暗黒時代(中世)にはどんな哲学があった?わかりやすく簡潔に教えて!
教父哲学、スコラ哲学等がありました。
中世はキリスト教が力を持ち、哲学が封印された時代でした。
教父とは、キリスト教を他教から守るという意味。教父哲学は、初期のキリスト教時代、うまくまとまっていなかったキリスト教の内容をまとめ、基盤を作るのに徹します。スコラ哲学もキリスト教を体系的に研究しました。つまり、中世の哲学というのはキリスト教と分けて考えることはなく、哲学の中心にはキリスト教があったのです。
ローマ帝国滅亡後(480年頃~)の諸国はキリスト教がまとめるのですが、哲学者(グノーシス派)と信仰者(テルトゥリアヌス派)で意見が対立してしまいます。アウグスティヌスがそれを調整するのですが、その時の発想がキリスト教の悪しき部分を助長させてしまい、キリスト教が権力を持ち、越権的かつ排他的になってしまいます。とにかくこの暗黒時代(中世)はキリスト教が力を持ち、哲学は『暗黒』に封印されたということです。
上記の記事の続きだ。このようにして、ギリシャ哲学は1000年の歴史の幕を閉じることになる。そしてここから、『人間精神の暗黒時代』とも言われた中世とルネサンス時代に突入する。ここからは、どうしても哲学が『神学』と向き合わなければならない時代へと突入するのだ。
戦乱、疫病、政情不安定などの原因により、社会が乱れ文化の発展が著しく停滞したような時代。また、文明全体に及ぶ大きな事象でなくても、特定の芸術・技術・文化などが為政者や宗教組織から弾圧を受け衰退したり、革新者の不在などの理由で停滞した時期を指して、暗黒時代と呼ぶこともある。
古代が終わり、近代にいたるまでの1000年間。ローマ帝国滅亡後の1000年間のこと。
この時代が『暗黒時代』と言われ、そして哲学から『神学』へと注目が集まったのは、それまでヨーロッパを支配していたローマ帝国が没落した事実があったからだ。その地を巡って様々な諸国が乱入してきて、地は混沌に陥った。その混沌を治め、秩序をもたらそうとしたのが、かつてローマ帝国の国教だった『キリスト教』だった。ローマ教皇とキリスト教は一目置かれていたため、みんな、それでなんとかなると思った。
ローマ帝国を作った時のようには納得しなかったが、それでもキリスト教はその1000年間のヨーロッパを掌握することになった。それは、『世界の終末論』という価値観が多様な神話と共通するところがあったからだ。
中世の哲学
教父哲学 | 4世紀~9世紀 |
スコラ哲学 | 9世紀~15世紀 |
教父とは、キリスト教を他教から守るという意味。教父哲学は、初期のキリスト教時代、うまくまとまっていなかったキリスト教の内容をまとめ、基盤を作るのに徹した。スコラ哲学もキリスト教を体系的に研究した。とにかく、中世の哲学というのはキリスト教と分けて考えることはなく、哲学の中心にはキリスト教があったのである。
だが、古代ギリシャ哲学からその考え方を受け継いだ者たちには、キリスト教のこの考え方は納得いかなかった。これに関しては私と両親の関係を考えればすぐにわかることだ。
私 | クリスチャンではなく、哲学者よりの思考を持つ |
両親 | クリスチャンであり、論理的思考を持たない |
私の両親は、物心がついたときからクリスチャンだった。私も気が付けば、どこかのキャンプ場のようなところで、賛美歌を歌っていたものである。しかし、物心がついて自我が発達してくると、次第にその行動に違和感を覚えるようになる。両親はそれでいいかもしれないが、この世にある様々な宗教、そして無宗教という立場もある中で、なぜ自分の心が求めていないのにクリスチャンにならなければならないか、到底納得することはできなかった。
両親は、『疑わず、主イエス様をただ信仰する』という考え方を貫いていた。しかし私は論理的思考を持つ人間であり、納得がいかないことに従事することはできない性格だった。私は自分のこの信念を貫けば、家族と不和になることはわかっていた。しかし、両親は『そこにつけ込んで』どこまでも自分たちの思想を私に強要してきた。
このような脅迫でもって、少年だった私の心を追い込んでいったのである。このようなことが当時の人たちにも起こった。哲学者たちは、
を用いて解決しようとしたが、結局『神の存在を頭から信じろ』というクリスチャンの発想を、受け入れられない人がいたのだ。
グノーシス派 | 合理的な発想をする人たち |
テルトゥリアヌス派 | 非合理な神を頭から信じる人たち |
そこに登場するのがアウグスティヌスである。キリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期(384年)を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ理論家である。彼はプラトン的発想を軸にしながら、この対立する2つの哲学を調整した。頭ごなしに信仰することができない人もいるので、彼は知性で神の存在を理解する考え方をしてみせた。
例えば、ユダに裏切られて十字架刑になるイエスの話があるが、神であればその事実を最初からわかっていたので、未然に防げたはずだという問いに対し、
と主張した。つまり、人間には過去や未来があって、いずれ寿命が来て死ぬ運命があるが、神にはそれがない。つまり、『時間の中で生きていない』わけだ。そう考えると、『未来にユダが裏切る』ということはわからない、という考え方をしたのである。『神が永遠』という言葉の意味を、そう解釈することで説明したのだ。
また彼は、
『悪は善の欠如した状態だ』
と言った。情欲を向かう心が悪であり、善が心を満たせば悪はなくなるという考え方だ。これに関しては私も近い発想を持っている。孔子に次いで儒教における重要人物と言われている『孟子』は『性善説』を唱えたが、韓非子の師でもある『荀子』は『性悪説』を唱えた。
