いくつか質問があるんだけど、わかりやすく簡潔に教えて!
1.ムハンマドです。
2.真のイスラム教徒は攻撃的ではありません。
ムハンマドはイエスと同様、自分の教えを広めようとし、迫害を受けました。
ムハンマドの思想を良く思わないグループが襲撃します。それにはユダヤ教徒やキリスト教徒もいました。その時彼は『宗教にも軍事力がいる』と考えました。そうしなければ自分たちが殺されるからです。『正当防衛』の考え方で、彼は軍を設立します。そして攻撃してきたユダヤ教徒やキリスト教徒を『敵』だと定めるようになります。ユダヤ教の安息日は『土曜日』、キリスト教の安息日は『日曜日』。だからイスラム教は『金曜日』を安息日とすることにしました。
イエスとムハンマドの違いは、『反撃』をしたかしなかったかということです。イエスはせずに十字架刑を受け入れ、ムハンマドは自分の教えを広める使命と、理不尽な攻撃に対抗するために戦うことにしました。ムハンマドのこの考え方は、後の一部のムスリムの過激な思想の種になってしまいます。本来、イスラム教とはすばらしい教えのはずなのに、その一部の過激派によってイスラム教全体のイメージが悪くなっているのが現状です。
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上記の記事の続きだ。このようにしてイスラム教はユダヤ教とキリスト教と分離した。紀元前6世紀ごろにムハンマド(マホメット)によって確立されていく。ムハンマドは570年にメッカの金持ちの家で生まれた。そして富裕な未亡人ハディージャの下で働き、その後彼女と結婚し、2人の間に6~7人の女の子が生まれた。しかし、彼女らは幼くして亡くなった。ムハンマドには10人以上の夫人がいて、2人の妾もいた。しかし、誰と交わっても男の子は生まれなかった。
40歳を過ぎたムハンマドは、瞑想にふけるようになる。そしてある時、天使ガブリエルの啓示を受け、こう言われる。
そしてその教えをまとめた。それでできたのがイスラム教の聖典『クルアーン(コーラン)』である。ムハンマドはそれを持って世に唯一神の信仰を教えようとしたが、当時の人々はそれを受け入れなかった。
このようにして、ムハンマドもやはりイエスやルターらと同じように、嫌われたり、迫害されることになる。すでに蔓延しているものを壊し、新しい考え方を導入するときは、必ず人々の反発に遭うのである。そしてこのような目に遭ったことから、徐々にムハンマドの考え方にある発想が思い浮かぶようになる。
世を正そうとしているだけなのに、なぜこんな目に遭うのだ…
そしてその不満と憤りは、それから3年後の625年に沸点を迎えるようになる。
ユダヤ教の安息日は『土曜日』、キリスト教の安息日は『日曜日』。だからイスラム教は『金曜日』を安息日とすることにした。
このようにしてムハンマドは、ただ単に預言者として穏便に立ち振る舞うのではなく、武力行使も織り交ぜて、イスラム教を浸透させていった。しかし、ムハンマドを攻撃的にさせたのは、彼を攻撃したユダヤ教やキリスト教を含めた、その他の信仰者だった。
彼らが先にやってきたのだ!抗わなければ、自分が死んでいたのだ!
