プラトンは何をした人?わかりやすく簡潔に教えて!
師であるソクラテスの説いた『真理』について、独自の形で答えを出してまとめた人です。
ソクラテスの説いた『真理』を、プラトンは『イデア』と呼びました。
ソクラテスは『この世には真理がある』と言い、最期までそれに忠誠を誓う姿勢を貫きました。彼を尊敬していたプラトンは、師が忠誠を誓ったその『真理』の実態の解明に力を注ぎました。そして『イデア』という言葉を使ってそれを表現しました。日本人じゃないからそういう言葉を使っただけです。そこに気を取られる必要はありません。例えば花を見たときに、
枯れていて綺麗じゃないな
と思ったなら、そこには『どんな姿かたちが奇麗なのか』という美しさの『基準(モデル)』や『大元』があるということです。プラトンの言うイデアとは、その『大元』のことです。これを善悪に当てはめて考えると、『人がどうやって生きるべきか』という道筋が見えてきます。イデアという基準に従って生きているか、それとも逸れて人を騙したり、攻撃したりして、粗末な生き方をしてしまっているか。イデアは、『人がどうやって生きるべきか』ということを応援してくれる道しるべとなるのです。こと『生き方』で考えるなら、『理想の生き方、生き方のモデル』のようなものがイデアですね。
プラトンは、師であるソクラテスが徹底して追求した『無知の知』を土台にして、その上で、このイデアにたどり着くように説いたのです。無知の知がない人が言うイデアは、歪んでいる可能性が高いですからね。このあたりは、ソクラテスの記事と合わせて読むことで理解が深まります。
Contents|目次
上記の記事の続きだ。このようにしてソクラテスはソフィストたちが荒らしたアテネの人々の思想に影響を与えた。次は彼の弟子、プラトンの話だ。ソクラテスは本を一冊も残していないので、プラトン等の著書に頼るしかなく、一部ソクラテスを『美化しすぎだ』という話もある。だが、どちらにせよソクラテスは古代ギリシャ哲学者で最も有名な哲学者だ。それは冒頭の記事に書いた通りである。
だが、実はソクラテスというのは徹底的に『無知の知』を説いた男だった。彼自身が『無知の知』と言ったわけではないが、『自分が何も知らないということを知っている 』ということが、人が真の知識を得ていくために必要不可欠なのだと知っていたのだ。
自分は何も知らない、ということを知っている知識。
そこには、ソフィストたちの傲岸不遜な考え方が蔓延していたため、それはある種当然かもしれない。だが、ソクラテスはそれに徹していたので、むしろ『それ以上のこと』はしなかった。つまり質問を投げかけても、
ととぼけるだけだったのだ。例えば前回の記事に書いたような、こと。ある日ソクラテスは、自分が知者だと言い張る人間に、 『善とは何か』と問いただした。
すると、男は笑いながら言った。
それについてソクラテスはこう言ったのだ。
これはこの本に書かれている内容だが、これは『超訳』だと説明している。ソクラテスがこう言ったかどうかはわからないわけだ。だが、彼ならこう言った可能性はとても高い。また、どちらにせよこの発言においてもわかるが、ソクラテスはこのやりとりで善と悪が何であるかを断言はしていない。投げかけているだけである。そう考えたとき、ソクラテスが弟子やその他の哲学者たちに与えた印象は、『疑問を残した人』となる。
確かに彼の言う通り、あの問いの答えは出てないぞ…
このような形で哲学するべきテーマを残された弟子たちは、こぞってその答えが何であるかを考えたわけである。そこで登場するのがプラトンとアリストテレスだ。この二人は、ソクラテスが作った哲学の基礎・土台の上に、大きな二つの大黒柱を建てた。つまり、古代ギリシャ哲学というものは、
の3人が協力して作り上げたと言っていいだろう。
[プラトン]
もちろん、彼らに潜在的に影響を与えた先人たちはいた。彼らと一緒に作り上げたと言っても問題はないだろう。
『ソクラテス・イエス・ブッダ―三賢人の言葉、そして生涯
ソクラテスとプラトンとの出会いがいつの頃であったかははっきりしないが、プラトンはおよそ20歳の若者で、ソクラテスは60歳を超えていた。ソクラテスに魅了されたプラトンは、少なくとも8年間は師事し、その著作の大半はソクラテスの考えや行動を主題としている。そのために今となっては、どこまでがソクラテスの教えで、どこからがプラトン自身の思想であるかを判別することは難しい。
ソクラテスの一番弟子の立ち位置にいるのはプラトンで、この二人の年齢差は40歳以上あったと考えられる。まるで『父親と息子』の年齢だ。 しかも40歳を過ぎて出来た子供。かなり年齢は離れていると言っていい。プラトンからすれば『先生』の名に相応しい存在だっただろう。
意味は本来『先に生まれた』者という意味。
プラトンは『民主政治』に嫌気がさしていた。それは、
このような実態が影響していた。これでは民主政治というよりも『数の暴力』。後者の例から見られるのは『烏合の衆』であり、何の役にも立たない。まとまっているようで、本当にまとまるべきところでは何のまとまりも見せず、物おじして身動きが取れない。こういうことになるなら民主政治など必要ないと考えた。
ソクラテスは言った。
