直義は尊氏に追われ、鎌倉に入り、敗れて和解する。しかし直義は急死。これが??による『毒殺』ではないかといわれているという。
『観応の擾乱(かんのんのじょうらん)』の結果は、足利尊氏の弟、直義側の勝利だった。しかし実は直義は負けそうになっていて、??に助けを求めていたのだ。
古代から中華は『天子』を中心とする中華王朝が最上の国家体制で、それにどうかしない四方の異民族は、禽獣(きんじゅう)に等しいものとして、『四夷(しい)』と呼ばれていた。 では、日本は中国から見てどこに当たる?
375年、ローマ帝国が混乱の最中、アジア系遊牧民フン人の圧迫を契機に、??の大移動が始まった。
後醍醐天皇は京都を制圧され、吉野に逃げ、そこで『南朝』を開いた。足利尊氏は新天皇を擁立したから、ここに二つの朝廷が存在してしまった。だからこの時代を『??時代』と呼ぶのである。
1318年から、後醍醐天皇(大覚寺統)の時代になった。実はこの頃、北条??の下で御内人の長崎高資(たかすけ)が権力をふるっていて、更には北条??も遊興にふけって政治を放棄していた。 まさに斜陽だ。これは世界的に見ても、転落の兆しである。
鎌倉幕府倒幕の動きに対し、幕府も黙ってはいない。有力御家人の??を京都に派遣し、後醍醐天皇を倒そうとする。 だが、なんとこの??が幕府を裏切り、後醍醐天皇サイドについて鎌倉幕府の西日本の本拠地、『六波羅探題』を攻撃してしまったのである。
かつて醍醐天皇と村上天皇は、摂政・関白を置かずに自らが政治を行う『親政』をしてみせた。 『延喜・天暦の治』と呼ばれた彼らの時代はその後の天皇に一目置かれる時代となった。??は彼らの時代を取り戻したかったのだ。
親鸞らと同時期に、己に厳しい武士が好んだ仏教を教えたのは?
浄土教が流行していた陰には『末法思想』があった。それは一体何?
鎌倉時代と室町時代の間に5年だけあった時代がある。
『弘安の役』でやってきたモンゴル軍の数はどれくらい?
元寇のとき、『風が舟を破る』ほどの暴風雨が来て、蒙古軍は逃げ帰った。『神風』がこの国を守ったのだ! ‥この話は本当?
天皇が皇位を後継者に譲って上皇(太上天皇)となり、政務を天皇に代わり直接行う形態の政治は?
天下の源頼朝の影に、北条政子あり。頼朝の妻だった政子が幽閉した人物は誰?
『霜月騒動(しもつきそうどう)(1285年12月14日)』のキーワードはどれだ!
『観応の擾乱』の後、あろうことか直義側の人間だった??が、京に護送中であった師直を一族もろとも抹殺。これを許せなかった尊氏は、ついに弟、直義と兄弟の縁を切ったといえるほどの兄弟喧嘩をしてしまうのである。
南北朝時代は1336年 – 1392年だが、それは広義で??時代である。
現在の警察に近い組織は1600年頃にできても、鎌倉幕府の1200年頃にも、似たような権限はあった。頼朝が朝廷のもとで御家人を率いて日本の軍事・警察を担当する権限は‥
鎌倉幕府はできた。京の治安維持や朝廷との交渉を行った『京都守護』は『???』へと改称され、これで西日本を統括し、朝廷を監視できるようになった。
南朝側の後醍醐天皇はその抗争の初期段階で死去。また北朝でも仲間割れが起き、事態はこじれていた。かつて、足利尊氏を支えた男たち、 足利直義(ただよし、弟) 高師直(??、腹心) が問題を起こしたのだ。
江戸には南北の町奉行が、諸国には地名を冠した遠国奉行があり、その職員である『与力、同心』といった存在が現在の???に相当する立場となる。
楠木正成や、高師直などが息をした当時、衣服や髪形は身分や職業を表す標識であり、これを自在に変える行為は『???』を意味した。
1333年5月、鎌倉幕府はついに滅亡してしまった。1185年(1192年)から源頼朝が作り上げた東日本の一大勢力は、およそ150年の寿命となったのである。後醍醐天皇を中心としたこの鎌倉幕府倒幕運動は『??』と呼ばれた。
北条時宗は、元寇の対策によって大きく評価された。しかし逆に、それが原因で北条氏得宗家は衰退もしていった。一体なぜ?キーワードは?
鎌倉幕府に逆らった足利尊氏は『??』のような体質で、急に誰も予測できないことをしたらしく、今回の寝返りもその態度の一つでもあった。