なぜユダヤ人はいつでもどこかと問題を起こしているの?わかりやすく簡潔に教えて!
『信念は、推進力としては役に立つが、調整器としては役に立たない。』ということですね。
我々の神はヤハウェだけだ!
かつてローマ帝国が作られたとき、ユダヤ人たちは、『ローマ皇帝も神とする』という話を受け、それを断固としてこう拒絶しました。この忠誠心は素晴らしいことです。まさしく信念ですね。それゆえ、世界にいるユダヤ人は『Google』、『Facebook』の創始者等、とてつもない結果を出した人がたくさんいます。
しかし、その推進力ゆえにユダヤ人は故郷イスラエルから、永遠に追放されてしまいました。ユダヤ人というのは信仰心が強く、信念があるから推進力を持っています。しかし逆に、それが原因となって常に迫害を受け、あるいは対立してきたのです。
Contents|目次
上記の記事の続きだ。下の方の記事に書いたように、ローマ帝国は最終的にはキリスト教を国教とするのだが、その過程で一度、『宗教の自由』を用意し、『ローマ皇帝も神とする』という決まりを作った。しかし、自由な宗教観によって帝国がまとまらないので、最終的にはキリスト教で一つにまとめたわけだ。そしてユダヤ人たちは、『ローマ皇帝も神とする』という話があったとき、それを断固として拒絶した。
そしてユダヤ人は故郷イスラエルから、永遠に追放されてしまうのである。ユダヤ人というのは信仰心が強く、それが原因となって常に迫害を受け、あるいは対立してきた。
アッシリア・バビロニアにあった神話については以下の記事に書いた。
ちなみにこの紀元前600~400年頃の時代、世界に目を向けるとこのような傾向があった。
彼らが倫理と道徳の尺度を設けたのは同時代だった。この理由は、世界的に農耕社会が定着し、古代国家時代に移る過程で、より強力な精神体系を必要とした人間の動きが関係している。
ユダヤ人迫害と対立の原因
バビロン侵略 | 単なる隣国バビロニア、アッシリアの侵略 |
ローマ征服 | ローマ帝国国教キリスト教の否定、イエス殺害の報復 |
ナチスの大虐殺 | ナチスのユダヤ人への敵視(様々な理由がある) |
アラブ連盟との戦い | イスラエルを巡っての故郷争い |
今回の記事のテーマは『なぜユダヤ人はいつでもどこかと問題を起こしているのか?』ということだ。これを、『なぜユダヤ人は迫害を受けてしまったのか』とか、『なぜいつも誤解され続けてきたのか』というタイトルにしないことには理由がある。
いくつかの参考文献を見てみよう。9.11を経て、宗教についての疑問を爆発させた、『利己的な遺伝子』で有名なリチャード・ドーキンスの著書『神は妄想である』にはこうある。
三つのアブラハム宗教のうちでもっとも古く、他の二つの祖先と言って間違いないのがユダヤ教である。もともとは、猛烈に不愉快な一つの神をもつ一部族のカルトにすぎなかった。この神は、性的規制、焼けこげた肉のにおい、他の神々に対する自らの優越、そして、選ばれた砂漠の民の排他的権利というものに病的にとりつかれていた。ローマ人がパレスティナを占領してた機関に、タルソスのパウロによって、ユダヤ教のそれほど無慈悲ではない一神教的宗派としてキリスト教が興されたが、これは排他性も薄く、ユダヤ人の外の世界に目を向けたものだった。
『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうある。
イエスのジレンマは、ユダヤ教の枠内で考えながらユダヤ教の既存のシステムを否定したことです。たとえば、イエスが根拠にしているのは、やはり旧約のさまあまなテキストで、そこから読み取れる神の意思です。神の真意に照らせば、人為的な取り決めや制度などは、神と人間との直接の交流を阻んでいる。そうすると、イエス自身はなぜ神の真意を知ることが出来るのかが問題になります。
『四人の教師』にはこうある。
ユダヤの神は戒律の遵守を要求する厳しい神です。それに反すると容赦のない罰を与えます。イエスが信じる神は愛に満ちています。優しいのです。イエスの神がユダヤの神と決定的に違うのはこの点です。伝統的ユダヤ教はイエスを異端としました。
『面白いほどよくわかる聖書のすべて』にはこうある。
神の奴隷となったユダヤ人の前に、紀元前後、イエスが現われて神の言葉を伝えます。律法に縛られて神の奴隷にならなくてもよい、神はあまねく広く人間を愛してくれている、律法に縛られることはない、というものです。つまりイエスは『自由』ということを謳いました。