これが超訳なのか実際の言葉かはわからないが、確かにソクラテスは『真理』についての忠誠心が強い人間だった。だからこそ冒頭の記事に書いたような死を迎えることになったのだ。この『真理』という言葉の意味は『いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理』だ。例えば、
人は死ぬ
は真理であり、
死後は無である
は真理ではない。死後の世界のことはわからないからだ。断言できないのである。だが、前者は断言できる。未だかつて人間の歴史で、不老不死として生きた者は一人も存在しないからである。
プラトンはこのソクラテスが『真理』と呼んだ概念を『イデア』と呼んだ。イデアと言えば、プラトンである。例えば花を見て、
綺麗だ(美しい)
と感じる。だが、花が枯れると、
枯れちゃってるな(美しくないな、哀しいな)
と感じる。ということは、元々その人は『美しいものがなんであるか』という基準を持っているわけだ。そして、花の状態がその条件に一致すると『美しい』と思い、条件を満たさなくなると『美しくない』と感じる。その時の基準となっている概念のことを、『イデア』と呼ぶわけである。
プラトンが主張した理論はこうだ。
認識論 | 考え、意識の状態 |
存在論 | 感じ、認識する対象の状態 |
先ほどの花の例で言えばこうなる。
花を見た人 | 認識論 |
花の状態 | 存在論 |
存在しているものを認識し、評価する人がいる。花がきれいだとか、きれいじゃないとか。しかし、人間には『枯れている花の方が美しい』と考える人もいるわけだ。そもそも『花は咲いている状態以外は美しくない』と考える人の発想は、正しいのか。そこに首をかしげる人もいるだろう。
遠藤周作は言った。
誰もが見て綺麗なものを『綺麗だ』と流されて考えるのは、主体性がない。ただ意見に流されているだけだ。そこにあるのは、
といった、その人が元々持っている『歪んだ性質』である。
アガサ・クリスティはこう皮肉を言ったが、
真理を突いているのは遠藤周作の言葉や、オードリー・ヘプバーンのこの言葉である。
しかし、遠藤周作やヘプバーンの境地に達するには『知性』がいる。知性を得るには『知識』がいる。例えば、見た目だけ整っている詐欺師がいるとしよう。彼、彼女は存在として『美しい』だろうか。違うなら、『美=見た目』ではないということになるわけだ。そのように知識を得ていくと、遠藤周作やヘプバーンの境地に達することができる。そしてそこに自然とあるのは『知性』ということになる。
あの人は、何が美で、そうじゃないかを知っている、頭のいい人だなあ
そういう人に垣間見えるのは、知性である。
ピタゴラスが主張した『形相(けいそう)』というのは、後にプラトンが『イデア』と呼ぶ概念である。ちなみに私はこれらを『真理』と呼んでいる。ピタゴラスは、物事の根幹には、この形相があると言ったわけだ。
いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。
『△』。これを拡大すると、線の部分は幅が広くなり、『面』となる。そうするとそれはもはや三角形ではなくなるわけだ。違う形になる。三角形っぽい形のものだ。しかし、人は三角形を思い描ける。その理由は、真の三角形の『形相』があるからだと、ピタゴラスは主張した。
…私はそこに『真理』と呼んでいると言ったが、どうやらそれはソクラテスと同意見だったようだ。ソクラテスもピタゴラスの言う『形相』を、真理と呼んでいた。そしてプラトンはそれを『イデア』と呼んだということだ。
それぞれの『それ』の呼び名
ピタゴラス | 形相 |
ソクラテス | 真理 |
プラトン | イデア |
ここで言う『それ』とは、今回はプラトンの記事だから『イデア』と呼ぶが、イデアは先ほどの例で言えば、『どういうものが美しいのか』という『基準』のことだ。ただ、花が咲いているか、いないか、ということを基準にするのか。それとも、花が咲き、枯れていくそのすべての過程が美しいと感じるのか。それは人それぞれ違うが、その各人の美しさの価値の基準を与えているのが、『イデア』なのである。
知性があり、イデアがわかっている人の例
花が枯れている。だが、すべての生きとし生けるものはみな、最期を迎えるのだ。私はこの花を通してそれを学んでいる。この花は、教師だ。
知性がなく、イデアがわかっていない人の例
花が枯れているな。もう価値がないな。さ、次の花を見に行こう。やっぱり花は咲いていないと美しくないからな。
このように、イデアというものは永久不変でそこに存在しているが、人がそれを把握しているかどうかは別だ。している人と、そうでない人がいる。しかし、誰もが知識を得ていき、知性を高めると、イデアが何であるかを知り、遠藤周作やヘプバーンの境地に達する。見た目だけじゃなく、本当の価値に目を向けるようになるのだ。
ここで『見た目だけじゃなく、中身を見る』としないことがポイントだ。別に『中身』が大事なのではなく、大事なのは『本当の価値』だ。よく考えればわかるように、中身自体も腐っている人がいるからだ。
へっへっへ。あの野郎騙されやがって。俺は詐欺師だから、表層で嘘つくのは簡単だからな!
