アリストテレスの後の哲学はどうなった?わかりやすく簡潔に教えて!
アテネがアレクサンドロスに支配され、更にローマ帝国に飲み込まれたときに哲学にも多様性が見られるようになりました。
アレクサンドロスの影響で『ヘレニズム文化』というものが世界に広がりました。
ギリシア文化とオリエント文化が融合したこのヘレニズム文化は、アレクサンドロスの帝国とその後継王朝へ根付き、その後古代ローマに強い影響を及ぼします。これは『人間がすべての中心で、神を自分に近い存在とする』文化で、この影響で作ってはいけなかったはずの『仏像』が作られたりして、世界の形が大きく変わっていきます。そしてソクラテスが作った古代ギリシャ哲学の流れも、このヘレニズム時代から更に多様性が見られるようになりました。アリストテレスの後、
等の様々な哲学の考え方に分かれ、それぞれが『禁欲主義』をしてみたりして、独自の哲学を追求しました。欲望があると知恵を求める足かせとなるからですね。『ストイック』という言葉も、このストア派の考え方が語源です。
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上記の記事の続きだ。このようにして、
この3人が古代ギリシャ哲学を作った。彼らは西洋最大の哲学者として名を知られていくことになる。哲学の基礎を作った男たちだ。彼らが息をした古代ギリシャとは、『アテネ』の町である。だから、彼らの哲学はアテネで咲いた哲学だと言ってもいいわけだ。しかし、アレクサンドロス三世率いるマケドニアがギリシャを支配し、ローマ帝国に飲み込まれた。
次の哲学の舞台はアテネから『ローマ』へと移行することになる。そこにあったのは『ヘレニズム文化』だった。時代はまさにヘレニズム時代へと突入することになる。ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化はアレクサンドロスの帝国とその後継王朝へ根付き、その後古代ローマに強い影響を及ぼし、ペルシャのサーサーン朝などにも影響を与えた。
人間がすべての中心で、神を自分に近い存在とした。
下記の記事にも書いたように、ローマ帝国を作る時、その多様な国家間で、どの宗教を軸にするかということで揉めることになる。
それをどうまとめたかということは宗教編であるその記事に書いたので、今回は哲学編とう視点から、このローマにあった多様性を考えていこう。とにかくこのようにして、ヘレニズム時代というのは多様性があった。だから意見も様々なものがあった。ソクラテスが作った古代ギリシャ哲学の流れも、このヘレニズム時代から更に多様性が見られるようになった。
当時のヨーロッパの覇権の推移を見てみよう。
ヨーロッパの覇権の推移
ソクラテスやプラトンの時代は、『アケメネス朝ペルシャ』が世を席巻していた。だた、アリストテレスの時代にはもうアレクサンドロスが支配する『アルゲアス朝マケドニア王国』の時代だった。しかし、それはわずか13年で崩壊してしまった。アレクサンドロス三世率いるマケドニアがギリシャを支配し、その後ローマ帝国に飲み込まれた。
ローマ帝国の支配は紀元前27年からだが、アレクサンドロスが死んだ後からの300年も、ハンニバル等のローマ帝国の前段階の人々が活躍していた。今回は、そのあたりの哲学者たちについて見てみるというわけだ。
ソクラテスを師と仰ぐアンティステネスの弟子、ディオゲネス。犬のような生活を送り、樽の中にひた暮らすその様子から『犬のディオゲネス』、『樽のディオゲネス』とも言われていたという。師の教えを守り、物質的快楽を求めず、乞食のような生活をしたディオゲネスだが、ある日、そんな彼の下に、かのアレクサンドロス三世が尋ねた。ディオゲネスがあいさつに来なかったからだ。
大王は言った。
するとディオゲネスは言ったのだ。
かのハンニバル、カエサル、ナポレオンといった歴史上の人物から『大英雄』とみなされ、旧約聖書にも出てくるマケドニアの王、アレクサンドロス大王を前にして、その態度。しかし大王は、その帰り道でこう言ったというのだ。
この逸話からもわかるように、犬儒学派というのは、文字通り『犬のように』暮らし、物質的な欲求を持たないことが神に近く自由だと主張した。そのあまりの自由奔放な生きざまに、アレクサンドロスも呆れるのを通り越して、羨ましがったというわけだ。
エピクロスはどうか。彼もソクラテスの言うように『善』を求め、アリストテレスの言うように『人生の目標は幸福』だと考えたが、戦争や疾病等の様々な苦境を体験し、彼らの求めた理想に限界を感じた。エピクロスの考え方はアリストテレスの『中庸』に似ている。冒頭の記事に書いたように、中庸とはこういう意味である。
ほどほどに、ということ。過剰過ぎず、足りなすぎず。
ソクラテスもこう言ったが、
