『内容が深遠で、人生にとってこの上なく有益な教訓』の意味。
この記事は、少し難しい話になります。深い話までは必要ないという方は、そこは飛ばして以下の記事へお進みください。飛ばしてもらっても問題ありません。
ちなみに『54の言葉』にあるこの2つの記事は、それだけで『38の黄金律』に匹敵します。
難しい内容なので、簡潔版の記事も用意しました。
プロローグ『黄金律が導き出されるまで』
この話は、70億人、いやこの世で生きる全ての人間に共通する話であり、特定の国家、宗教、思想を持った人間に対する偏ったものではない。
Contents|目次
よく『恩師』という言葉を使って人を慕う人がいるが、私には無縁の話だと思っていた。私は人の言うことを聞くのが大嫌いだからであり、あまり私にものを教える人を(すごい)と思ったことがないからである。しかし、さすが世の中だ。恩師は、いた。
私は17歳の頃とある人物に、
と言われた。それは、『人間が好きで常に観察している人』という意味ではない。私は『無駄な人混み』を嫌うような、自由を愛する人間だからだ。私は、その異名がとても嬉しかった。なんと、私がそれまで17年間生きてきて、私に対してその様な評価をつけたのは、彼だけだった。
家族、教師、友人、それまで生きてきて接してきたはずの人間関係を全て含めても、私がそのように評価されたことは一度も無かった。私は、彼も含めた数人の先生
本来、先に生まれた者という意味。
のことを、『恩師』と呼んでいる。彼らは当時で考えても、剣道の腕前は5段、6段。地元の消防団にも加入していて、フルマラソンなども常に参加するような血気盛んな男たちだ。そして中には、自分の担当の問題児だった生徒の為に悩み抜き、頭の毛がほとんど抜け落ちてしまった先生もいた。それだけまっすぐで、正義感に溢れ、情熱的な、尊敬できる男たちだった。
私は彼らの見ていないところで、彼らのことを『恩師』と呼んでいる。理由は二つある。1つは、私が彼らと別れてから15年、彼らと同じような見識を持った人間に一度も会うことはなかったので、(彼らは恩師だったのか)と、後で気づいたからということ。
そして2つ目は、本当に彼らのことを恩師だと思っているから、わざわざそれを伝えることなく、裏で恩師と言い続けたいのである。それを言って相手にどう思われたいとか、何を言われるかとか、感謝されたいとか、そんなことは微塵も思っていないのだ。純粋に、本当に彼ら恩師に感謝している。彼らは紛れもなく、私の人生の恩師だ。その恩は一生忘れることはない。
実際に私がここで言う『人間ウォッチャー』の名にふさわしいかどうかは定かではない。事実、私の数年前に書いた記事などを見ると、見るに堪えない無様なものばかりだ。それなのに、どうして15年も前の当時、私の見識が鋭かったというのか。しかしそう考えると逆に、その発展途上の荒々しく未熟極まりない中、私のポテンシャルから『可能性』を見極めた彼らは『異常』で、親を含めたその他の全ての人々が『正常』だったのかもしれない。
しかし私は断言する。私はその『異常者』のことを生涯『恩師』と言い続けるだろう。彼らは『本物』だった。世の中には『本物の人間を装っている偽物』がたくさんいるが、彼らは本物だった。『人間ウォッチャー』の私がそう言っているのだ。間違いない。
では、もしその恩師の評価が正しいなら、なぜ私の『物事を見る目』は肥えたのだろうか。例えば、私の身の回りで理不尽なことが頻発、あるいは蔓延していて、
一体この世の何が正しくて、何が間違っているのか
ということについて、全ての常識を疑い、根底から考えざるを得ず、それで『規範意識』が磨かれていったとすればどうだろうか。まるで、貧しい環境を強いられた子供が、その環境の中でたくましく生きていくために免疫力が強くなるように、私にも同じような現象が起きた、と考えるのだ。それでつじつまは一応、合う。
人間にはそれぞれ、様々な事情がある。しかし、人間はその全てを受け容れ、感謝し、この唯一無二の命を生き貫く覚悟を燃やすことで、この『儚い 一生』を『尊い命』へと昇華させるのだ。
私が名言に潜む実力を初めて認識したのは、17歳の頃。今から15年前だ。そして名言を通して内省をする決意をしたのは26歳の頃。今から6年前だ。およそ8,000のこの世にある名言と向き合い内省し、捻出された38の黄金律。最初、私は別にこれを捻出させる予定はなかった。生涯の無宗教を誓う私四聖の言葉も含めたこの世の偉人の名言と向き合うことに人生の限り有る時間を割こうと思ったのは、15年前に名言を通して感じた『違和感』に無意識に導かれたということが1つ、