と考えている人は、美しいだろうか。そうじゃないなら、大事なのは『中身』ではなく『本当の価値』ということになる。しかし先ほども言ったように、
といった歪んだ性質があると、『本当の価値』に気づけないままである。そこで軸になるのがソクラテスの言った『無知の知』なのである。
私は何も知らない。だから、本当に正しいことを知りたい。
そう感じる素直な発想があるなら、人は誰もがイデアにたどり着くことができる。そうじゃなく、今挙げたような歪んだ性質があると、
何言ってやがる、俺はもう全知全能だぜ!
ということになり、いつまで経ってもイデアにたどり着かない。プラトンは、師であるソクラテスが徹底して追求した『無知の知』を土台にして、その上で、このイデアにたどり着くように説いたのである。
プラトンは、イデアの上に更に『善のイデア』があると言った。これが最高の概念だ。
こう考えると、イデアを生み出すためには『善悪』を理解していなければならない。例えば先ほどのソクラテスの言葉を思い出してみよう。
『健康が善で、病が悪?それなら病にかかり旅を止めたら、乗船するはずの船が難破して、命を救われた人がいた。それでも病は悪か?』
善悪の判断は単純に、『健康=善、病気=悪』という決めつけではだめだ。もっと考え抜いて、真実の実態に近くなければならない。考えて、考えて、考え尽くす。そうじゃなければ善悪の判断はできない。そうやってまず善悪の判断がつくようになれば、おのずとイデアが何であるかも導き出せるようになる。
例えばこの例のように、健康だからといって必ずしもいい方向に向かうとは限らない。病気の人がそれをバネにして大きな成功をする人はたくさんいる。事実、偉人の中には病気や、貧乏、抑圧といった様々な『規制』の中で生きていて、その状況を打破するかのようにエネルギーを爆発させている。そう考えると、必ずしも『ピンチはピンチ』とは言い切れない。『ピンチはチャンス』かもしれないからだ。
そのように考えていくと、『真の善とは何か』という問いに答えるのは容易ではない。だからソクラテスのそういう問いかけに対し、正確に答えられる人はほとんどいなかったのである。だが、真理(イデア)というのはそういうものだ。そんなに簡単にたどり着けるものではない。世の中を見よ。世の大勢の人がそれが何であるかを未だに理解しておらず、人々に流され、
といった歪んだ性質で自分を塗り固め、今日も明日も生きながらえている。もう一度プラトンの考えをまとめてみよう。
こういった事態を受け、プラトンは人々に嫌気がさしていた。だからプラトンはこのような『認識論』だけじゃなく、『社会哲学』も扱った。国家というのは以下の3つの階級から成り立っている。
プラトンはこの順番で人々の階級をつけて考えた。それはそうだろう。偉大なる師匠を、誤った大衆たちに殺されたのだ。
あんな連中に、真実が何であるかを理解することはできない!できる人と、そうでない人がこの世にはいるのだ!
こう考えるのが自然である。そこでプラトンはこう考える。
統治者階級 | 理性 |
軍人階級 | 気概・勇気 |
労働者・芸術家階級(大衆) | 欲望 |
人の上に立つ者ほど、『理性』が求められると考えるわけだ。理性があれば、知識を求め、知性を得る。するとイデアにたどり着き、善が何であるかもわかる。そうなれば、ソクラテスのように『無実の罪で死ぬ人』を出すことはなくなるわけだ。
例えば現在で考えても、『裁判官』という職業に就く者に求められるのは、公明正大な見識と、身の潔白である。そういう人以外に正確なジャッジなどできない。時に人の命をも左右する裁判の最終判断を決める裁判官は、ここで言う『理性』を備え持っていることが必要不可欠となる。
これと同じような考え方で、プラトンは、人の上に立つ者には『善が何であるか』を理解していなければならないと考えたわけだ。このあたりの考え方は孔子のそれに似ている。また、大衆に呆れるあたりは、韓非子、マキャベリ、ナポレオンといった人物に似ている。
そして私の考え方にも似ている。私は何も勉強しない段階で下記の記事を書いたが、この話の中心になっているのが『真理』であり、プラトンはそれを『イデア』と呼んだというわけだ。
人間というものは、掘れば必ず同じ場所にたどり着く。ここにもこの『イデア(真理)』が関係しているはずだ。次はアリストテレスについて見てみよう。
次の記事
該当する年表
参考文献