人から愛される。理解される。
ローマ帝国の賢者といわれるマルクス・アウレリウスはこう言う。
『私が今日から会おうとしているのは、おしゃべりで利己的で、自己中心的で、
恩知らずの人間どもだ。だが私は別に驚きもせず、困ってもいない。
そんな連中のいない世界など想像できないのだから。』
キリストは、1日に10人のライ病患者をいやしたが、キリストに感謝したのは
ただひとりだけだった。
世界一の信者がいる、あのキリストでさえ、その程度の感謝しかされない。
人は、ひとりの人間の生命を救ったとしたら、自分が感謝されて当然だと思う
ことが多い。
ところが、有名な刑事弁護士を経て判事となったサミュエル・レイボウィッツは、
79人の人々を電気椅子から救った。
しかし、誰一人その後の人生で感謝の気持ちを彼に表すことはなかった。
この世で愛される唯一の方法は、自分から愛を要求しないことであり、
返礼を期待せずに愛情を振りまき始めることだ。
俺はF型として、俺の周りに何年も、見返りをほぼ期待せずに貢献してきた。
それというのも、恩師から学んだ本当の仲間、本当の人間関係の在り方
というものを、本当に壮絶な思いをし、学んでいるからだ。
それについては、とても一言では表せない。また別の日に、書くつもりだ。
例えばある仲間に対しては、居場所のなかった自分の家族の代わりに、
本当の家族のように思っていたことから、どんなに突き放されようと、
蹴落とされようと、妬まれようと、嫉まれようと、くじけずに向き合ってきた。
そんな生活が5年か6年たった頃、俺は確かにその仲間の中の中心に
居させてもらっていた。
俺は支配者のように、皆を力づくで言うことをきかせていたわけではなかった。
そのまま、俺は『縁の下の力持ち』に徹して生きていく選択肢もあった。
だが、俺はその仲間に“求めてしまった”。
何もしていない人間が対等に扱われて思い上がり、いい気分に浸っていた
仲間に対して、『勘違いをするな。お前は何もしてないじゃないか。』という
邪心でいっぱいになってしまった。
仲間に対し、そう思ってしまった自分の未熟さは、申し訳がないと思っている。
だが、それだけ、仲間ひとりひとりに対しての不満や要求が、
積み重なってしまっていたのだ。
あのままその集団にいたら、現状維持される、皆にとって都合のいい、
『ピエロ』で終わってしまう確信があった。
俺は、仲間の”頭”に訴えかける『本』を書き、”心”に訴えかける『CD』を渡した。
そして、『正当に扱ってくれないんだったら』と、仲間との距離を置いた。
約10年、ずーっと誕生会や旅行、年末年始も一緒だった家族のような仲間と、
とうとう距離を置いたのだ。
それは、俺にとって大きな決断だった。
俺は、仲間に何を求めていたのだろうか。
感謝?
愛?
真実の理解?
とにかく、俺が求めてしまったから、仲間との距離は空いたんだ。
『それまで通り求めなかったら、尽くしていたら、』今も関係は続いていただろう。
仲間は混乱していた。
どうすればいいかわからない人や、
対立する勇気がなく、同調したり、泣き寝入りする人もいた。
また、『お前と皆は、温度差があるんだよ』と言う人もいた。
つい先日までアウトロー界を騒がせていた格闘技イベントで、認知度が更に
上がったあるアウトロー界のカリスマで、つい先日も選挙活動をしていた男性と
話をする機会があり、
『君は、僕と全く同じことをしている。僕も皆のために、本を書いたんだ。』
と言っていたが、その彼も、周りに理解者が少ないことに、頭を悩ませていた。
熱すぎる心を持った人間と、そうでない人間が温度差を感じるのは、
宿命なのだ。
とにかく、混乱していた。いや、一生懸命、悩んでくれたと言うべきか。
みんな本当は、仲間と一緒に今まで通り生きていきたいと思っていたのだろうか。
それとも心のどこかで、『ピーターパンシンドローム』にかかっている自分たちに、
後ろめたさのようななものを感じていたのだろうか。
中心に居て、全体を見回すと、悪いところをたくさん見てしまう。