2つ目は、世界遺産への旅や、富士山登頂等の理由同様、この世に『悔い』を残したくなかったからだ。至極単純に、彼らと対話してから死にたかった。彼らはこの世を生きた同じ人間の中で、人一倍自分の命を燃やした人間だからだ。
そして3つ目は、その恩師たちの存在を知ってしまったからだ。世の中には『本物』がいる。彼らの様な本物の人間を知ってしまった私は、偉人と呼ばれるような人間たちにしか、心底が動かされることはなくなっていた。彼らの言葉は傾聴に値し、有限の自分の時間を割くだけの価値があると確信したのだ。
私はよく『違和感』を感じることがあった。今よりももっと未熟な頃はその違和感の正体がよくわからず、それをそのままにしてしまうことがあった。
基本私は対話をすると言っても、平均して彼らの『30%』ほどしか理解できていない。その理由は4つある。まず1つ目に『私は彼らではない』ということ。なぜ私のこの唯一無二の人生を、誰か『他の人物の調査』に費やさなければならないのか。私には到底理解が出来ないし、するつもりもない。私はこの8300の名言のうち8200を1年間で内省しているが、その様な時間の使い方にも、私の心理背景が浮き彫りになっている。
傾聴に値するのはわかっている。でも、一生を人の調査に費やすのは違うなあ。
ということなのである。もし私が彼ら偉人一人一人に傾倒し、彼らの『全て』に目を向けて追求するようになると、彼らの名言ではなく『発した言葉全て』にも目を向ける必要がある。(このあたりは私の極端な考え方が表れている。)彼らとて、
とか、
とかそういう言葉を発したはずだ。だが、それらの言葉を考えることは無意味である。彼らとて、そんなところをピックアップしてもらいたくはないはずだ。『やめてくれ。それよりも、考え抜いた言葉がある』ということであり、それが『名言』という形に集約されていると私は考えた。だとすると偉人の名言とは、『私のすべてを不必要に過信するのではなく、私の人生から重要な要素を抜き取ってくれ』というメッセージでもあると解釈をすることができるわけで、事実、私はそういう風に解釈することにした。つまり、
どちらにせよその人の30%ぐらいしかかじらないのだから、その中でもより洗練された『名言』だけに注目しよう
と考えたのだ。そもそも『私のすべてを必要以上に評価せよ』と言う人間に、『偉人』などいないわけだから、そういうことも深追いしないことに関係している。従って、中にはネットで見つけた偉人の言葉があり、それが本当に本人が言ったかどうかが定かではないものがあるが、その人の熱烈なファンには悪いが、私はあまりそこを重要視していない。『深追いしていない(30%だけかじればいいと思っている)』からだ。その言葉が捏造されていようが、誤解されていようが、フィクションだろうが何だろうが、私はどの道その人物や言葉を過信することはなく、また差別もしない為、私にはあまり『これが誰の言葉だ』とか、そういうことは関係ないことなのだ。
例えばデール・カーネギーの言葉として有名な『レモンを手に入れたらレモネードを作れ。』は、実は彼ではなく、彼の著書『道は開ける』によると、シアーズ・ローバック社の社長、ジュリアス・ローゼンワルドの言葉だという。だが正直そんなこと私にはどうでもいい。
そもそも、本やネットといった情報源で『正しいもの』とされているものでさえ、言い回しを演出していることがあったり、翻訳の際に違うニュアンスが組み込まれたり等、事実が後で塗り替えられることがあるわけだ。『孫子の兵法』も孫武が書いたかどうかの確証はないし、老子などは存在していたかもわからない。イエス・キリスト、釈迦、ソクラテスとて同じだ。彼らが歴史上存在したことを示す決定的証拠は一つもない。ただ、『背理法(いないと仮定してつじつまが合うかどうか)』によって『おそらくいただろう』とされているだけで、100%の断定はできないわけである。
だが、それでもこうして伝えられている言葉があり、教えがあり、愛がある。それだけで十分じゃないか。私はそういう考え方をする人間だということだ。
それに例えば、本当にその人物の言った言葉と判明したとき、
