
byクレッチマン
自分本位に生きている人間ほど、自分の命を棚に上げて、人の命を軽んじる。そして、自分の人生に使命を見出せる人間ほど、自分の命を使い切る。この場合のコビーの、戦争の核である、赤イヌの前に立ちふさがるという行動は、 “命を捨てた”のか、”命を使い切ろうと思った”のか、どちらだと思うか。『死ぬことを恐れない』のと、『命を軽んじる』のとでは、大きく意味が違う。
『こんなに簡単に…人って死んでいいの?』
『我々は命あるものを、使い古したら捨ててしまう靴や身の回りの品のように扱うべきではない。』
byプルタルコス
自分の人生を、どう生きるか。自分が住む町内はおろか、地図やテレビで見た景色で理解した気になり、 “その他大勢の一人”として、浅く考えて生きる選択肢も、宇宙の果てから時間の規模、神や信仰や、無限の心や頭の中に潜り、 “孤高の人”として、深く考えて生きる選択肢も、我々には与えられている。だが、自分の死に場所を考えたことがあるなら、無下な人生は送れないはずだ。無下な命の使い方はしないはずだ。それはもちろん、自分以外の生命を軽んじないことにも、通じている。
『死すべき時を知らざる人は、生くべき時を知らず。』
byラスキン
この世を場当たり的に生きている人より、 “意志”を持って生き貫く人の方が、私には輝いて見える。どんな高貴な物や、”力”で、塗り固めている人でも、そういう人よりは、輝いて見えない。一年に一度打ちあげられる花火や、100年に一度の金環日食に人々が魅了されるように、もし、この誕生も、環境も、命の日数も不平等で、混沌としたこの世に、『成功者』などが存在するとしたら、 “儚さ”に、”尊さ”を見いだす人間こそが、それに該当するのだ。それ以外の存在は虚しくも、 “虚無”に等しい。”意志”こそが、この世を生きていることの、唯一の証である。
『我想う、故に我あり』
byデカルト
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
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この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。