人はどの道食欲や睡眠欲を満たさなければならない。だから『足りない』だけでも生きていけないし、そしてそれが行き過ぎても贅沢となり、人を破綻させる。
人間の生存に必要最小限の欲望は満たす必要があるが、それ以外となると贅沢となる。だからそれらの欲求は絶つ必要がある。これはアリストテレスの言った『中庸』と同じであり、ソクラテスの言ったその言葉と同じ的を射ている。師匠たちの理想はもう通じないと考え、自分なりに幸福を求め、こういう発想をしたが、まとめてみると結局師匠たちと同じ的を射ていることになる。ただ、禁欲主義の哲学であって、師匠たちよりもより強い禁欲を求めたと言えるだろう。
ストア学派は、キプロス出身のゼノンが創設した。下記の記事に出てくるゼノンとは違う人物だ。当時は苗字がないのが当たり前なので、『キプロスのゼノン』等、地名と名前を合わせる言い方が多い。『ナザレのイエス』もそうである。イエス自身も多い名前だ。ヨハネという名前も多かった。とにかく昔は苗字がないのが当たり前だったので、少し紛らわしいということだ。
神殿の柱と壁の間に廊下ができるが、これを『柱廊(ちゅうろう)』と言い、ギリシャ語で『ストア』となる。ゼノンが主にこのストアで弟子に教えていたので、そこからストア派となった。
このストア学派も、ソクラテスの影響を大きく受けている。知恵を求め、善を知る。そういう人は幸福になる。というわけだ。そして人間はこの知恵を得るために一生努力し続ける必要がある。
これは例えば、宗教家、御木徳近のこの言葉を考えたときに意味が見えてくる。
人間が一生努力するのは『当たり前』なのだ。努力と創造をやめたとたんに、人ではなくなる。生物学的にはそうでも、例えば異常犯罪者を人とは呼べないように、ここで言う『人』とは、『人間の称号に相応しい人』のことなのである。すると、どうしてもそのライフスタイルは、犬儒学派やエピクロス派のように、『禁欲的』になる。欲望があると知恵を求める足かせとなるからだ。『ストイック』という言葉も、このストア派の考え方が語源である。
しかし、同じくストア派だったマルクス・アウレリウスが死んだことで、ローマ帝国は長い間混沌の闇に陥る。そして、哲学ではなく『神』を求めるようになるのだ。
宗教的発想に逆らう形で生まれた哲学も、最後の抵抗を見せた。プロティノスがその代表だった。『新プラトン主義』と言われた彼の考え方は、プラトンの『イデア』の考え方を、更に独自に進化させた。
プラトンは、イデアの上に更に『善のイデア』があると言った。これが最高の概念だ。
この『最高のイデア』である『善のイデア』を、プロティノスは『一者(The one)』と表現した。
プラトン | 善のイデア(イデア中のイデア) |
プロティノス | 一者(The one) |
このような流れで、完全なものから不完全なものへ下っていくと主張した。だから、下へ下っていくごとにその『質が落ちる』のもうなづける、という発想になる。上に行けば行くほど質が良くなる。そして『一者(The one)』というのが完全体ということになるわけだ。
一者(The one) | 神、真理と同義語 |
人間は努力と祈りによって、この一者(The one)の方向に近づくことができ、究極的にはそれと一体化できると言った。参考書ではここまでしか書いていないが、私はこのプロティノスの考え方は、非常に興味深いものだと感じる。それは下記の記事に書いた通りだ。
私は、イエスが『神を擬人化した』、と仮定した。そうすれば、それは『目に見える』ので、
という解釈に繋がり、人々はイエスの話を通し、神を見ることが出来るようになるわけだ。私のこの考え方は、プロティノスの考え方とそっくりなのである。
厳密に見ていけば違うかもしれないが、大体の発想が似ている。
だが、当時の人々は『神と人間の一体化』は認めなかった。厳密に言えば、プロティノスはイエスではなく、『その他の人々も皆』という考え方だったわけで、そのあたりも気に食わなかっただろう。哲学と宗教は対立の一途をたどることになる。
そして、ギリシャ哲学は1000年の歴史の幕を閉じることになる。そしてここから、『人間精神の暗黒時代』とも言われた中世とルネサンス時代に突入する。ここからは、どうしても哲学が『神学』と向き合わなければならない時代へと突入するのだ。
戦乱、疫病、政情不安定などの原因により、社会が乱れ文化の発展が著しく停滞したような時代。また、文明全体に及ぶ大きな事象でなくても、特定の芸術・技術・文化などが為政者や宗教組織から弾圧を受け衰退したり、革新者の不在などの理由で停滞した時期を指して、暗黒時代と呼ぶこともある。
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参考文献