とその人が言った場合、その言葉は一体『誰の言葉』として認識すればいいのだろうか。そう考えると、言葉と人物の一致の正確性を重視することは『私にとって』時間の無駄だという考えになる。
先ほどのジュリアス・ローゼンワルドがもし『ああその言葉は、僕の祖母が言っていたんだ』と言ったらどうする?そう考えたらキリがない。
ちなみに明石家さんまの有名な名言、
は、彼の師匠である笑福亭松之助との雑談の中で生まれた言葉だと、2016年4月10日の『さんまのまんま』で明かしていた。松之助が、仏教の宗派の一つである『禅』の教えについて説くことが多かったらしく、
という言葉も、この時の雑談の中で発想されたものである。その禅の教えとはおそらく『本来無一物(ほんらいむいちもつ)』だと言えるだろう。だとしたらこの言葉は『ブッダ』が語源ではないだろうか。だが、これからもこの言葉は『明石家さんまの言葉』として伝えられていくだろう。
そう考えたらキリがない。私はただ、純粋に『言葉に秘められているエネルギー』に着目したいと考えたのだ。そういう背景があるから、私は漫画である『ワンピースの名言』なども真剣に考えているわけである。
そもそも『ワンピース』を選んだ理由は、私がこの漫画の名言の力に衝撃を受けたからなのだ。開始から10年、私はこの漫画を真剣に読んだことはなかった。しかし、たまたま暇つぶしで買った単行本の中にあったとある名言に秘められた力に、私は衝撃を与えられたのだ。私の知人に、かつて『でも浮浪者と社長が言う言葉は違うと思う』と言う人間がいたが、その人物は浮浪者と自分の会社の尊敬する人物、あるいは自分の『努力』とを比較して、そこに格差をつけたかったのだろうが、私はそれでも『1+1=2だ』とその両者が言った場合、その両方が同等の扱いを受けなければならないと考えていた。
また、『人類の壮大な命のリレー』を強く意識しているということもある。人は生まれ、しかし必ずいつかは死ぬ。その時に、全ての命が(この世に何を遺せるか)を全身全霊をもって模索し、自分にしか遺せないバトンをこの世に遺した。それはもちろん『新しい生命』だ。だが、その新しい生命が道を踏み外し、世界を震撼させる殺戮者になってしまったらどうだろうか。そう考えると、
『三流は金を遺し、二流は事業を遺し、一流は人を遺す』
という言葉の意味が見えて来る。ここで言う『人』とはつまり、『殺戮者』のことではない。表層だけで中身が伴わないのであれば、『有力者の二世』のことでも『権威ある伝統や肩書の継承者』のことでもない。もしその『浮浪者』が、『自分の全財産を投げ打って人を助けた結果、浮浪者になった』のであればどうだろうか。そう考えると本当に重要なのは、偉人だとか由緒ある何かといったような『象られた表層』ではない。勇気と愛と知性に溢れた、『純潔かつ高潔な可能性』なのだ。
ドイツの理論物理学者、アインシュタインは言った。
もちろんその知人の言い分もアインシュタインの言い分もよくわかる。従って、なるべく有意義かつ有益である可能性が高い『偉人の言葉』にスポットを当てて内省したが、後の細かい事は実はどうでもいいのである。その言葉に強い力さえ秘められているのなら、それでいいのだ。『深追いしない(30%だけかじるだけ)』でも十分『純潔かつ高潔な可能性』に触れることは出来る。
そして2つ目は、言った様に私は無宗教であり、誰か特定の人物を崇拝的に特別視することはないため、一人を徹底的に調べ上げたり、依存するというよりは、より大勢の人の意見を中立的に聞きたかった。それは例えば、仏教徒の祖母や、クリスチャンの両親、そのそれぞれを見てきて、『どちらからも学ぶところはあるし、どちらも絶対的ではない』という事実を知っていたからだ。どちらかというと、私は両親にクリスチャンであることを強要されたから、特定のことを独断的に信じなければならない発想は、真理から逸れている確信があった。冒頭に、
この話は、70億人、いやこの世で生きる全ての人間全員に共通する話であり、特定の国家、宗教、思想を持った人間に対する偏ったものではない。
と記述したのには、こういう私の家庭環境が強く影響している。私の家庭では、常にクリスチャンが正しく、クリスチャンにならなければ肩身が狭い思いをしなければならなかった。今はもう大人だから強い精神力があるが、私は幼少期~少年時代、このことについてどれほど頭を抱えただろうか。
本当にこの偏った考え方は合ってるのか?