(中略)『旧約聖書』のなかにあるように、人は神との契約で律法を守ることになりました。ところが、その律法さえ守ればあとは何をやってもいいのだ、という考え方にしだいになってきます。ある意味ではマニュアル人間、管理された人間になってしまう。そのような時代のなかで、イエスは自由な生き方を主張しました。これは保守的なユダヤ教徒にいわせると、由々しき問題でした。
その当時は、ただひたすら決まりを守っていれば、あとは何をしてもよかった。金、金、金と追い求めてもよかった。また、律法さえ守っていれば、必ずご褒美を貰えたのです。お金持ちになれたのです。律法に逆らわなければ病気にもおかされない。そのような時代に、そのような考え方をする人々に向かい、自由になりなさいとイエスは言いました。『幸いなるかな貧しいもの』と説いたからです。
それまでは、まず最初に契約に忠実であることが求められていました。これに対し、神のほうから先に愛してくれるーはじめに愛があるのがイエスの出発点です。そういう意味では、あまねく慈悲をかける仏教の出発点もここにあると見られます。(中略)イエスは、ユダヤ人だけでなく、敵であり、外国人であるサマリア人を含むすべての人々、つまり人種や宗教を超えたすべての人々が隣人であるとしている。イエスの教えが後に全世界に広がるのは、ユダヤ人だけが救われるというユダヤの常識と訣別していた点にある。頑迷に隣人を限定するものではないとイエスは指摘しているのだ。
『ソクラテス・イエス・ブッダ 三賢人の言葉、そして生涯』にはこうある
イエスは律法主義者が、硬直した考え方であり、理不尽で無味乾燥だと感じていた。愛(アガペ)、すなわち神の愛のような最も大事な次元のことが、ないがしろにされ、忘れられているというのに、古代人が決めた規則をやみくもに適用することが、何の役に立つのか?愛のない律法に何の意味もない。律法こそ、元来、愛とは何かを教えるために作られたのだ。イエスは、神から授かりモーセが伝えた十戒に、あらためて真の意味を与えようとし、律法学者にありがちな偏狭な捉え方を批判した。
以上の文献からもわかるように、ユダヤ人というのは『なかなかの問題集団』だった。律法さえ守っていれば後は何をしてもいいという、傲慢な考え方を持っていたのである。そして、そこに登場するのがイエスだ。イエスは『現存するユダヤ教の教えよりも、もっと優れた教えを広めるべきだ』という使命感を燃やしたのである。しかし、そんなイエスを殺した。それもユダヤ人だった。
もちろんユダヤ人というのは賢い。
彼らは皆ユダヤ人である。世界で一番ノーベル賞を受賞しているのもユダヤ人である。
アインシュタインもユダヤ人だと言う人がいるが、彼の親がユダヤ人だっただけで、彼自身は無宗教だった。したがって、葬式も無宗教の信念に従って、たったの12人で行い、牧師の説教もなく、花や音楽も控えられた。
そして、すべての民族に言えるように、悪い人間というのはどこにでもいて、しかし、そういう人がいるからといって、その人が属する民族や国家のすべてが同じように悪い人間ということにはならない。しかし、アインシュタインがこう言ったように、
彼らにある『唯一神への絶対的な信念』というのは、推進力にはなっても調整力にはならない。イエスをユダヤ人の王(救世主)だと認めなかったように、ローマで国を追われたように、その根幹にあるのはいつでも彼らの『唯一神への絶対的な信念』なのである。
しかし我々が認めるべきなのは、『ユダヤ人には調整力はなくても、推進力はある』という事実だ。それは先ほど挙げたような人物の例を考えればわかることである。人には一長一短がある。傲岸不遜で人から嫌われるような人が、戦争では圧倒的な強さを発揮することもある。また、『職業としてはプロだが、夫としてはクズだ』と言われる人もいる。そういう事実を理解したいのである。
まずはここまでだ。バビロンとローマとの問題は書いたので、次はナチスとアラブ連盟との戦いについての背景を見てみよう。もちろんここに出てきた話は『ユダヤ人全員に当てはまる』話ではないという柔軟性を持って考えなければならない。つまり、ユダヤ人の中には、推進力も調整力もある柔軟な人だっているということだ。
次の記事
該当する年表
参考文献