まずは『孟子と性善説』だが、これは孔子の『忠信説』を発展させたもの。なお、今日『性善説』という言葉は『人は本質として善であるため、放っておいても悪を行わないとする楽天主義』という意味で用いられることが少なくないが、本来は正しくない。以下に解説するように、孟子も朱子も、人の『性』は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、『聖人の教え』や『礼』などによることが必要であると説いている。
[修行して善で悪を追い出す]
この考え方は、孟子とほぼ同時代を生きた古代ギリシャの哲学者、プラトンの考え方に似ている。プラトンも、
『人間は善に生まれたが、成長と経験で悪に染まる』
と考えた。『荀子と性悪説』だが、『人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり』(『荀子』性悪篇より)から来ている。ここで言う悪とは、『(人間は様々な意味で)弱い存在』という程度の意味であり、『悪=罪(犯罪あるいは悪事)』という意味ではない(「弱い存在」である人間が、犯罪や悪事に手を染めずに一生を終える、という事もありうる)。
[外部から後天的に善を積み上げる]
参考文献『Wikipedia』
『世界の宗教(教養マンガ)』
ちなみに私はこの二つの説を受け、『どちらも正しくて、どちらも不完全である』という印象を得る。更に言うなら、イギリスの経験論の父、ジョン・ロックは
『人間は白紙で生まれる。つまり生まれつき善でも悪でもない』
と考えたが、それを受けた上でも私の解釈は以下の通りだ。
この二つの事実が共存しているのが真実に近い。これらの表現の仕方は色々ある。
どんな言い方でもいい。こんなものはただの『日本語』だ。
ドストエフスキーがこう言い、
シェイクスピアがこう言い、
アインシュタインがこう言い、
パスカルもこう言った様に、
人間の心には常に善と悪が混在していて、それらが常に心の中で主導権争いの為に闘いをしている。そして、その闘いに勝った方が優位性を得て、『悪が勝った』なら、その人間は荀子の言うように『利己』に走るようになる。『善が勝った』なら、その人間は孟子の言うように『利他』に尽くすようになる。
その『心の中の闘い』のことを、イスラム教では『聖戦』と呼ぶ。本来、聖戦とはこのように人間にとって極めて重要な闘いのことであり、人を惨殺することを許可する考え方ではないのだ。
アウグスティヌスの、
『悪は善の欠如した状態だ』
という考えと、プラトンの、
『人間は善に生まれたが、成長と経験で悪に染まる』
という考え方が似ているのは偶然ではないだろう。現にアウグスティヌスは『新プラトン主義』を取り入れ、
『神は永遠の知性を持った存在であり、真理は神である』
と考えた。
しかしアウグスティヌスが考えた『原罪論』というのは、キリスト教の排他的で越権的な考え方を助長する一つの原因となる。
原罪論
聖者 | 信仰を持つ者 |
罪人 | 信仰を持たない者 |
アダムは自ら知恵の実を食べた。これによって人間は原罪を持つ。つまり、人には生まれ持って罪があるという設定になる。
神は楽園に人を置き、あらゆるものを食べて良いと命じたが(創世記2章15節 – 17節)善悪を知る知識の木の実のみは「取って食べると死ぬであろう」として食べることを禁じた。しかし蛇にそそのかされた女が善悪の知識の木の実を食べ、女に勧められたアダムも食べた(創世記3章1節 – 7節)。
ここで蛇は女に強制しておらず(強制できず)、女もアダムに強制しては居ないことが、女とアダムそれぞれ自身の意志によって犯された責任ある罪であることを意味するものとして言及される。
この原罪の考え方を軸に原罪論を追求するとなると、人々はやはりその重荷に耐えられず、
キリスト教徒にならなきゃ…
と思うようになる。同時にそこにあったのは、キリスト教が当時行っていた恐ろしい所業の数々である。
ヴォルテールは言った。
彼は1700年生まれの人間だが、この言葉はその時の様子を表す言葉としても通用するのである。だが、アウグスティヌスはローマ帝国が消滅する50年ほど前の430年に他界し、その宗教裁判所が作られたのは13世紀の初めだから、そこから900年くらいの間がある。簡単に言うが、とんでもない時間だ。だからアウグスティヌスがこのキリスト教の腐敗を助長させたわけではなく、長い時間をかけて、人間が権力に支配され、道を踏み外していったと考えるのが正しいだろう。
この宗教裁判には、後にガリレオもかけられることになる。
ローマ帝国の国教をキリスト教と定めたローマ帝国最後の皇帝テオドシウス1世は、ゲルマン民族をローマの同盟者とし、軍隊の即戦力とした。彼らと融和する対策を取り、382年、帝国内に最初のゲルマン国家が生まれた。しかし、彼の死後395年、ローマ帝国は東西に分裂する。キリスト教をローマのイデオロギーとし、ローマを再統一した彼だったが、分裂したローマが元に戻ることはなかった。
[テオドシウス帝の死直後(395年)のローマ帝国行政区画]
ローマ帝国が滅亡したのは480年頃だが、その100年前、アウグスティヌスが生きているときにはすでにローマが東西に分裂していたのである。その時から彼も色々とローマの為に尽くしていたということだ。
ローマ帝国をまとめたのもキリスト教。そしてローマ帝国滅亡後の諸国をまとめたのもキリスト教だった。織田信長は言った。
キリスト教は優秀な宗教だったがゆえに、その優秀さに自惚れ、腐敗していったのかもしれない。
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参考文献