誰も信じられなくなって道も逸れるだけ逸れた。そういう環境を経験したからか、私はこれに限らずこの人生において、これ以上追及すると『依存』になる、という手前で一歩退くような人格が形成された。この人格もここに影響を及ぼしているだろう。
3つ目。それは、自分の内省力だけで何らかの答えに辿りつくことに意義を見出していた。だからこの8,000の内省は、ほぼ『名言だけ』を見て、その意味の見解を自力で行っている。そこにあるのは、ある種の挑戦であり、私という命の『意地』でもあった。
4つ目。それは『人生が有限だから』であり、また単に私が『無知で無力』だからである。さも『あえて30%だけを抜き取ったのだ』という風に前述しているが、結局私は『30%しか理解できない』のである。これらの様な背景が、私を『30%対話』の方向へと導いたということだ。
そうして始まった『30%対話』で、この地球を生きた、様々な時代、職種や立場で群を抜く存在だった類稀なる人間たちの言葉と真剣に向き合うと、意外なことに、見て見ぬフリが出来ないいくつかの共通する項目があったのだ。そこで私は悟った。『この確信を得たいが為に彼らの言葉に耳を傾けた』のだという事実を。
私がこれを捻出させることが出来たのは、15年前に名言に対して強い『違和感』を覚えたということ、そしてこのページに書いたように、幼少の頃に『人間の説明書』がない事実に首をかしげた過去があるからだろう。その様な強い想いが『種』となり、この世を生きた偉人たちの研ぎ済まされた『名言という稀代の聖水』によって、その種から芽が出たのだ。つまり、その『違和感』の正体は、かつて渇望した『人間の説明書』のヒントであり、これら『黄金律』の片鱗だったのだ。
『30%対話』。この発想がなければ私はこれらの黄金律を見つけ出すことはできなかった。例えば私の両親のように、聖書一つさえあればそれでいいという『100%聖書依存』の考え方では、絶対にここに辿り着くことはできなかった。それはその両親を間近で見てきた実の子供である私が言っているのだ。間違いない。私は、30%対話を念頭に置いて様々な偉人の言葉と向き合ったからこそ、『見て見ぬフリが出来ないこの世の法則』を見極めることが出来た。そして、30%対話を念頭に置いたからこそ、かつて強要され、そして死ぬほど忌み嫌った『聖書』の教えにも崇高な教えがあるという事実に気づくことが出来た。だが、『論語』にも『仏典』にも崇高な教えがあった。これが決定的な事実だ。
宗教が違う。時代が違う。国家が違う。立場が違う。それなのに、なぜこの世を生きた様々な差異ある偉人たちは、同じ場所に目を向けることになったのか。この、答えも説明書もないはずの人間の人生において、まるで、何かに導かれるように、彼ら彼女らは、それらの答えに辿り着いた。この決定的な事実に、私はまたも、強い『違和感』を覚えた。
この世には人間の目に見えないものがある。例えば宇宙にある物質は、人のカラダをすり抜ける。これが真実である。
例えば、
重要なのは『四聖』も含めた『偉人』ではなく、『偉人が説いた真理』
だと仮定する。すると、私が祖母と両親を見て『どちらからも学ぶところはあるし、どちらも絶対的ではない』と判断するに至った理由にも説明がつくことになる。つまり、答えは『A』でも『B』でもない。『AでもBでもなく、それらが共通して説く真理』が答えだと考えるのだ。
『いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。』の意味。
例えば、Aのグループは、『1+1=2だ』と言った。だが、Bのグループは、『2×1=2だ』と言った。そして、Cのグループは、『3-1=2だ』と言った。
彼らは同じように『2』という答えを導き出したが、その導き出す方法が異なっている。だから、一見するとその流派が異なっていることから、彼らの考え方や思想も同じく異なっているように見えるが、しかし、彼らは『2という答えを導き出す』という目的が一致しているのだ。
正しいのはここで言う『2』という数字。これが『真理』だ。A、B、Cのグループは、その環境や文化の独自性ゆえに、その導き出し方がそれぞれで異なっているだけにすぎない。それならば、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教、道教、その他宗教、そして私の様な無宗教者も含めた、老若男女、古今東西のこの人間の多様性の事実と、それぞれの強い確信的なエネルギーにも納得がいく。
彼らは皆それぞれ、『圧倒的な真理』をその目で見て、確信している。我々はただ、『環境』が違っただけなのだ。高い確率で、私の母がイスラム圏に生まれていれば、つまり自分の身の周りにイスラム教の崇高な教えを説く環境しか存在していなければ、ムスリムになっていた。この事実は、とても興味深い内容である。
