確かに『知識』は大事です。しかし、ソクラテスが、
といった様に、『知識』を持つ人に『知恵』や『知性』がなければ本末転倒なのです。
ユーザーのことを本当に考えたサイトとは何か
例えば、2017年7月現在、『Web上にあるサイトで、良質なコンテンツとは何か?』というテーマについて、SEOの専門家やクリエーターたちが日々議論をしています。『SONY』と検索したら検索結果の最上位に『アダルト動画』が反映された時代から比べると、googleを筆頭とした検索エンジンは驚くほどの成長を遂げていて、
『検索結果の上位には、よりユーザーのことを考え抜かれた、優れたコンテンツが表示されるべきだ。』
という考え方が常識になりつつあります。一部のクリエーターが、検索結果に表示された記事を集めてキュレーションサイト(寄せ集め記事)を作ったり、嘘八百を並べて文字数だけ稼ぎ、検索エンジンの穴を狙って上位に表示させる、倫理的に問題のある手法を取ったことも原因となり、人々は、以前よりも増して、
『検索結果の上位には、よりユーザーのことを考え抜かれた、優れたコンテンツが表示されるべきだ。』
と考えるようになりました。そんな中、とあるクリエーターがこう言いました。
確かに一理ある話です。往々にして人々は、このインターネットという自由な世界において、ときにあまりにも無責任に自分の言いたいことを言い過ぎる傾向があります。そのような心無いネットユーザーに誹謗中傷されたある女性芸能人が、そのせいで自ら命を絶ってしまった事件があったほどです。
北野武は、著書『テレビじゃ言えない』にて、こう言いました。
時代がWeb1.0からWeb2.0になり、この世には以前にも増して無責任な情報発信者が増えてしまったのです。
テレビやラジオから一方的に情報を受け取っていた時代。
インターネットの普及により、ブログやyoutube等で一般人が気軽に世界に情報を発信できるようになった時代。
ですから、そのクリエーターたちが言うように、『自分の言いたいことではなく、相手の知りたいことを書くべき』という意見は、一見すると的を射ているように見えます。
ユーザーニーズは本当に『満たして』いいのか
しかし、ここで考えなければならない問題があります。例えば、麻薬を手に入れたい人が、『麻薬 通販 購入』と検索したとしましょう。その人の『知りたいこと』は、
『麻薬をネットで購入する方法』
なわけです。では、インターネットの検索結果の上位には、このユーザーのニーズを満たすようなサイトを表示させるべきでしょうか。答えは、Noです。上位に来るべきなのは彼の顕在的なニーズを満たすサイトではなく、潜在的なニーズ。あるいは、パラダイム転換を促すような、警告サイトです。
現在、『麻薬』と打ち込むとその最上位に来るページは以下のページです。
参考
薬物乱用は「ダメ。ゼッタイ。」公益財団法人 麻薬・覚せい剤乱用防止センター
また、『合法ドラッグ』と打ち込むとその最上位に来るページは以下のページです。
参考
危険な薬物は「ダメ。ゼッタイ。」あやしい薬物連絡ネット
しかし、以前は『合法ドラッグ 通販 購入』と打ち込むと、危険ドラッグを買えるサイトが検索結果を独占していました。そのクリエーターの考え方をここに適用すると、
『以前の方が、このユーザーの『知りたい情報』を提供できていた。』
ということになってしまいます。ここまで考えれば、
『検索結果には、クリエーターの言いたいことが書かれたサイトではなく、検索ユーザーの知りたいことを提供しているサイトが上位表示されるべきである。』
という考え方ではまだまだ不完全であるという事実が浮き彫りになってきます。
では、検索結果の上位には一体どのようなサイトが来るべきなのでしょうか。それは、『知りたいこと』ではなく、『知るべきこと』が記載されているサイトです。これであれば、前述した麻薬や危険ドラッグの検索結果の上位にこれらの警告サイトが来るべきである事実にもうなづけます。それらのサイトは、その手のユーザーに『与えるべき情報』であり、彼らが『知るべきこと』だからです。
当サイトがたどり着いた考え方
この様な事実を考えた時、当サイトは下記のような特徴を持つようになりました。つまり運営者である私が、
『そのような歪んだユーザーニーズを満たす専門的な知識は提供できない。例えば、爆弾が作りたい人が欲しい情報とは、爆弾を作る具体的で専門的な情報である。しかし、ネット上にあるべきサイトとは、決して爆弾の作り方を具体的に記載したサイトではなく、むしろその様な考え方を改善させるサイトであるべきだ。』
という考え方を強く持ったことにより、当サイトが、
専門性<考え方
という特徴を持つようになったのです。当サイトの主に『カラダ』にある専門的な記事は、まず徹底的に専門書で知識を学び、それを基本的な軸にして書いています。その際必要となる物事の、
- 是非
- 善悪
- 真偽
を見極める『見識』は、この『Inquiry.』(ココロ)を作り上げたときに磨き上げたものです。つまり当サイトの哲学的考察は、全てこのサイトを通して学んだ見識の上に成り立っています。
なぜ哲学なのか
では、なぜ『哲学』なのでしょうか。白鳥晴彦氏の『哲学は図で考えると面白い』にはこうあります。
哲学はあらゆる学問の水脈
政治を学ぶうえで哲学はどうかかわってくるのか、さっぱりわからないという人がいて不思議ではない。しかし、政治の原理を解き明かしたのは哲学なのだ。プラトンなどは理想的な政治形態として『哲人支配』を提案してもいる。技術的な政治論の根底には哲学的な政治原理が脈々と流れているのである。
法律も同じだ。六法全書や民法などを”記憶”するだけが法律を学ぶことだと考えれば、たしかに哲学は遠くにある。しかし、歴史的に法が国家のなかでどのような意味を持ち、為政者にとって何だったのか、あるいは民衆にとってどんな働きをしたのかといったことは、哲学の領域で学ぶべき事である。
経済ではどうだろう。資本主義というの経済方式のしくみを明らかにしたのは思想家・マルクスだった。価格や剰余価値といったテーマに言及したのも、また、マルクスである。マルクスは経済学者でもあったわけだが、彼の経済学はいうまでもなく、マルクス主義という思想(哲学)体型を基礎にしているのである。
文学と哲学のかかわりについては改めて言う必要もないだろう。人間を描き、社会と人間のかかわりを描き…というぐあいに人間を中心に据えた表現世界である文学は、人間存在とは何か、かかわるとはどういうことか、社会とは何か、心とは、行動とは…といった哲学的な施策を抜きには成立し得ない。
また、理系の学問も深いところでは哲学につながっている。宇宙や自然の原理を探究したタレスも、生物や天体について考えたアリストテレスも、ピタゴラスの定理を発見したピタゴラスも、哲学者であったこと、近代でいえば、現象学を打ち立てた哲学者・フッサールが数学者でもあったことを記せば、その証明には十分だろう。心理学や言語額、文化人類学などとの接点も哲学ははっきりと持っているのである。
こうしてみると、哲学はほかの学問と『関係ない!』どころか、あらゆる学問が哲学の洗礼を受けていることがよくわかる。それは哲学が自然や世界、あるいは社会や人間のおおもとのところにある原理を追い求めるものだからである。