人間はどこかで、『理想の死に方』を探し求めているところがある。『人生の終わらせ方』、あるいは、『悔いのない人生の送り方』。特に、『日本』の、『男』にはそれが植えついている。『武士道』である。ちなみに私は愛国に燃える右翼でも、ヤクザでも過激派でもない。何の宗教にも属さないし、組織にも属さない。自分でごく小さな会社を立ち上げ、経営する、ただの、一、”男”である。されど、一、”漢(おとこ)”でありたいと想う者である。
“漢”とは、生物学上の雄個体であるというような意味よりは寧ろ、勇猛さ、大胆さ、潔さ、堅い信念など、古来より男たるものが持つべきとされている美徳を備えている男前に対して贈られる称号である。強烈な男気と、竹を割ったような潔さ。見るものに突き抜けすぎた、爽快感溢れる感動を与える。何かにスッこけて、そのまま突き抜けて別次元に至ってしまうような瞬間、その生き様を指して「漢」というのである。男の中の男、と呼ぶにふさわしい称号ということである。
映画『プレデターズ』で、日本人役で登場したハンゾウは、どうせ死ぬ命と見定めた刹那、逃げるのをやめ、敵との一騎打ちを志願し、仲間を逃がした。これを観た時、日本の男は何かを感じたはずだ。
新渡戸稲造の著書、『武士道』は、実にそうそうたる人物と照らし合わせ、その道について追及していて、奥深い。キリスト、アリストテレス、ソクラテス、プラトン、孔子、孟子、ニーチェ、エマーソン、デカルト、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、枚挙に暇がない。例えば、今回のようなテーマについて、それら偉大な人物の思想と照らし合わせ、こう書いてある。
『武士道においては、名誉の問題とともにある死は、多くの複雑な問題解決の鍵として受け入れられた。大志を抱くサムライにとっては、畳の上で死ぬことはむしろふがいない死であり、望むべき最後とは思われなかった。』
武士道が掲げる”7つの神髄”
これらについて考えたとき、我々日本男児が、何故『理想の死に方』を探し求めているか、また、海外とは違い、何故日本が『宗教のタブー』が暗黙化されているのかが、見えてくる。『武士道』の崇高さが、日本人の細胞に、未だ廃れることなく根付いているのである。
『 『約束したんだ』って…!!!ソドムと!!!『後の事はおれに任せろ』って!!!』
男は皆、この人生で、”漢”になりたいと願っている。それを一番証明できる瞬間は、死ぬか否かの瀬戸際であり、”自分の命”という、自分の中で一番大事なものを捧げるほどの大義を見出せた男は、”儚く、虚しい”この人生に、”尊さ”を見出した、”漢”に成るのである。『大義に死ぬべきだ』ということばかりを主張するわけではない。過激派は、どうもそこだけをピックアップしてしまう。
そうではなく、そこに何よりの重点を置くのではなく、それよりも重要なのは、”自分の命”という、至上最強のエゴを守りたいと思う自分の、私利私欲との最後の決闘に挑むか否かという選択を、男は、この人生で問われているのだ。例えば武士道の”7つの神髄”を持ってして、”それ”に打ち克つことができたとしたら、それは、”漢”にとって何よりの名誉であり本望。潔くこの世を、去れるのである。
Vアニメ「ワンピース」15周年記念!15の名場面で綴る感涙PV
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この記事は2009年に書いたものです。とても未熟な時期に書いたものなので、いずれまた修正いたします。またこの記事は運営者のワンピースに対するリスペクトの想いから書いていますが、もしこの画像の著作権が問題になる場合は、画像をすぐに削除いたします。