『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。
もしあなたが、自分の躾けられた宗教に囚われていると感じているのなら、どうしてそんなことになったのか自問してみる価値がある。答えはふつう、子供時代に何らかの形で受けた教化による、というものである。宗派はともかく、もしあなたが宗教的な人間であれば、あなたは親と同じ宗教を信じている可能性が圧倒的に大きい。もしあなたがアーカンソー州の生まれで、キリスト教が正しくイスラム教は間違っていると考えているのであれば、もしあなたがアフガニスタンに生まれていれば正反対の考え方をすると十分に承知していながらそう考えているのであれば、あなたは子供時代の教化の犠牲者なのだ。もしあなたがアフガニスタン生まれだとしても、キリスト教とイスラム教を入れ換えるだけで、まったく同じことが言えるはずだ。
もし『A』や『B』や『C』といった存在の男の一人が、真理から逸れ、例えば理不尽な強要や、残虐な暴力を働いたとする。すると、その連帯責任として当然彼らと同じそのグループや、そこにいる人間達の価値は低下することにはなる。同じグループなのに『自分たちは模範的だけど、あいつらは間違っている』と批判するだけの排他的な人間の価値は、あまり高くはない印象を受けるはずだ。だが、『説かれている真理』の価値が低下することは無い。ただその男や、そのグループが、真理から逸れた行動を取っただけだからだ。
このことからわかるのは、人間には責任があり、真理には責任がないということなのだ。(これに関しては『7つの習慣』を参照にして書いた、『パラダイム転換とは』の『戦艦の話』を見るとわかりやすいだろう。)だから私は四聖の言葉をまとめたこのページに、
『…私が『違和感』を覚えていたのは信仰そのものではなく、人間だったのだ。』
という言葉を記載したのである。
真理とは、永久不変に、断固としてそこに存在しているものであり、人間は、そこに近づくように合わせに行く使命を背負っている可能性が高く、また、未だにその真理の実態を完全に把握出来ていない可能性が高い。
※ここには更に、極めて重要な内容を付け加える予定である。2018年12月までに記載する。今言えることは、『合わせに行く』という言葉を使うことに意味があるということ、そして『真理』という言葉など単なる『日本語』であるということ、また、その言葉と同じ意味を持った言葉がある可能性が極めて高いということである。
今書けるヒントはこの記事だ。
この続きという記事が、これだ。
そして『四聖(孔子、ソクラテス、ブッダ、キリスト)』 とは、 その真理の実態の把握に、最も近づいた人物である可能性が高い。
他の偉人や、知られていないだけでそういう人はいるはずだが、ここではわかりやすく、代表的な彼らの名前を挙げる。
例えば自分の人生を何よりも真理(Satya)探究という目的のために捧げ、輪廻(生まれ変わり)等の価値観を信じるヒンズー教の指導者ガンジーは、自分の理念をまとめ、初めは『神は真理である』と述べていたが、後になると『真理は神である』という言葉に変えている。(Wikipedia)
つまり、『神が真理である』だと、『(特定の)神様こそが絶対なのだ』ということになるが、『真理は神である』だと、『真理という絶対不変のものがあるのだ』ということになり、そして、その真理の探究に人生を捧げたガンジーは、その生涯で『真理の全て』を突きとめたかどうかは、定かではないのだ。むしろ、その様に心や言葉に変化が見られていることからも、常にそれを模索し、探究していた可能性が高い。
だとすると、傍から見ると首をかしげざるを得ない、『輪廻』や『カースト制度』は、真理かもしれないし、真理かどうかの断定はできないということになる。
またそれであれば、ガンジーほどの偉大な人物が、『真理から逸れた(間違った)考え』を一部持っていたとしても、彼が持っていた『極めて善い一面』の方の価値は、廃れることは無い。その『極めて善い一面』はつまり、『真理』なのである。そしてそうなると当然、イスラム教の『ジ・ハード(聖戦)』の一部の独自解釈にも、同じ説明がつくことになる。
『四聖』とは、孔子、ソクラテス、ブッダ、キリストの四人の聖者のことである。
圧倒的な力を持っている真理。そして人間は、未だにその全容を把握しきれておらず、現在進行中で『模索中』である。それはよく考えればわかるはずだ。なぜ現在の人間が人間の最高到達地点にいると考えるのか。それを考えたら、おのずとその答えは浮き彫りになるはずである。