現在、日本の法律にも『正当防衛』というものが認められている。こういう話がある。
今からおよそ350年前、明暦元年(1655年)に、幕府が公布した『江戸市中法度』によれば、不倫は男女同罪とされ、夫は、密通した間男をその場で殺してもよいと定められていた。じっさい、妻を寝取られた武士が現場を押さえた場合は、即座にその不倫相手を斬り殺すことも許されていたのだ。さらに、寛保2年(1742年)の『公家方御定書』でも、不倫した妻と相手の間男は死罪とされた。男は裸馬に乗せられて市中を引き回しのうえ、斬首した首を刑場で三日間さらす獄門。女は斬首の刑に処されることになった。当時の川柳にも「枯れ木の枝と間男は登りかけたら命がけ」と詠まれている。
更に、wikipediaには『敵討ち』という項目でこう記されている。
『日本書紀』巻十四雄略紀には、456年(安康天皇3年)に起きた「眉輪王の変」の記事があり、これが史料に残る最古の敵討事件とされる。眉輪王の義理の父にあたる安康天皇はかつて眉輪王の父である大草香皇子を殺し、母である中磯皇女を自らの妃とした。安康天皇はある日ふとその事を漏らし、それを聞いた眉輪王は安康天皇が熟睡しているところを刺し殺した。事件後、その動機を追及された眉輪王は「臣元不求天位、唯報父仇而已」(私は皇位を狙ったのではない、ただ父の仇に報いただけだ)と答えている。
その後仇討ちは武士階級の台頭以来広く見られるようになるが、江戸幕府によって法制化されるに至ってその形式が完成された。範囲は父母や兄等尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。又中世の血族意識から起こった風俗であるので、主君のように血縁関係のない者について行われることは少なかった。武士身分の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。無許可の敵討の例もあったが、現地の役人が調査し、敵討であると認められなければ殺人として罰せられた。また、敵討をした相手に対して復讐をする重敵討は禁止されていた。
この日本においても、『不倫相手を切り殺す』とか、『敵討ち』が認められていた時代があった。確かに、抵抗しなければ殺される。自分がやらなければ正義は遂行されない。そのような状況は常に存在していて、人々はそれについて悩まされつづけてきた。私は彼の気持ちがよく理解できる。
また、それから400年後、キリスト教の十字軍は、エルサレムにいるユダヤ人も攻撃することになる。しかし、それを阻止したのがイスラムの英雄サラディンである。
やはり聖戦というものは、『正当防衛』に近いような考え方で生まれたのだろうか。だとしたらそれは、攻撃された動物が、その動物を攻撃し返して自分の命を守るように、至極当たり前のように思える。
だが、だからといって『無辜な命』まで奪うテロは許されない。そして、イエスは彼と同じような目に遭い、反撃しなかった。そしてユダヤ人たちのなすがままにされ、十字架刑に処された。
武力行使をしたムハンマド。なすがままに世を去ったイエス。私は男だからムハンマドの気持ちがよくわかるが、イエスのように、無抵抗に死んでいく人間の尊さもよくわかる。
もし、これがイスラム教に『聖戦』の考え方が生まれた理由なんだとしたら、それは人間の心に闇があったからだ。そして、その闇は『すべての人』にあった。しかし、聖戦というのは本来、『内的な戦い』の意味もあるらしい。私はその戦いのことだったら、聖戦という考え方はとても素晴らしいものだと確信する。
どちらにせよ、両者は『真理』から逸れてしまったと言っていいだろう。その根拠は以下の記事から来ている。
だが、私は当時の人間ではない。戦国時代も経験していない。こんな平和ボケした戦争も知らない人間が、武力行使なしに平和解決をするべきだと考えるのは、無知もいいところだろう。しかし、たとえ私が無知であっても、『真理』というものはいかなる場合であっても、人間同士の争いを認めないはずである。
『一部のイスラム教』が攻撃的になった理由は、かつてムハンマドが虐げられた過去があるからだ。そして、その『反撃と自己防衛』を独自的に解釈した、後年の一部のイスラム教徒たちがいるからだ。つまり、この世のすべての争いごとは、神の仕業ではない。『人間』の仕業なのだ。
『世界がわかる宗教社会学入門』にはこうある。
宗教には、テロリズムのイメージがある。宗教とテロは関係性が強いのか。これはもちろん誤解で、実際はテロリストが宗教を口実にしているだけ。
そして、ニーチェは言った。
ちなみに映画『エクソダス:神と王』では、ユダヤ教の創始者モーセが、どのようにしてが十戒を作るに至ったかということを描いた映画だ。
そして、エジプト人からユダヤ人たちを救うために、やはり『武力行使』をしている。そして、ここで描かれる『神』も、
と言って、それを正当化するシーンがある。抗うために、人は時に暴力をふるう。それは、最初に暴力があったからだ。
果たして人は、その負の連鎖を断ち切るために『暴力』を行使するべきか、それとも、『非暴力』を貫くべきか。
マキャベリは言った。
しかし私はこれらすべてを踏まえたうえで、以下の記事を結論としてまとめるべきだと確信する。これに関しては、ニーチェの言う通りなのだ。そして間違ってはならないのは、ムスリムのほとんどは、非暴力と平和を訴えているのである。
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参考文献