ある仲間が、俺の代わりに仲間一人一人と食事をした。
だが、案の定彼は言った。
『みんなの意見が本当にバラバラだった。どうしてこんなバラバラな人たちが、
今までまとまっていたのか不思議だ。』
全体を見ないと、見えない部分、いや、見たくない現実が、見えてしまう。
俺は、それを何年も見続け、それでも尽くしてきた。
皆のことを、家族のように、思いたかったから。
家族の代わりに、思っていたから、出来たことだった。
しかし、『家族は、俺にこんなことはしない。』という気持ちが、とうとう、
いっぱいになってしまったのだ。
俺は仲間のことを、それ以上嫌いになりたくなかった。
C型が偉そうで、自己中心的だと思う人は、その浅はかさを戒めるべきだ。
F型からC型に変わった人間が心底に抱えている心情を知った時、
その動機に驚愕し、まともに立っていられないだろう。
俺は仲間のことをいつまでも『大好き』でいたかった。
そして、『依存』はするつもりはなかった。
実は、俺もかつては、ある自分にとって重要な存在に、依存して生きていた
時期があった。
何をするにも、その存在と一緒じゃなければ気が済まなかった。
しかしある日、その相手が理不尽を起こし、自分本位な人間になり下がった
のだ。当然、お互い若かった。俺にも原因があったことは否めない。
しかしその時の精神的ショックは、その日から一生頭から焼きついて離れない。
きっと、俺の自己防衛本能が、
『依存して生きていると、こうなった時に危険だ』
と思い知り、何かに依存することがなくなったのだろう。
しかし、今ではそのことに感謝の気持ちすら覚えている。
なぜなら、そのおかげで俺は、何物にも依存しない、強い人間になれたからだ。
俺には今、自分の人生を預け、俺を本気で信じてくれようとしている、社員がいる。
『あらゆる選択肢』がある人生の中で、俺と共に生きることを選んでくれたのだ。
毎日が試練の連続で、お互いに未熟者だから、衝突のない日のほうが少ない。
だが俺は、そういう人間にこそ全身全霊を注ぎ、本気で尽くしていくべき価値が
あると思っているからこそ、衝突するのだ。
その社員でさえ、入社して数カ月後、俺にこう言った。
『(10年以上の付き合いだが)、私はあなたのことを10%しか理解してなかった。』
電話をしなければいい、折り返さなければいい、メールを返さなければいい、
手紙を出さなければいい、直接会おうと働きかけなければいい、
熱苦しく、まっすぐすぎる俺から逃げる手段は、たくさん用意されている。
しかし、それでも俺と向き合い、自分と向き合い、真剣に人生を考えてくれる
人間がいる。
そういう人間が、俺にとっての『理解者』なのだ。
考え方が違う人間同士は、一緒には生きられない。
国でも、スポーツでも、政治でも宗教でもそうだ。
何処を見まわしても、考え方が同じ人間同士がくっついて生きている。
それが、人間だ。
そして、人間は弱い。儚くて、脆い。必ず、過ちを犯す。
俺が依存していた人だって、親だって、仲間だって、社員だって、そして、
自分自身だって、一生未熟な、人間だ。
大きな愛をもって、その罪を許し、支えあい、生きていかなければならない。
愛することができなければ、愛されることは、ないのだ。
これからも、幾多の出会い、別れ、試練、そして決断の時が訪れるだろう。
しかし、たとえこの先どんなことがあろうと、後悔をしない『英断』ができるように、
強く、そして、大きな愛を持って、優しく、生きていきたい。
まだまだ俺は、旅の途中だ。俺の予想では、人生の半分も、終わっていない。
今までの波乱万丈な半生を何一つ無駄にすることなく、糧にし、経験を活かし、
これからの人生で、もっともっと愛にあふれ、器の大きな人間になれるように、
日々努力していこう。
どんな障害にも負けてたまるか。俺の人生は、まだまだこれからだ。
『“力”に屈したら男に生まれた意味がねえだろう?
俺は決して人生に悔いは残さない。』
by:一瀬雄治 (Yuji Ichise)
サルベージエンタープライズ株式会社代表取締役社長。
1983年、東京都生まれ。