ではなぜ、2,000年以上も前の人間が、その実態に最も近づくことが出来たのか。その理由は三つだ。まず1つ目は、単に『先に生きていた人』だったから、彼らが『先に到達した人』ということで、『カテゴリーの法則』が働いていて、彼らがその道の権威であるという認識が根付いているということ。
イスラム教の開祖、ムハンマドとガブリエルの話や、キリストが神の生まれ変わりであるという事実は、一時置いておく。
そして2つ目は、『答えは外ではなく、内にある』という事実と、2,000年も前の時代を想像したときに見えて来るはずである。テレビも雑誌も遊園地もない。ネットも電話もゲームもない。そんな、自分の心と向き合う時間が豊富にあった時代だからこそ、その『内』にある答えを見つけやすい環境にあったのだ。だからこそ彼らは、偉大なる答えに辿り着くことが出来た可能性が高い。
しかし、そんな彼らとて、人間の最高到達地点まで辿り着いたかどうかは定かではないのだ。例えば、ガリレオとコペルニクスが『地動説』を説くまでは、キリスト教で信じられていた『天動説』が常識だった。
[画像]
しかし真実は、『地動説』に近かったわけで、
[画像]
更には、地球も太陽も、宇宙の真ん中ではなかったのだ。しかし、この時代の人間は、『天動説を信じていた(間違った事実を、真実だと勘違いしていた)』のである。
それに、そう結論付けた時、現代も含めたそれ以降の混沌とした『それぞれが掲げる真理』の存在につじつまが合うことになる。だがもちろん、同じ時代にあって、そうでない人と彼らとに分かれている事実からも、彼らが人間として極めて偉大な人物であったということは、間違いないのである。そう考えると3つ目の理由は、彼らが『天才(周囲と比べ、人一倍繊細かつ敏感、人一倍の努力家等、群を抜く存在)』だったということになるのだ。
ついこの間まで人間は50億人で、気づけば60億分の1のなんたら、そして65億人がなんたらといって、今ではすでに70億人を超えている。そして2040年には90億人を超えると言われている。ちなみに激増するのは主に中国人とインド人である。
例えば、真理を地球に例えたとしよう。『日本は、極東だ。』と海外の人間は言う。だが、私はその言葉を聞いてもピンと来ない。なぜなら私は、日本を中心にこの世界を見ているからだ。この現象が、各宗教、国家、人種、そして70億人全ての人間に起きているとしたらどうだろうか。
地球は一つだ。だが、それをどの角度から、誰が見るかによって、それがどのようなもので、どのような形をしているかということの意見は割れるのである。ここまで考えた後、もう一度この言葉を見てみるとどうなるだろうか。
『…私が『違和感』を覚えていたのは信仰そのものではなく、人間だったのだ。』
また、マザー・テレサのこの言葉はどう見えてくるだろうか。
しかしこのようにして、とにかく、この世には『何らかの法則』が働いていることは間違いない。その『何らかの法則』を断固として説く者には後光が差し、揺るぎない権威が与えられる。しかしそれは、『彼らが崇高』だからではない。『彼らが説く法則』、つまり『真理』こそが限りなく厳かで揺るぎなく、崇高だからだ。その証拠に、もし彼らがそれ(真理)から逸れたとき、彼らの威厳は失われる。
ここでまとめる『黄金律』は、そのような事実を意識しながら、書き記すものである。もちろん、これらの黄金律もガンジーやその他の偉人同様、『100%の真理』と呼ぶことはできないだろう。まずの大前提で、私が偉人ではないからだ。だが、私はこれを、絶対に自分の子孫に遺すつもりである。それ以上私がこの黄金律に対し、つけられる高い評価があるだろうか。そしてここで言う『子孫』とは当然、私の実の子供や孫だけのことではない。
私はこの限り有る命の日数の間に、これを見出すことが出来て良かった。知恵と勇気を与えてくれた500人の偉人と、17歳のあの頃、私の可能性を正当に評価してくれた恩師達、また逆に、不当に評価し、誤解し、間違ったレッテルを貼った、全ての人々、見えないところで私のことを良く言っている真の友人、この命を授けてくれたたった二人の両親、そしてその両親に命を繋いだ全ての先祖たちに、感謝する。それら全ての存在がなければ、私がここに辿り着くことはなかった。
また、これは私の成長と共に進化する可能性がある。もし私が生きていればいつかまたここに付け加えられるものを付け加える予定である。だが、もしその前に私の命が途絶えることがあれば、命ある友(この世を生きる全ての人々)にこれを受け継いでもらい、人類の資産へと昇華させて頂きたい。この黄金律は必ず『人類の』資産となる。『絶対』と言い切っていい。